最終話
黒く写っているのが羊水で、ここに見える点が大きくなったら赤ちゃんになりますよ。診察した医師からそう説明された時、とても坦々とした口調だったのに、泣きそうになったと、エコー写真を僕に見せながら麻紗子は笑った。
白黒写真の中のゴマ粒のような点が、自分の子供だということにはまったく実感が湧かなかったけれど、幸せそうな嫁さんの顔を見ていると、幸福感がじんわりと胸に広がった。
***
休日、目覚ましではなく蝉の鳴き声で目が覚めて、朝からちょっと気が沈む。
肘をついて布団から起き上がる。あくびをしながら隣、ベッドで寝ている麻紗子をみる。最近ようやくつわりが治まってきて、夜中吐き続けて寝れない状態からは脱したようだ。
やっと朝まで眠れるようになった麻紗子を起こさないように、僕は着替えを持ってそっと寝室を出る。
妊娠がはっきりしてから同じベッドで寝るのは止めていた。僕の寝相は悪くはないけど、寝返りをうった時に『もしも』手や足が麻紗子のお腹に当たったら……そんなことを一瞬でも考えてしまうと怖くて添い寝ができなくなった。なのでベッドの横に布団を敷いて別で寝ている。
リビングへ入りひとまず窓を全開にし、扇風機も強にする。むあっとした暑い空気がかき回される。ある程度それで換気してから、窓を閉めエアコンをつけた。
ペットボトルのアイスコーヒーを飲み、リビングを見わたす。麻紗子が安定期に入ったらゴマちゃん(胎児ネームってやつだ。僕らはこう呼んでいる)が危なくないように模様替えをしたいと言っていた。
何をどう動かせばいいのかさっぱり分からないな。育児雑誌にそういうことも載っているんだろうか? まあそこらは麻紗子に任せていればいいか。レイアウトが決まれば僕が物を移動させばいいし。
そんな事をとりとめもなく考えていると、リビングのドアが開いて空気がゆれた。視線を顔ごとそちらにむけると、ゆったりとしたワンピースを着た麻紗子がまだ眠そうな顔をしつつも「おはよう」と言ってきた。
「おはよう。座ってて、蕎麦茶いれるよ」
「うん。ありがとう」
「ごはんは?」
「もうちょっと後で食べる」
そんな会話をしながら、僕はカフェインゼロの熱い蕎麦茶をいれる。
水、蕎麦茶、アオサ、プチトマト。つわり中に麻紗子が口にできたのが、なぜかわからないがこの四つだった。不思議だ。最近は他のものも吐かずに食べれていて、こちらとしても安堵している。背中をさすろうものなら余計に吐き気が込み上げてきていたようだから、僕が気持ち悪いんだろうかとへこんだりもしていたから。落ち着いてくれて本当にほっとした。
夏、僕たちはのんびりと休日の朝を過ごした。
夫婦二人で過ごせるのもあと数か月。僕らは貴重な休みを満喫すべく出かけることにした。
しかし、出かけると麻紗子はすぐにベビー用品を見たがるので、正直、ちょっと飽きてきた。大型ショッピングモールに出店しているその店の中は、乳幼児がたくさん連れられて来ているせいか、あたり一面にアルファ波が垂れ流されているようで、入店するととてつもなく眠くなる。
あくびをかみ殺す僕をしり目に、麻紗子はうきうきとした様子で服や靴下を「下見」していく。そう、下見だ。まだ性別が分からないため服が買えないからと言うのが麻紗子の談だ。ならそう何度も下見をする必要はないと思うのだが、つい見てしまうそうだ。そこらへんは性差だろうと諦め、しっかり付き合うことにしている。
その後僕らは、オーガニックカフェで昼食をとり、食後のお茶を飲んだ。
木目調の家具で内装され、そこかしこに観葉植物が飾られているカフェは、客たちの話し声の中でも落ち着いた雰囲気があった。
僕には弱いと感じる冷房も、今の麻紗子にはちょうどいいようだった。
体調が良くても一日中出ずっぱりというのが良いのか悪いのか分からないので、十分休憩をとったあと僕らは夕食の買い物をすませ帰路についた。
帰宅したのは午後二時過ぎ。麻紗子は少し横になると寝室へ行ったので、僕も付き合って昼寝をすることにした。
多少目立ってきた腹部のふくらみを、手のひらでそっとなでる。
「ちょっと硬くないか?」
「ん、歩きすぎたかな」
ふうと息を吐き答える麻紗子に、大丈夫かと心配になる。
とにかく横になって体を休めるのが一番だろうから、二人して少し眠った。
***
そして、振り返れば日々は早く過ぎていて、もうすっかり陽も短くなった。
秋とは思えない暑さが続いているけれど、体調管理はしやすくなったようで、お腹がぽっこりしてきた麻紗子もゴマちゃんも安定していた。
検診のたびに足をぴったりと閉じているゴマちゃんの性別は、残念ながらいまだに不明だ。次の検診日には前日から「足よ開け~。股を閉じるな~」と念をおくっておこうと思っている。
まあ、それはさておき。
「うぅぅん」
「なにさっきから唸ってるの?」
ダイニングテーブルに突っ伏すようにして、唸り声をあげている僕をいぶかしむ様に麻紗子が話しかけてきた。
唸っている僕の手にはボールペン。枕になっているのはメモ用紙。手の届くところに置いてあるのは名づけ本。
「ぅうん。考えすぎて頭わいてきた」
「画数とかも気にし出すと、わけわからなくなってくるよね」
「候補はあるんだけど、あと何かひとつ足りない気がしてさ、これ! っていうのがな、なかなか決まらなくって」
ぱらぱらと名づけ本をめくっていると、麻紗子が「ずいぶん古いのがあるのね?」と手元をのぞきこんできた。
ずいぶん古いとはいっても、僕よりは若い本を麻紗子に手渡した。
「三十年前発行の」
「へえ。何年前でもこんな風に本を見て悩んでたのね。図書館にあったの?」
「実家」
短く答えると、麻紗子の顔に疑問符が浮かんだ。
僕は今三十六だ。実のきょうだいはいない。遠方にいる従弟たちは皆、僕より年上ばかりだ。そして三十年前なら両親はすでに離婚している。
―― おやじはいったい誰の名前を考えていたのだろう……。
「な、中見てたら面白いよ」
言葉がどもったのは、ふと思い浮かんだ想像に動揺したからじゃない。違うと信じている。
「このころから当て字の変わった名前あるのね」
最近のーー というけれど、十年前は十年前の、三十年前はその時の「最近の〇〇は~」ってのがあったんだろな。
本を目で追いながら麻紗子が口をひらく。
「ねえ、男の子なら陸志ってどう?」
「ひろせたかし?」
「こざとへんの陸に志す」
そう言って画数を調べ出した。僕はちょっと呆れ顔を麻紗子へむける。
「それ……おれがお菓子の商品開発してるから?」
「安易かな? でも、おかしって読ませるわけじゃないし」
「お菓子ばっか食う子になったら困るぞ」
麻紗子のお腹越しに子供をなでながら言うと、麻紗子はくすくすと笑った。
相変わらず僕が触ると胎動が止まるようだ。めげるものか。
「おぼろげだけど覚えてるのよ『たあくん』がお菓子くれてたこと」
僕はすこし驚いた。ああでも、僕のことを覚えていたのだから、記憶があって不思議ではないか。
ぐずって手に負えなかった時以外でも、おやつをあげていたからな。僕イコール兄ではなく、僕イコールお菓子になっているのでは? と思った時があったけど、やっぱりそうだったのか。
「俺が食べてた辛いスナック菓子欲しがって、奪って食べて泣いたこともあったな」
「え、そんなことあった?」
「あったあった。同じもの食べたがったし、どこ行くのにもついて来ようとしてたよ」
「遊び相手ができたのが、すごくうれしかったのよ」
「お菓子くれるし?」
ほほ笑む麻紗子を見ていたら、ほんわかしてきたので取りあえずキスしておいた。
「男の子なら名前それでもいいかもな」
「いいの?」
「うん。うん、考えてみたら良い名前だよそれ。俺らにはあってる」
「じゃあ、あとは女の子の名前考えなきゃね」
そうだねと、二人して笑い合った。
***
思い出す、当時の僕はまだ中学生で、そんな僕からすれば、三歳児なんて宇宙人みたいなものだった。
機嫌良く遊んでいたはずなのに突然、鼻の下をぐっと伸ばして「今から泣くぞ」と顔中で表現して甲高い声で泣き始める。
無視するわけにはいかなくて、僕は抱っこしてあやそうと試みるが、手足をバタバタして完全拒否されて……。中学生の僕は途方に暮れて、かなりうんざりもして、それでも何とか泣き止まそうと台所をゴソゴソ漁って。三歳児が食べていいのか分からなかったけどチョコレート菓子を見つけて、これ幸いと封を切って袋ごと渡した。
一瞬泣き止んだけど、またすぐにわぁわぁ泣き出して、それでもお菓子をもぐもく食べて、今度こそ泣き止んだかと胸をなで下ろしたのにまた泣いて。
本当に、当時の僕にとって、いもうとになって三日目の三歳児は宇宙人そのものだった。
なぜいもうとが泣いていたのか僕はわかっていなかったし、親から理由を聞かされていたとしても、二十年以上経った今では覚えているわけがなかった。
ただその日から、泣いている子供を泣き止ませられるお菓子って凄いなと、子供心に感心していた。
料理好きだったわけではないけれど、大人になって働くならお菓子を作る人になろうと漠然と考えていた。
二十年以上経った今、僕は嫁さんと子供に贈るお菓子を考える人になった。
僕が今の職業を選んだ理由を麻紗子は知らない。それでいいと思う。
おいしいお菓子を食べて、楽しい晴れやかな笑顔になり、僕ら夫婦は甘くなればいい。
おわり




