表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
農家の異世界奮闘記 ~理の目と鍬一本で、国を回し、神話を問い直す~  作者: 今無ヅイ
農家漂着編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/342

始動と、お嬢様のご帰宅

 数日後。

 宰相府の一角――白大理石の廊下の突き当たりに、新しい札が掛けられた。

 《宰相府・農政改善室》

 まだ金属の専用印章は鋳造待ちだが、書記局の受付番号と宰相の署名が、すでに“形”として十分に重かった。


 扉が開き、室が正式に産声を上げる。

 思惑どおり、貴族たちの視線は室長の肩章――クローディアだけに吸い寄せられた。

 その下に小さく名を連ねた農民の名など、数える者はいない。数える必要がない、と決めつけている。


 机の上には、布告の写し。板札の〈七か条〉。屋台用の〈薄金の一さじ〉札。

 A字水準器の簡略図、堆肥棒の使い方、共有黒板の運用法。

 紙と板と道具の準備は整っていた。


 クローディアは胸元の室札(仮の識別章)を指で押さえ、侍女長に一言だけ確認する。


「荷は、数えましたか」

「はい、殿下……いえ、室長。黒板二枚、白墨十二本、板札一式。種袋(麦と豆)は封緘済みです」

「ありがとうございます。では、参りましょう」


 クローディアはくるりと踵を返した。


「さっそく直轄領へ。モデル農場づくりに出発いたします」


 侍女隊が木箱を担ぎ、書記官が筒を抱えて廊下を走る。

 中庭に列が整うころには、クローディアはもう軽やかに愛馬に跨っていた。青銀の外套がひるがえり、手綱がきゅっと鳴る。


 対してツチダは、図面と板札、崩されては困る道具一式を抱え、馬車へ向かう。

 御者台に腰を下ろすと、胸元の仮の顧問証(羊皮紙)が革紐で小さく鳴った。紙でも、止められないための鎧になる。


 庁舎の窓辺では、リヒャルトとナイトハルトが並んで見送っている。


「……普通は、皇女が馬車で、農夫が馬ではないか?」

「はは。兄上、僕たちの愛しの妹が“普通”だったことが一度でも?」

「……ないな」


 門が開く。

 先頭には青銀の室長。続いて板札と黒板を積んだ荷馬。最後尾にツチダの馬車。


 クローディアは片手を高く上げ、声を通した。


「農政改善室、出発いたします。――皆さん、後ろを整えて。急がず、順番に」


 蹄と車輪が石畳を叩く音が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 帝都の赤煉瓦とガラスのきらめきの先に、南西直轄領の丘陵が横たわる。

 “御稽古事”に見せかけた本気の改革が、いま土の中へと入っていった。


 ◇◇◇


 やがて石畳は土の道に変わり、丘陵の稜線がやわらかな波のように続き始めた。

 果樹の列が風に揺れ、銀色の葉裏が陽を返す。


 白壁と青い屋根が見え始めたころ、道端で作業していた人々が一斉に顔を上げた。

 一拍遅れて、誰かの声が走る。


「お嬢様がご帰宅だぞー!」


 籠を抱えた少年が駆け、果樹園の男が肩の梯子を降ろし、女たちはエプロンの粉を払う。

 ただ、その輪の端――屋敷付きの管財官が、きっちりした顔で一度だけ周囲を見回した。人が集まりすぎるのは、いつも面倒を生む。


 やがて、りんご、小麦の穂束、根菜の籠を手にした領民たちが、思い思いの品を掲げて道に集まってくる。

 先頭に躍り出たのは、熟れた赤いりんごを両手で掲げた少女だった。


 クローディアは馬上から身を乗り出し、りんごを受け取る。

 受け取った瞬間、周囲の空気が少しゆるむ。――受け取ってくれる。拒まない。


 彼女は一口、ぱくり。

 しゃく、と澄んだ音。笑みが弾けた。


「……今年も良いですね。酸の芯がきれいです。リンゴ酒に期待してしまいます」

 少女の頬がぱっと赤くなる。

「収穫のあとは、日陰と風を。――忘れないでくださいね」


 その隣から、背を丸めた老婦人が、まだ土の湿ったにんじんを差し出した。

 クローディアはためらいなく下馬し、片膝をつく。袖でそっと土を拭った。


「これは……デイジー夫人の畑のにんじんですね?」

「ええ、室長さま……」


 “殿下”ではなく“室長”と呼ぶところに、彼女なりの気遣いが滲む。

 クローディアはそれを受け止め、やわらかくうなずいた。


「流石です。にんじんは、この甘みと瑞々しさが命。収穫は朝の涼しいうちに、葉はすぐに絞って束ねる――完璧です」


 そう言って一口。

 老婦人の目尻がぐっと緩む。


 クローディアは立ち上がり、泥の付いた手のまま、そっと手を差し出した。

 握手の輪がひとつ、ふたつとでき、笑いが波紋のように広がっていく。


 馬車の窓から、その光景をツチダが黙って見つめていた。


(――慕われる理由がわかる。同じ目線で受け取って、同じ泥に汚れるからだ)

(そして疎まれる理由も。高貴な身が土に膝をつく――それだけで、古い階級は顔を歪める)


 クローディアは鞍に戻り、声を張った。

 ただし、命令ではなく、共有の声として。


「ただいま戻りました。皆さん、お顔を上げてください。

 今日から、直轄で先に始めます。まずはモデル農場を作って、“見せて動かす”ところからです」


 侍女隊が荷車の幌を開ける。

 黒板、白墨、〈七か条〉の板札、A字水準器、堆肥棒、屋台用の〈薄金の一さじ〉札。

 そして小袋に詰められた種(麦と豆)。道具が次々に運び出される。


 子どもたちが目を輝かせて群がった。

 ツチダは馬車から降り、黒板を立てる。白墨をゆっくり走らせ、三行を書いた。


 ひとつ、水に道をつくる(雨の前に溝を一本。根は呼吸する)

 ふたつ、堆肥は「甘い匂い」まで待つ(刺す匂いのうちは入れない)

 みっつ、輪作:麦→豆→芋→麦(豆のあと、葉色が深くなる)


「今日からここが、帝国の“見本棚”になります」


 ツチダは周囲を見回し、穏やかに続けた。


「腹が先、税はあと。お腹を守って、流通で揃える。

 決め事は、誰が読んでも同じ意味。――この順序で、やっていきましょう」


 そばにいた子どもが、黒板を見上げて一行ずつ真似して読む。

 その声につられて、大人たちの口元もゆるんだ。


 クローディアは馬上から頷き、さきほどのりんごをもう一度、高く掲げる。


「早速、決め事を。りんご酒は日陰と風。麦粥は香草と酸。塩は――祝いの日に」


 風が果樹の葉裏を撫で、乾いた道の上に少し甘い匂いが混じる。

 ツチダは黒板の三行を見直し、白墨の先を指で整えた。


(見せる。置く。続ける。――まずは、この場所から)


 遠く、屋敷の鐘が二つ鳴った。

 モデル農場づくり、一日目。

 帝国の“見本棚”は、明るいざわめきの中で、静かに動き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ