御前にて、飢えの音
同じ頃、帝都。
御前会議の広間に、白い日差しが冷たく差し込んでいた。
長い円卓の上には、地図と報告書の束。
それを囲むのは、軍務卿、財務卿、各省の高官たち。そして、宰相リヒャルト。
ひときわ目立つ軍装の胸甲が、光をはね返す。
帝国軍総司令官ディートリヒ・フォン・アーネンエルベ。
その向かい側。
白手袋をわざとらしく鳴らしながら椅子にもたれかかる、太った大貴族――クロプシュトック伯爵。
さらに斜め上座には、細い笑みを崩さない皇弟アウグスト。
一段高い席には、沈黙したまま全体を見下ろす皇帝が座っている。
◇◇◇
官僚が、汗を拭いながら戦況の報告を読み上げた。
「兵糧が、各地で不足しております。倉の在庫は、一昨年の干ばつと人手不足が重なり――年初の予測を下回っております。このまま同じ徴発を続ければ、冬までに……」
クロプシュトックが、わざとらしく机を指で弾いた。
「ぬるい、ぬるい。泣き言は耳に障るぞ」
白手袋が、ぱちんと鳴る。
「“足りぬ足りぬ”と鳴く前に、やることがあろう。倉が痩せた?ならば領民の倉を開けさせればよいだけのことよ」
官僚の首がすくむ。
「す、すでに各地で臨時徴発を――」
「ならば二倍にせよ、二倍に!」
伯爵は椅子の背にもたれ、鼻で笑う。
「戦は気勢だ。声を高く上げて進めば、敵も逃げ、運もなびく。吠えれば鹿も跳ぶというわ。軍が腹を空かせてどうする」
(声で麦が実るなら、世界に飢えなど無い)
リヒャルトは、心の中だけで静かに毒を吐き、報告書を揃え直した。
◇◇◇
ディートリヒが、低い声で口を開く。
「兵は、気勢ではなく、補給の先に立つ」
彼は地図棒で山脈をなぞった。
「山脈地帯へ今以上に兵を詰めれば、糧秣線は伸び、冬の手前で腹が尽きる。兵力を減じ、防衛線をこちら側に引くべきだ。峠を押さえ、補給拠点を厚くし、冬営の準備を――」
その言葉を、アウグストが椅子を鳴らして遮った。
わざとらしく手を広げ、芝居がかった口調で笑う。
「おやおや。また“守り”の話か、ディートリヒ。耳が冬風で凍りつきそうだな」
彼はゆっくりと立ち上がり、広間を見回した。
「よいか?神聖国の炎は、海のごとく押し寄せてくる」
声が一段、芝居がかった調子で高くなる。
「岸辺で震えながら、防波堤を作るか。それとも、堤を越えてこちらから鎮めに行くか。“余”は、後者を選ぶ」
クロプシュトックが、すぐさま乗ってくる。
「皇弟殿下のお言葉、まさに玉条の如し!」
わざとらしく胸に手を当て、広間に響く声を張り上げた。
「必要なのは大兵力!山岳を制圧し、神聖の火とやらを鉄と血でねじ伏せる!宗教の脅威?笑止。帝国の剣が、真なる“善き戦”を示してくれよう!」
どこまでも大げさな言い回し。
言葉の飾りが厚くなるほど、その裏側――銀鉱山と利権への欲が透けて見える。
リヒャルトは視線を落とし、乾いた紙の匂いを静かに吸い込んだ。
◇◇◇
「補給線の試算を、お目にかけます」
リヒャルトの合図で、書記官が数表を広げる。
馬の飼葉、一隊の一日分の糧、峠越えにかかる日数、冬季の損耗率。
「山脈の向こう側に兵を十置くには、こちら側に、兵二十以上の糧が必要になります」
数字を指で追いながら、淡々と告げる。
「冬には道が雪で止まり、荷の半分は届きません。兵士は命令や気勢で動くのではない。腹で動きます」
ディートリヒが、静かに頷く。
「よって、防衛線案を進言します。グラウ峠に第一柵。麓に糧秣所。山は越えない。越えるのは、糧が満ちてから」
ディートリヒが地図棒で示しながら説明を続ける。
「三段柵と狼煙台で連絡を取り、山麓に冬営地を構築。砦は谷風を避け、水場に近い場所を選ぶ。それが兵を生かす道だ」
しかし、クロプシュトックは大げさな笑い声で遮った。
「柵?谷風?なんと小さき策よ!」
肩をすくめ、あざけるように笑う。
「帝国の剣は“前”に出るためにある。退くのは腰抜けの役目よ。“敗走”の準備を、御前で語るとは――総司令官殿も丸くなったものだな?」
(そんなに名が欲しいか。中身のない名を、よくもそこまで飾れるものだ)
リヒャルトは、心の中だけで冷笑した。
◇◇◇
「……宰相府の方からも、ひとつ」
リヒャルトは顔を上げ、紙束を軽く持ち上げる。
「声は条にはなりません。条がなければ、兵站は走りません」
彼は簡潔に告げた。
「すでに、南西直轄四郡で“農政改善室”を動かしています。家内油使用の除外、芋三掟、三書式。四旬(四十日)後には、“実収がどれだけ増えるか”の報告が出せます」
そして、はっきりと言い切る。
「腹から整えれば、兵は太ります。空の倉に命令を叫んでも、麦は湧きません」
アウグストが、半眼で笑った。
「畑の説教は、収穫祭のときにしてくれたまえ、リヒャルト。今は剣の季節だ。神聖国の炎は、畑の理では止まらぬ」
リヒャルトは、目だけで皇弟を見返した。
「そうです。畑だけでは止まりません。ゆえになおさら、“条”が要る。腹の音はどんな立派な命令でも黙りませんので」
淡々とした口調だが、その中に、かすかに冷たいものが混じっていた。
◇◇◇
皇帝が杖を軽く打つ。
乾いた音が、広間の石床に散った。
「……二案を出せ」
短い言葉。
だが、そのひとつひとつが重い。
「ディートリヒの防衛線案。クロプシュトックの越境攻勢案」
皇帝は、淡々と続ける。
「それぞれ、兵站の試算、冬季の損耗率、糧秣線。数字を添えて二案とせよ。三日後、あらためて審議する」
リヒャルトは、静かに頭を垂れた。
「拝命いたしました」
対して、クロプシュトックは大きく椅子を引き、白手袋を高く打ち鳴らす。
「よい、実によい!帝国の剣が前に出る案を、余さず示してみせようぞ!」
アウグストも、口元に笑みを浮かべたまま立ち上がる。
「勝利の姿を、三日後に並べようではないか。民草も、兵も、兄も、勝利を望んでいるのだからな」
リヒャルトは紙束を整え、冬の欄に目を落とした。
(声は麦を産まない。だが数字は、せめて“足りないこと”だけは教えてくれる)
数字は冷たい。だが、それでも、ここでは一番ましな“現実”だ。
◇◇◇
御前会議が解散となり、軍靴の音が遠ざかる。
広間には、紙とインクの匂いだけが残った。
窓の外の空は澄んでいる。
しかし、倉の底だけが冷たい。
そのころ、南西直轄の黒土では――休耕地に入れた落ち葉が、少しずつ甘い匂いに変わり始めていた。
声ではなく、順序で温められる、腹の準備。
剣が吠える都のその下で、畑は静かに、条を一本ずつ増やしていた。




