風と土と、ひとすじの理(ことわり)
北海道の片田舎。
昼を過ぎても空は重く、風はうなり声のように吹き荒れていた。テレビでは「観測史上最大級の台風」と繰り返している。
「……あの水路、また溢れてないよな」
土田耕平は、頭の中が自分の畑のことでいっぱいだった。
長靴を履き、カッパを引っかけ、軽トラの扉をガンと閉める。
外に出た瞬間、嵐が体を叩いた。雨粒が弾丸みたいに顔に当たる。
それでも、耕平の足は自然と畑へ向かっていく。
――農家ってのは、天気が悪いほど動く生き物だ。
畑は子どもみたいなもんで、置いて逃げるなんてできない。
「まぁ、見に行くだけだって。ちょっとだけ」
そう自分に言い訳しながら、彼は何度もこうしてきた。
ツチダ家は代々農家だ。祖父の祖父の代から、泥と風と土で飯を食ってきた。
耕すのが好きだった。芽吹きの匂い、初夏の風、土の温度――全部が自分の人生だった。
誰に褒められなくても、苗が元気ならそれでいい。
そんな真面目で、不器用な男だった。
軽トラは台風の風を切り裂きながら、泥道をゆっくり進む。
水路の先に見えた彼の自慢の畑は、奇跡のように無事だった。
「……よかった」
息をつき、腰を伸ばした――その瞬間だった。
――ゴウッ。
山の方から雷みたいな音がした。
振り向く。
白く泡立つ濁流が、信じられない速さで迫ってくる。
「……鉄砲水――っ!」
反射的に走った。
けれど足元の土が崩れ、視界がぐるりと回転する。
水も、風も、音も。
全部が一瞬で押し流した。
叫ぶ暇も、息を吸う暇もない。
風の音も、雨の音も遠ざかる。
最後に見えたのは、空を覆う灰色の雲と――あの畑だった。
「……頼む、みんな、無事で……」
祈りは、濁流にさらわれた。
しかし次の瞬間。
泥の匂いが消えた。
音も、風も、すべてが止まった。
視界が真っ白になる。
体がふわりと浮き、熱も痛みも消える。柔らかな光に包まれていく。
不思議と怖くなかった。どこか懐かしい。
――ああ、土の匂いだ。
懐かしい“土”の匂い。だが、あの畑の匂いじゃない。
ゆっくりと目を開ける。
そこには、見たことのない青空と、金色に光る大地が広がっていた。
農を愛した男は、その日、ひとすじの理の世界に転生した。




