黒い炭の字、開かれた畑
収穫季が終わりかけた午後、村道に見慣れぬ歩荷の影がいくつも揺れた。
肩に縄をかけた男衆、布頭巾をかぶった女衆、手には干し麦の土産、腰には小さな茶壺。
名乗りは、同じ領内の村々――グロースフェルト、フロイデン、ヴァイツェン。
彼らは、噂を辿ってやって来たのだという。
「この村に、土の声を聞く百姓がいる」
「芋を人に食わせ、木の実から油を出した」
「水車を粉だけじゃなく、畑の道具にした」
村長ハンスが目を丸くして客を迎え入れ、ツチダを呼んだ。
ツチダは話を聞き終えると、一度だけうなずき、すぐに外へ出る。
「畑へ行きましょう。俺にできる話は、土の上がいちばん早い」
その日、柵の内側に粗末な長机が二つ運び込まれた。
板の上には炭筆、縄で綴じた紙束、拾った小石と刈り株、油の壺、そして――看板〈ツチダ〉。
「隠すことはありません。ぜんぶ話します。書けることは紙に、見えることは土に描きます。代金はいりません。みんな、同じ腹ですから」
人々のあいだから笑いが起こり、誰かが小声で言う。
「ほんとに百姓みたいな言い方をする」
「百姓ですから」
ツチダは肩をすくめ、炭筆を取った。
まず、彼が土の上に描いたのは、矢印と線だった。
畝の向き、溝の位置、風の流れ。
「今年の収穫が終わったら、雑草と刈り株は畑に返します。
ただし、腐りかけの“生ごみ”のまま入れるのは駄目です。匂いが刺すうちは“土のごはん”になりません」
紙束に、簡単な言葉が増えていく。
藁を敷いて、その上に家畜の糞。さらに木灰と落ち葉を重ね、上から水を少しだけ。
それを繰り返して山にし、足でぐっと踏む。
「真ん中に棒を一本挿しておきます。翌朝、この棒を抜いたときにあたたかかったら、“発酵が生きている”合図です」
子どもたちが目を丸くする。
「発酵?」
「目に見えないちっちゃい奴らが、ここでごはんを食べて、土のために働いてくれてるんです」
ツチダは刈り株と落ち葉を指でもみほぐし、油の搾りかすをひとつまみ混ぜてみせた。
「こういうのを全部まとめて、“肥料”って呼ぶと難しくなります。この村では、**“土のごはん”**って言い方で覚えてください。すぐには変わりませんが……春が見ています。これが“待つ理”です」
人々は真剣な顔でうなずき、炭の字をのぞき込む。
次に、彼は土の上に大きな丸を三つ描き、そのあいだを矢印でつないだ。
「次の話は“来年をやせさせない輪”です。麦ばかりだと、土は息切れします。そこで――」
丸の中に、ゆっくりと字を書き込んでいく。
麦 → 豆 → 芋 →(麦)。
「この順番で、場所をぐるぐる回します。豆の根には、小さな職人がくっついていて、目に見えないけれど土を肥やしてくれる。芋は、“納税の外にある腹”を守る役目です。役人の帳面は麦を見ますけど、みんなの腹は芋で満たす」
フロイデン村の古株らしい男が、腕を組んだまま眉をひそめた。
「芋は毒と聞くが」
ツチダはすぐに紙の端に大きく三本線を引き、その下に太い字で書いた。
「芋には“掟”が三つあります」
一つ、緑は捨てる。
皮が緑になった芋、芽の周りは深くえぐって、惜しまず捨てる。
二つ、暗い場所で保管する。
光に当てない。苦かったり、変な匂いがしたら食べない。
三つ、少量・慎重・記録。
まずは少しだけゆでて、大人が味見。おかしいと思ったら、その場で全部やめる。
「命に嘘はつきません。苦味は“危ないぞ”という合図です。ここだけは絶対に守ってください。広げるのは来年。まずは小さな試しの畑で、少しずつ進めましょう」
男はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「掟ごと教えてくれるなら、守りようもある」
今度は、油の壺の蓋が開かれる。
青い香りがふわりと広がった。
「次は油の話。“液体の薪”です」
ツチダは、帝国での油事情をかんたんに語った。
菜種やヤシの油は高く、貴族や町の家でしかほとんど使われないこと。
ここは内陸で、塩も山を越えて運ばれる分だけ高価なこと。
「でも、この村にこの……油の実がなる林があり、川があり、水車があります」
防風林の木の実を、叩かずに手で撫で落とすやり方。
葉と小枝をふるいにかけて分け、川で短くすすぐこと。
粉挽き小屋の水車を少し借りて、石臼を“ゆっくり”回すように木歯車で調整すること。
「潰したら、囲炉裏の脇に置いて、人肌くらいにあたためます。急に熱くするとえぐみが立つので、あくまでゆっくり。とろっとしてきたところで布袋に詰めて、梁と石のおもりでじわじわ押す。油は上、汁は下。夕暮れまで、ただ待つだけです」
グロースフェルトの女衆がそっと手を挙げた。
「塩が少ない村では、味はどうする?」
ツチダは畦から摘んできた針のような葉と、酸っぱい葉を刻んで見せた。
「塩は“祝い”の日に。普段は、香りの強い草と、酸っぱい草で味の輪郭を足します。麦粥に香り油を一さじ落とすだけで、体が温まりますよ」
紙束にはまた一行が増える。
塩=最後のひと押し/ふだんは香りと酸で支える――と。
やがて、ヴァイツェンの若者が、おずおずと口を開いた。
「領の役人は、なんでも“違法だ”と言う。油の壺は商会の専売だとか、芋は家畜のものだとか……」
ツチダは「そこですね」とうなずき、炭筆で四角い枠を描いた。
「言葉も、少しだけ工夫しましょう。嘘はつきません。角を立てないだけです」
油は、“灯の補助”か“香り付け”。
芋は、“飼料芋(味見済)”。
排水工事は、“畝の手入れ”“雨道の掃除”。
肥料は、“土のごはん”。
「役人には“数字”が必要です。なら、来年の数字が減る理由を口で怒鳴るんじゃなくて、紙にして渡す。これも立派な“理”です」
紙束の一枚を破り、ツチダはさらさらと文の形にした。
『輪作を行わず豆を減らすと、来年の収穫は二割ほど落ちる見込み。理由は、土の呼吸が弱まること、小さな職人(豆の根のはたらき)の減少、水はけ不足と、未熟な堆肥の危険。』
「難しい言葉は使いません。子どもが読んで分かるなら、役人にも通じます」
日が傾き始めるころ、ツチダは小さな板切れを七枚持ってきた。
炭筆で、大きく太い字が踊る。
土は急がせない(堆肥は匂いが甘くなるまで)
水に道をつくる(溝と明渠、余裕があれば暗渠。根は息をする)
麦ばかりにしない(麦→豆→芋→麦の輪)
芋には三つの掟(緑は捨てる/暗所/少量・慎重・記録)
油は林と川の恵み(撫で落とし/臼はゆっくり/押しはじわり)
塩は祝い(普段は香草と酸)
理は独占しない(紙に書いて、隣に渡す)
板は手から手へ渡り、指でなぞられ、口に出して繰り返された。
「理は独占しない」という一行のところで、多くの肩がふっと軽くなるように見えた。
日が落ち、囲炉裏に火が入るころには、話は質疑の形になっていた。
「pHってなんだ?」
「土の“気性”です。酸っぱすぎても、しょっぱすぎても、どっちも育ちにくい」
「色が見えるって本当に?」
「俺にだけ見える、“目印”みたいなものです。でも、見えなくてもできるように、全部手順に直して紙に書きます」
「税はどうする?」
「納めるものは納めます。そのうえで、腹の理を痩せさせない。芋と油が、その橋です」
子どもが一人、遠慮がちに手を挙げた。
「字、教えてくれる?」
ツチダは笑ってうなずいた。
「もちろん。紙がなければ板でも、地面でも。字があれば、今日の話は明日も生きます」
笑いが広がり、囲炉裏の火がぱちぱちと高くなった。
村長ハンスがその様子を見ながら、ふと目を細める。
「お前さん、ほんにまじめな百姓じゃのう」
「ええ、土を放っておけない性分で」
ツチダが照れくさそうに返すと、また笑い声が弾んだ。
***
翌日から、炭の字を写した紙束が、村から村へ歩き始めた。
縄目で綴じられた薄い冊子には、拙いが誰にでも読める言葉が並ぶ。
“七か条の板切れ”は写し木で増やされ、各地の畦に打たれた。
水車のない村は、人の手臼で実を練り、
川の流れのゆるい村では、子どもたちが押し棒を引いて臼を回した。
夕方になると、どこかの家から油の香りが立ちのぼる。
麦粥にひとさじの香り油が落とされ、
芋の三つの掟を書いた板が戸口の横に打ちつけられ、
堆肥小屋からは、少し甘い匂いがするようになった。
噂は、良い方にも悪い方にも速い。
「色を見る百姓が、理を配っている」
「芋で腹を守り、油で塩を節約する術を教えた」
「納税の“数”が狂うのでは、と役所が眉をひそめているらしい」
その夜、ツチダは観察ノートの最後のページを開いた。
理は、独占すれば濁る。分ければ澄む。
――けれど、濁りを愛する者も、この世にはいる。
炭筆の先を止め、静かに息を吐く。
(来るなら来い。耕す相手が、土から人に変わるだけだ)
戸口で気配がして、村長ハンスが入ってきた。
「ツチダ殿、客が増えた分、米の粥が少し薄うなったが――腹は、なんだかあったかいのう」
「油のせいです。薄金色の薪が、みんなの中で燃えてるんですよ」
二人は顔を見合わせて笑い、囲炉裏の火に油を一滴落とした。
炎がふわりと広がり、薄金色の光が天井に揺れる。
外では、遠くの道に小さな灯が点る。
役所の灯か、それともただの旅の灯か。
どちらにせよ、道はもうついた。
――理は独占しない。
炭の黒い一行が、紙の上から飛び出して、
村から村へ、土の上を静かに歩き始めていた。




