1.南極観測隊
南極大陸に来て、三十二日目。
僕は、生きている。
見上げれば、澄みきった青。
見渡せば、どこまでも続く水平線。二十四時間沈まない太陽にも、ようやく慣れてきた。
ふとコンテナの金属板に、防寒着姿の自分が映った。
ゴーグルを上げると、銀色の髪が日差しを受けてまぶしく光る。
左右で色の違う目だけが、雪原の白の中でやけに浮いて見えた。
まあ、いい。今日も気分は悪くない。
「るいくーん、運ぶの手伝ってくれなーい?」
声のほうを見ると、栗色の髪の女性が、大きな箱を抱えて立っていた。
南極の微生物や動物を調べている研究隊員で、名前は、えっと……こはら、さん。
「こはらさーん、すぐ行きまーす!」
「ちょっと、私は『おはら』! 小原千尋! いい加減覚えてよね。それより早く手伝ってー」
小原さんは口をとがらせたあと、ふっと笑って、荷物を抱え直した。
そして、少し離れたコンテナのほうへそそくさと歩いていった。
僕は一度基地に戻って手袋とネックウォーマーを着け直し、言葉どおりすぐに追いかけた。
荷物を運び終えるころには、時計は朝の七時を回っていた。
基地は、もう動き出している。
朝食を作る調理隊員、雪上車を点検する車両担当、発電機を見回る設営隊員。
僕たち研究隊員にも、気象観測や地質調査という朝の仕事がある。
南極の朝は、のんびりしていられない。
気温は氷点下十度。素手で金属に触れれば皮膚が張りつくし、ブリザードが来れば、基地から数十メートル先へ出るのさえ命がけだ。
ほんの少しの油断が、そのまま命に関わる。
「おぉ、おいしそう」
今日の朝食は、焼き魚、味噌汁、卵焼き。
ザ・和食だ。
湯気を見ただけで、心がほどける。
「おっ、るいくん、おはよ! 昨日はよく眠れた?」
「はい、ばっちり。今日も朝からお疲れさまです」
「はは、これが仕事だからね。るいくんも、一日がんばって」
トレーを受け取って、いつもの席へ。
食堂の一番奥、窓際。
ここなら食堂全体が見渡せるから、僕はこの席が好きだ。
座って、ようやく一日が始まったと実感する。
「るいくん、さっきはありがとう! 助かった〜」
向かいの席に、小原さんがどさっと座った。
「いえ、ほとんど小原さんが運んでましたし。僕は何も」
「うわ、大人の返しされた。るいくん、十八歳なのに、ほんとちゃんとしてるね」
「小原さんのほうが、年相応じゃないんじゃないですか?」
「えっ、それってつまり、若く見えるってこと?」
小原さんは、ショートボブの髪を耳にかけて、少しだけ得意げな顔をした。
「……まあ、若く見えますよ」
顔を見て言うのは照れくさくて、つい視線を手元に落とす。
「そういうところは、年相応なんだね」
にこっと笑われて、僕は目をそらした。
隊員が全員そろったところで、隊長の鈴前さんが立ち上がった。僕の直属の上司でもある人だ。
「明日はいよいよ、越冬成立式です。夏隊の皆さんを見送ったら、ここから一年、私たちだけの生活が始まります。今日も最後の一日、頑張りましょう。いただきます」
「いただきます!」
大勢の声が重なって、食事が始まった。
まず体を温めようと味噌汁に手を伸ばしたとき、斜め前の席の隊長が声をかけてきた。
「るいくん、これから一年、頑張ろうな」
「はい。……ちょっと、寂しくなりそうですけど」
「そんなことないよ。私も一緒だから!」
僕より先に答えたのは、なぜか小原さんだった。しかも誇らしげだ。
「そして、私もいる」
隊長まで胸を張るので、思わず吹き出しそうになった。
「……そうですね。ありがとうございます」
味噌汁をゆっくり飲み込むと、冷えた体に、じわっと熱が戻ってきた。
朝ごはんのあとは、観測の時間。
基地から少し離れたコンテナに向かって外へ出ると、すぐに音が消える。
風の音さえ遠くて、世界から切り離されたみたいだ。
重い扉を開けると、観測機器の排熱で、コンテナの中はほんのり温かい。
僕はこの空間が好きだ。
まずは常時記録されている地震計をチェック。
続いて、地磁気のデータ。
――と、そこで手が止まった。
地震計の針が、一瞬だけ、細かく震えていた。
ごく小さな波形。
機器の誤差と言われたら、それで終わりそうなレベルだ。
「……誤差、かな」
とりあえず記録だけ残す。
他のデータは問題なし。
僕は扉に手をかけて、コンテナを出た。
昼食のあとは、また小原さんに呼ばれた。
氷の中の微生物を調べているらしく、データ採りの手伝いだ。
それが終わって施設内を歩いていると、ゴトン、と大きな音がした。
音のほうへ行くと、夏隊の人たちが荷物を片づけている最中で、箱をひとつ落としたらしい。
そのまま僕も、荷造りを手伝うことにした。
気づけば、時計は十六時。
自室に戻って、今日の記録と報告書をまとめる。
地震計の欄でちょっと迷って、「微小な揺れあり。誤差の範囲」とだけ書いた。
作業を終えて一息ついていると、食堂からいい匂いが漂ってきた。
足が勝手にそっちへ向かう。
食堂は、たくさんの人でにぎわっていた。
夏隊が帰る前日ということで、今夜は蟹鍋らしい。豪華だ。
小原さんは、子どものように喜んでいる。
まだ、これからもここにいるというのに。そう思いながら、僕はいつもの席に座った。
「るいくんは、蟹鍋、食べたことある?」
「ないです」
「ないのに、なんでそんなに冷静なの? 蟹鍋だよ!?」
「食べたことがないので」
「それでも、だいたいわかるじゃん! はい、食べよ!」
小原さんは、鍋から取り分けた蟹を、僕のお皿にのせた。
「いただきます」
ぱくり。 ……美味しい。
体の芯まで、じんわりと温まっていく。
冷えたところで食べる鍋は、心まで温まる。
「おいしいでしょ?」
小原さんが、まるで自分が作ったみたいな顔で笑った。
「はい、おいしいです!」
そう答えると、小原さんも鍋から取り分けて食べ始めた。
僕は鍋に夢中になって、しばらく黙々と食べた。
食事が一段落して、のんびりしていたときだった。
「そういえば、るいくんって、なんで越冬隊に来たの?」
小原さんが、急に聞いてきた。
そういえば、この人にはまだ話していなかった。
他の人には、何度も話してきた。
「そんな理由で南極に来るなんて、頭おかしいよ」って笑われたり、「その夢、叶うといいね」って励まされたり。
どっちも悪気がないのは分かってる。
でも、そのたびに、僕は少しだけ黙り込んでしまう。
……言わないでおこうかな。
「……バカにしないでくださいよ」
「しないよ」
小原さんの目は、まっすぐだった。
「僕が八歳のとき、夢を見たんです」
「夢?」
「南極の地下が、光り輝いていて。そこで暮らしてる人たちがいて」
声が、ちょっとだけかすれた。
「その瞬間、直感したんです。行かなきゃ、って。南極の地下には、まだ誰も見つけてない秘密があって、誰かが僕を呼んでる。……だから、南極観測隊になりました。変ですよね」
少しの沈黙。そして、小原さんは首を横に振った。
「変じゃないよ。ぜんぜん。めちゃくちゃいいじゃん」
「……」
「じゃあ、見つけないとね。南極の地下の秘密」
小原さんは、からかうでもなく、やわらかく笑った。
「……はい」
こうして、南極での一日が終わった。
翌日、夏隊と前年の越冬隊を見送って、越冬成立式を行った。
こうして、僕たちの一年が始まった。
その日も、地震計の針は、ほんの少しだけ震えていた。




