デモ飛行(1)
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午後3時 、F3A日本選手権の予選第一ラウンドが終わり、笠岡飛行場に静かさが戻った。
F3Aに規定されている演技フレームに太陽が侵入して来るため、日暮れまではまだまだ時間はあるが、滑走路にラジコン機と選手は居なくなった。
「さあ、競技は終わりましたね、松川さん」
スピーカーから、若い女性の声が聞こえた。
「そうですねー 選手の皆さん、第1ラウンドお疲れ様でした」
松川と呼ばれた男が、相槌を打つ。
「それでは、これからは私、浅井と……」
「……私、松川の案内で、実機のグライダーやオートジャイロ、ウルトラライトやアクロバット機のデモ飛行を行います」
そう……成田の予定通りに、世界選手権に向けたデモ飛行のトライアルが始まったのだ。
「パチパチ……」と、まばらな拍手が起こった。
ブーン、ブーンと軽い音を立てて、小さな飛行機が滑走路の上を飛んでいる。
「先ほどから飛んでいるのは、何と言う飛行機ですか? 松川さん」
「ウルトラライトのドリフターと言います。 けっこう有名な機体ですね……」
次々と飛び上がる飛行機を、放送席の二人が紹介していた。
「……翼の長さは9メートル。 エンジンは48馬力です」
「意外と小さなエンジンで飛べるのですね」
「そうですね。 空を飛ぶだけなら、そんなに大きなエンジンは要らないんです。 ライト兄弟のフライヤー……史上初めての飛行機ですね……これは、12馬力だったそうですから」
「そうなんですねー 普通の……私達が空港で乗るような……そんな飛行機もそうなんですか?」
「いや、実用機は……空港から空港へと飛べる飛行機は……100馬力以上は有ると思いますよ」
「その違いは、何故ですか?」
「やはり、空港から離れるということは、変化する気象に対応せざるをえない訳ですから、パイロットを守るしっかりした胴体や丈夫な翼など、重くなるんですよ。 そうなると、エンジンの馬力も必要になるんです」
「そうですか……私は大きさが違うからだと思いました」
「それも有りますが……もっと後に飛行をする「エクストラ300L」というアクロバティック機などは、翼の長さは8メートルとウルトラライトより小さいですが……えーっと、300馬力かな? そんなエンジンが付いています」
「それは凄いですね……あ、今訂正が入りました。 えーと「エクストラ300L」ではなくて「エクストラ300LX」だそうです」
「「300LX」ですか? 「330LX」と言うのは知ってますが……「300LX」と言うのは知らなかったですね」
「松川さんでも知らない事があったんですね……」
マイクのスイッチを切ったのか、少し間があった。
「……失礼しました。 この辺をお尋ねしようと、パイロットのサクラさんをお呼びしたいと思います。 戸谷サクラさーん! 本部のテントまでお越し下さーーい!」
まるで場内放送のように、浅井は呼びかけた。
「ん? 今呼ばれた?」
サクラは、件のサクラ吹雪フライトスーツを着て「エクストラ300LX」の近くに立てたテントの中に居た。
「うん。 本部テントに来てだって」
そこには博美も居た。
「んー 何だろう?」
「飛行機の事を聞きたいみたいだよ」
首を傾げるサクラに、博美が教えた。
「「エクストラ300LX」のパイロットのサクラさんに、来ていただきました……」
テントに来たサクラは、放送席に座らされていた。
「……意外と、って言ったら失礼ですが……お若いですね」
「はい。 20歳です」
「いや、若いだけでなく……美人さんですよ」
「えー……どういう風に答えたら良いんですか?」
「松川さん、そういうのは「セクハラ」になりますよ……」
浅井が、横から釘を刺した。
「……それにしても、日本語がお上手ですね。 えーっと、出身はどちらですか?」
「ハンガリーです」
「音声だけの放送ですので、離れている方は分からないかもしれませんが……サクラさんは、赤毛のセミロングです。 日本人離れしてるなー、と思ってましたが……ヨーロッパの方でしたか」
「あ、でも……今は日本人ですよ。 戸谷家に養子に入りましたから」
「そうなんですね。 飛行機のライセンスは?」
「基本的な物はハンガリーで……日本に来てからライセンスを切り替えて、それからエアロバティックの練習をしてます」
「女性がアクロバット飛行をするのは、珍しいですね」
「そうですか? ヨーロッパやアメリカではよくある事ですよ」
「浅井さん……」
セクハラと言われ、おとなしくなっていた松川が横から口を挟んだ。
「……飛行機でのアクロバット飛行は、エアロバティックと言うんですよ。 世界選手権に女性部門もあるくらい、西洋では盛んですね」
「そうですね。 メラニーさんやキャパニナさんなんかが有名ですね」
こういう話題なら、サクラも松川と話ができる。
「彼女たちは、何度も女性チャンピオンになってますね。 皆さん美しいし……」
「松川さん? セ・ク・ハ・ラ」
浅井が割り込んだ。
「……あ……ごめんなさいね。 つい……」
松川が、小さくなった。
「まったく……サクラさんに来て頂いたのは、何の為でしたっけ?」
浅井は、本来の目的を思い出した。
「そうです、そうです。 忘れてました……」
松川は、咳払いを一つした。
「……サクラさんの飛行機は、どういう機体なんでしょう? 「エクストラ300L」というのと「エクストラ330LX」というのは知ってますが、それを足して割った様な「エクストラ300LX」というのは、私は知らないんです」
「えーっと……その足して割った物なんです……」
サクラは、苦笑した。
「……あれは兄の吉秋の使っていた物で……元は「エクストラ300L」だったんです。 そのエンジンを壊してしまって、代わりに「エクストラ330LX」用のエンジンを付けたんです。 だから少しパワーアップされてます。 ほんの5パーセント程度ですけど」
サクラは本人なので、その辺の経過は誰よりも詳しい。
「吉秋さんとは……戸谷吉秋さんの事ですか? 事故で亡くなられた」
流石に、松川は知っていた。
「そうです。 私の目の前での事故でした……」
サクラは、きつく目を瞑った。
「……そんな事もあって、私は日本に来たんです」
「そうでしたか……」
放送席が「しんみり」してしまった。
「エクストラ300LX」の側に帰ったサクラの前を、バギーに引かれたグライダーが通っていった。
ウルトラライト達は全て着陸していて、今は滑走路が空いている。
「さて……ウルトラライトの飛行は終わりました。 で、これからはグライダー、という事ですが……」
放送席では、浅井と松川が相変わらず話している。
「そうですね。 今回は全て、動力を持たないグライダーですので、滑走路までも自力では行けないんです」
「それで小さな車で引いていくんですね。 えーっと、空に上がるには?」
「軽飛行機で引っ張って離陸します。 そこでエンジンを回して待機してますね」
そう……エプロンには小さな高翼機……翼が胴体の上に付いている……俗に「セスナ」と言われる形……の軽飛行機がアイドリングをしていた。
「可愛い飛行機ですね。 何という名前ですか?」
「「ハスキー」と言います」
「ワンちゃんみたいな名前ですね。 でも……グライダーを引っ張って離陸するんですから……きっとエンジンは大きいんでしょうね」
「そうですねー 180馬力ですから……ちょうどセスナ……よく遊覧飛行なんかに使われますね……あの飛行機と同じくらいですね。 あれは4人乗りですが、この「ハスキー」は二人乗りで軽くできてますから……エンジンには余裕がありますね」
「あ、動き始めました」
エンジンの音が少し大きくなり「ハスキー」は誘導路に向けて動き出した。
いつの間にかグライダーは、滑走路の先に行っていた。
グライダーを引いて離陸していった「ハスキー」は、割とすぐに滑走路に帰ってきた。
「松川さん、あれでどの位の高さなんでしょう?」
空を見ると、先ほど上がっていったグライダーが「ポッカリ」と浮かんでいた。
「そうですねー おそらく1200メートル位でしょうか……」
「よく分かりますね」
「いや……今日の飛行計画がそうなってる、って事で……」
「あ……そうですか。 っと、次のグライダーはさっきのと比べてコンパクトに見えますね」
今、バギーに引かれていくのは、ラジコンのスタント機を少しスマートにした様な形をしていた。
「あれは「フォックス」というエアロバティック用の機体です」
「エアロバティックって言うと……アクロバット飛行ですよね。 グライダーでも出来るんですか? エンジンは付いてませんよね」
「出来るんです……」
松川の声は、何故か自慢げだ。
「……あの「フォックス」はプラス9Gからマイナス6Gまで耐えられますから……宙返りなどは余裕ですね」
「その「G」というのは? 台所に出没する、黒光りした「G」とは違うんですよね」
「勿論……私も、その「G」は苦手ですから……」
「ですよねー」
「……この場合の「G」は、重力加速度ですね。 地上に静止している状態を1Gとして、その何倍の重力が掛かっているかを表します。 例えば宙返りの場合……最下点で4Gほど掛かります。 というか、それだけ掛けて飛ばないと、頂点で失速してしまいます」
「先ほどの話からすると……重力が4倍になったようなものですか?」
「そうです。 もし浅井さんが45キロだとしますと……180キロになるようなものですね」
「そんなに軽くないですが……」
浅井の声は、小さくなった。
「……えっとー 180キロといえば、お相撲さんぐらいですか? それに耐えて、パイロットは操縦しているんですね」
「そうですね。 あの優雅に見える……気持ち良さそうに見える宙返りでさえ、大変な操縦だと分かると思います」
「先ほど来て頂いたサクラさんの「エクストラ300LX」は、何Gに耐えられるんですか?」
「あれはプラス、マイナス10Gです」
「そんなに! 体重が10倍になっても良い……なる事もある、って事ですよね」
「そうですね。 しかも、マイナスも有りますから……逆立ちして、10倍の重力に引かれる訳ですね。 逆宙返り等ですかね」
「あんなに可愛いサクラさんは、そんな大変な事をする訳ですね」
「浅井さん。 セクハラじゃないんですか?」
「あ! 女性が女性を評価するのは良いんです」
「そ、そうですか……」
松川は「理不尽」という言葉を飲み込んだ。
狭いコックピットの中で、坂井は素早く左右を見た。
左下方には、さっきまでこの「フォックス」を引いていた「ハスキー」と、小さく笠岡飛行場が見える。
「(……よし、オールクリアー……)」
頷くと坂井は、計器盤の正面に貼ってあるメモに目を向けた。
「(……ハーフロール、ハーフループ、フルロール……スタート140……)」
そこにはこれから行う演技がアレスティコードで、そして開始するときの速度が時速で……グライダーではメートル法を使う……書かれていた。
「(……まだ……まだ……)」
時速140キロの速度になるようにスティックの位置を合わせ……動力を持たないグライダーは、操縦桿の押し引きで速度を調整する……坂井は飛行場が真横に来るのを待った。
「(……よし!……)」
気合を入れると、坂井はスティックを左にイッパイ倒し、左ラダーペダルを踏んだ。
「フォックス」は左に回転する。
「(……んっ!……)」
空と大地が回り夫々が普段と入れ替わったとき、坂井はスティックを右に一瞬動かした後中立にした。
「フォックス」は背面飛行の姿勢になり、坂井は少しスティックを引いた。
当然機首は下がり、機体は下を向く。
高度が下がると、その分の位置エネルギーが速度エネルギーに変換され……つまり速度が上がる。
速度が上がるに連れて、坂井はスティックをさらに引いていく。
Gはどんどん大きくなり、最下点で水平飛行の姿勢になったとき、4Gになっていた。
「(……くっ!……)」
地平線を正面に捉えると、坂井は再び左ロールの操作をした。
「ぐーーーん」と長い翼を回転させた「フォックス」は、時速250キロで水平飛行に入った。