学者、畑を拓く
会議がひと区切りついたところで、ツチダは静かに口を開いた。
長卓の上には地図と統計の紙束が広がり、印璽の蝋はまだ温かい。
「俺の信念は、だれも飢えない世の中にすることです」
それは飾り気のない一言だった。
「輪作も、堆肥も、道具の工夫もやります。ただ……明日から全部一気に変えるのは無理でしょう。土と同じで、長い呼吸が要ります」
リヒャルトが短く頷く。
「ふむ……その手の理論と学術は、弟の方が詳しいだろう。私は決まったことを国内へ発布する役だ。……呼ぼう」
しばらくのち。――ノックも待たず、扉が勢いよく開いた。
「クローディア〜、兄上〜、来たよ〜。“面白い人がいる”って聞いたから、急いできたよ~。僕史上最速。」
軽い足音とともに、三男――ナイトハルト・フォン・アーネンエルベがひょいと入ってくる。
片腕には本の束、もう片方の手にはインクで汚れたメモ用紙。髪は少し跳ね、目は好奇心で光っていた。
「ん?君は見慣れない顔だね…つまり君が?」
「ツチダです。畑担当です」
「畑担当!いいね。僕はナイトハルト。学問担当というか、理層の雑用係というか。君のことはクローディアから話は聞いてるよ。理を見る農家。確かに面白そうだ。よろしくね」
水を得た魚、というより、新しい土を見つけたモグラのような勢いで、ナイトハルトは長卓のそばに椅子を引き寄せる。
「じゃあ、早速だけど――学の側からも畑を広げようか」
そう言った瞬間から、止まらない専門会話が始まった。
◇
「まず地域差から行こうか。東部――レイト村のあたりは、冬が安定して寒くて、夏はそこそこ、認識合ってる?」
「はい。冬はしっかり凍りますが、雪が布団になります。春先の解け方もゆっくりです」
「うんうん、なら冬小麦とライ麦、それにジャガイモ帯でほぼ確定だね。で、ちっそ?……役割は理解したけど、まだ言葉がないな。豆を挟むと土の“力”が戻る、って説明で通せるかな?」
ナイトハルトの舌は軽い。だが内容は重い。
「いけます」ツチダもすぐに乗る。「豆→麦→芋→麦。豆のあと、葉の色が一段深くなる現象は、村々でも記録が多いです。“空の力を根が結ぶ”って言い方なら、現場にもすっと入ります」
「いいねそれ。“空の力”は詩的だし、学者にもウケる。じゃあ、その比喩を教本の最初に置こう」
ナイトハルトは手元の紙にさらさらと書きつけていく。筆致も早口だ。
「次。酸っぱさの問題――君が“ぴーえいち”とか言ってるやつだよね?」
「はい。酸とアルカリの度合いです」
「酸とアルカリ。それも新語だ。いまは数値で測れないから、指標を代わりに置かなきゃいけない。味と草相で読む、って案はどうかな?さっきクローディアから聞いたんだけど」
「それで行きましょう」ツチダはうなずく。
「スイバやギシギシがやたら生える場所は酸寄り。そこに灰を少量ずつ、堆肥と一緒に入れてやる。灰は“堆肥の友だち”って言っておけば、入れすぎも防げます」
「ふむ、“友だち”。良いね。あとは白亜が取れれば一番だけど……採掘はまた別の部署だな。メモしておこう」
ナイトハルトは指先で机をとん、とん、と軽く叩きながら、次の話題へと滑らかに移る。
「見えないものの話もしよう。君の言う微生物――この世界だと“ちっちゃい働き手たち”って言い方が良さそうだけど、どう?」
「現場ではそれで十分です。パン種も、酒も、酢も、姿は見えないけど『働いている』。堆肥も同じで、“働き手が起きて歌いだす匂い”になったら、畑に戻す合図だって説明できます」
「歌いだす匂い。いいねえ。じゃあ、堆肥については『刺す匂いから、甘くて丸い匂いへ変わったらOK』って書いておこう。感覚で判定できる指標は、多いほどいい」
会話のテンポは、まるで良く耕された畝を鍬がスッスッと進んでいくようだ。
クローディアは長卓の端で紅茶のポットを三度おかわりしながら、そのやり取りを眺めていた。
(よくあんな速度で、意味を詰め込めるものですわね……)
侍女が小声で「同時通訳が欲しゅうございます」と呟き、クローディアも心の中でうなずく。
一方リヒャルトは、最初こそ口を挟もうとしたが、やがて静かに腕を組んだ。
(こういうのは、やりたいやつにやらせておくのが一番だ)
従卒に私にも紅茶を、と言い、目の前の会議の観客になることにした。
◇
「南部丘陵はどう見る?」とナイトハルト。
「雨が強くて、土が流れやすい。斜面の途中から、赤土が顔を出しているらしいです」
「そのようだ。なら、等高線畝と段畑は必須だね。ここ、この線、わかる?」
ナイトハルトは紙にサッと山の断面を描き、ひょいひょいと線を引く。
「この“A字水準器”なら、木と紐と重りだけで作れる。僕たち学者が高価な測量器を抱えて山を登らなくても、村の人が自分で“水が笑う線”を探せるようにしよう」
「“水が笑う線”……」ツチダは少し笑った。
「いいですね。『水面が真ん中で笑ったらそこが正解』って覚え歌を子どもに教えれば、遊びながら測れます」
「そうそう。子どもが測れば、大人もついてくる。教育は下から攻めるのが一番速いからね」
ナイトハルトの口調は終始ひょうひょうとしているが、その内容は容赦なく核心を突いてくる。
「北部の寒いところは?」と今度はツチダが問い返した。
「北部ね。夏が十五度をなかなか超えない、冬は氷点下二十度コース。穀物は大麦とエンバク、畑はカブとビートみたいな根菜メインで行くのが妥当かな。――君の目ではどう?」
「同じ意見です。上に伸びるより、下に潜る作物ですね。根菜を貯める穴が要ります」
「だよね。で、そこが問題。深く掘りすぎると霜が降りて凍るし、浅いと凍る。……というわけで、僕の案は二穴式」
ナイトハルトはまた図を描く。丸い穴が二つ、細い通路で繋がっていく。
「本穴に食料。少し上に“呼吸穴”。ここに藁束を詰めて、湿りを吸いながら空気だけ通す。上に樹皮のシートを二枚、互い違いに重ねて、雪と雨を弾く」
「それなら行けます。村の資材で間に合いますし、手順も難しくない。図は……俺が現場用に少し描き直します。『呼吸穴』って言い方、好きです」
「お、気が合うね。じゃあ、兵站との兼ね合いで、“干草納付=人夫一名分/月”の換算表も付けよう。兵の胃袋も守れるし、村の背骨も折らない」
リヒャルトがここで口を挟む。
「その換算表は、私の方で条にする。“人夫の干草化”だな。数値は二人で詰めてくれ」
「了解、兄上。胃袋の学は、僕も得意分野だからね」
「胃袋の学……?」とツチダが苦笑する。
「そう。人は難しい理屈より、腹で納得するものの方が動くから。つまり君と僕は同業者だよ」
◇
「油の話も、もう少し詰めておこうか」とナイトハルト。
「家内使用限定、急がせない装置、売買禁止――までは、さっき決まりましたね」
「うん。ただ、“急がせない装置”って言い方が気に入ったんで、正式名称にしたいんだよね。低速圧搾器、とか堅苦しい名だけだと、覚えてもらえない」
「じゃあ二本立てにしましょう。条文には“低速圧搾器(通称・急がせない装置)”って書いておく。現場では通称が先に立ちます」
「いいねそれ。で、にがみ成分は“焦りの味”として説明する。温度を上げすぎると、油が怒る。怒った油は、“薄金の一さじ”が台無しになる――みたいな」
「『油が怒ると、白いソースが泣く』、って言葉も付けましょうか。マヨネーズ……あれは村でずいぶん評判でした」
「マヨネーズ。何度聞いても変な音だよねえ。でも覚えやすい。台所の条文第三款、“卵は橋”って章にしてさ」
「卵は橋……」ツチダは肩を揺らして笑う。
「『黄身と塩と酸い汁をよく練ってから、油は糸、混ぜは止めない』。そこは太字でお願いします」
「太字了解。印刷術が追いついたら、ほんとうに太字にしてやるから」
言葉の端々から、ナイトハルトが心底楽しんでいるのが伝わる。
学問を飾りとしてではなく、「使う理」として扱える相手を得た学者の顔だった。
◇
ツチダは、山のように積まれた紙束と図面を一度見渡し、それから指先で卓を軽く叩いた。
「教育の話も、もう一歩踏み込みましょう」
その一言で、ナイトハルトの目の色がぱっと変わる。もともと明るい瞳が、さらに一段階ギラリと増光した。
「お、いいね。僕もそこ、一番興味がある」
椅子の背にもたれていた上体を前に倒し、ペンを構える姿は、もはや獲物を前にした学者である。
「読み書きができない村には、板札版と口唱え版を併用する案は出ました」
ツチダは、レイト村の風景を思い浮かべながら言葉を選ぶ。
「……ただ、“誰が最初に覚えるか”を決めておいた方がいい」
「最初の読者、か」
ナイトハルトは楽しそうにその言葉を繰り返す。
「誰を想定してる?」
「子どもと、女の人です」
間髪入れずに返したツチダの声に、クローディアがちらりと視線を向ける。
彼は続けた。
「畑の段取りは男衆が主に回しますが、台所と水の管理は、だいたい女衆と子どもです。だから、“台所の条文”と“七か条”は、あの人たちが一番早く覚えるように作りたい」
レイト村の囲炉裏端、鍋をかき混ぜながら板札を声に出して読む女たちの姿が、ツチダの脳裏にちらりとよぎる。
それは“教科書”というより、“暮らしの歌”に近い光景だった。
「なるほどね」
ナイトハルトはペンの先をくるくると回しながらにやりと笑う。
「なら、文のリズムはもう少し歌寄りにした方がいいかな。“水に道をつくる/ねはこきゅうする”みたいな」
「そうです」
ツチダは頷き、手のひらで机をとんと軽く押さえた。
「レイト村では、あの一行、八歳の子でも覚えています。字はまだ拙くても、声で覚える」
「よし決めた」
ナイトハルトのペン先が、紙の上を勢いよく滑る。
「詩学科を総動員しよう。“条文韻文化計画”。整えたあと、詩人たちに渡して、子どもが口ずさめる形にする」
さらりと言ったその一言に、ツチダは思わず目を瞬いた。
「……そんな贅沢していいんですか?」
帝都の学問――特に詩学科といえば、王侯貴族のサロンを飾る華やかな存在らしい。
その筆を、畑と台所のために使うと言われれば、驚くのも無理はない。
「いいんだよ」
ナイトハルトはひょうひょうとした声で笑う。
けれど、その瞳は冗談ではない硬さを帯びていた。
「だって、彼らの詩が人を戦に駆り立てるくらいなら、畑と台所に駆り立てた方がよっぽど健全じゃない?」
戦歌が兵を動かすように、畑歌が鍬とお玉を動かす。
その光景を彼は、本気で“あり得る未来”として見ているのだろう。
「市場が薄い件も、教育と絡められるね」
思考の流れを切らぬまま、ナイトハルトは話題を滑らかに繋ぐ。
「雑穀粥は“負けの飯”って認識を変えなきゃいけない。“香草と酸でちゃんとした料理になる”って、歌にしておこう」
ツチダは少し考え、ふっと口元を緩めた。
「『塩は祝い、香草は日々の友』、みたいな歌詞なら、すぐ広がります」
祝いの席でだけ岩塩を使い、ふだんは畦の端の香草と、樽の中で育った酸い汁でごまかす。
そのささやかな知恵は、すでにいくつかの村で形になりつつある。
「いいね、それ」
ナイトハルトは即座に拾い、紙の端に大きく書きつけた。
「今ので一首できた。……クローディア、詩学科への予算、少し増やしてもいい?」
突然矢が飛んできて、クローディアは紅茶を飲みかけた姿勢のまま、ぱちぱちと瞬きをした。
カップの中で琥珀色の液面がゆらりと揺れる。
「詩で畑と台所が回るなら、私としては大歓迎ですわ」
彼女はそっとカップをソーサーに戻し、いつもの落ち着いた声音で答える。
「父上には“戦歌より畑歌の方が安上がりです”と申し上げます」
戦の準備には、金と血が要る。
畑と台所の準備には、少しの紙と、少しの歌があればいい――そう言外に含ませて。
「さすが僕の妹」
ナイトハルトは満足げに笑い、ペン先でテーブルを軽く叩いた。
その音は、まるで新しい畝に最初の鍬を入れる合図のように、部屋の空気を少しだけ明るくした。
◇
気づけば、長卓の上は紙片と図の森になっていた。
堆肥棒の挿し方の図、二穴式貯蔵穴の断面、A字水準器の簡略図、“急がせない装置”の構造図、“卵は橋”の説明図――。
クローディアは端でポットを置き、「いつの間にこれほど……」と呟く。侍女は「おかわりをお持ちしましょうか」と言いながら、つい図を覗き込んでしまう。
リヒャルトは腕を組んだまま、静かに結論を口にした。
「……よし。学が理を組み、畑の手順に落とす。私は条にして全国へ流す。クローディアは現場で泥を一掴み、言葉を一掬い。役割が、きれいに分かれたな」
クローディアが笑顔でうなずく。
「私は理由と目的を橋にいたします。畑と学と条、その三つを繋ぐ役を」
ナイトハルトが親指を立てる。
「第一回・学農合同耕盤会議、成立ってところかな。――兄上、印璽、お願い」
リヒャルトは印璽を押しながら、諦観ではなく安心の吐息を落とした。
「任せよう。私の役目は道に条を敷くことだ。君たちは、その上を好きなだけ走れ」
窓の外で、帝都の鐘がひとつ鳴る。
紙の上で芽を出した“学”と“畑”の理は、もう条へと伸びはじめていた。




