番外編1 冷たい食卓(アルベルト視点)
※『第27話 都合の良い展開』の途中くらいの話です。
母との食事は苦痛のひとことに尽きた。どうせ、父は家に帰ってこないのだから先に食べてしまえばいいのだ。それを彼女は限界まで待つ。冷めていく料理をただ眺める。その無意味な時間が厭わしかった。
彼女はいつも自信なさげで、自分が存在することにすら誰かの許しを求めているようだった。私は、家庭を顧みない父よりもそんな母の弱さを憎んでいた。
母が病に伏せっても、帰らぬ人になっても私は涙ひとつ流さなかった。
私はなんて冷たい人間なのだろう。冷たくて狭量な人間だ。
まるで欠員を補充するかのようにやってきた、父の後妻もその娘も温かく迎える気になどなれなかった。自分に冷たさしか与えてくれなかったこの場所で、他人に与えられる温度など持ち合わせていなかった。
そんな凍えきった心に不意に熱が差した。
生意気にこちらを睨みつけるその瞳に焦がれて仕方がなかった。
知らない感情だ。どうしても側に置いていたい。自分を見てほしい。一度その温度を知ってしまったら、もう二度と凍てつく世界には戻れなかった。
君は私に会いに来るわけではない。それでも私は君に会いたい。側に置けるのなら、どんな形でも構わなかった。
――
今日は時間があったため、セシルのダンスレッスンの相手を務めることにした。彼は次の動作を思い出すのに必死なのか常に一点を凝視している。視線を動かす余裕すらないらしい。その証拠に先程からずっと私に見られていることにまるで気付いていない。
その様子すらいじらしいと感じている自分に気付いて、思わず苦笑する。彼といると知らない自分が顔を出す。
セシル・テオドールは不思議な人間だ。老成していると言えるほど冷静な発言をしたと思ったら、急に大きな隙を見せてくる。すぐに他人の世話を焼こうとするのに、どこか一歩引いたような冷めた部分がある。未だに彼の本質を捉えきれない。
表面には容易に触れさせるのに、深いところは晒そうとしない。冷たい膜が張っているかのようだ。私はその奥を暴きたい。
私に熱を教えた張本人のくせに、自分は冷めた世界に留まろうとするなど不公平ではないか。
私は自分よりも低い体温をしたセシルの手を少し強く握った。私の熱が少しでも彼に移ればいい。そしていつかは君の奥底にある熱に触れさせてほしいのだ。
「セシル様はもう少し、パートナーにも気を配ってください。おひとりで踊られるのではないのですよ」
今日のレッスンの総括として、講師がセシルにそう告げた。問題点を指摘されたセシルはそんな余裕なんてないと言いたげな表情をしながらも「善処します」と返事した。
「でもセシル様、最初よりはかなり良くなってますよ!」
「そうですか?」
いつからか見ていたらしいベアトリクスに励まされ、セシルは笑顔を見せた。が、
「甘やかさないでください」
講師の鋭い言葉に一蹴され、彼らは二人揃って首をすくめた。
レッスンが終わったのは昼過ぎだった。
「昼食はどうするんだ?」
「え? 帰って学食で食べますけど」
セシルは何を聞かれているのかわからないという顔をした。空気が読めないわけではないはずなのに、こういうとき異様に鈍くなるのは何故なのか。まるで、自分は特別な感情を向けられる存在ではないと思い込んでいるかのような態度に何度歯痒い思いをさせられたかわからない。
「そういえば! 大通りにあるパン屋さんのクロワッサンがとっても美味しいらしいんですけど! わたくし食べたいな~。今日! 食べたいな~」
ベアトリクスが急に大声を上げた。セシルはその空々しい振る舞いを訝し気に見つつも「じゃあこの後、一緒に行きますか?」と誘ったが、ベアトリクスは神妙な顔つきで断った。
「いえ、わたくし今からとっっっても大事な予定があるのです」
そう告げるとこちらに向かって頻りにウインクを送って来た。ベアトリクスは何故だか、ずっと私たちの関係の応援に熱を上げている。何が彼女をそこまで駆り立てるのかは不明だが、使えるものは使わせてもらう。
「仕方がない、私が買って来てやろう。セシルもどうだ?」
「セシル様、サンドイッチも美味しいらしいですよ! お昼にぴったりです!」
「じゃ、じゃあ……」
我々兄妹の圧に押し切られて、セシルは困惑しながらも頷いた。
ベアトリクスに紹介されたパン屋は実際に人気店らしく繁盛している様子だった。持ち帰りだけでなくその場で食べることもできたので、私たちはそこで昼食をとることにした。彼女のおすすめに従ってサンドイッチのセットをふたつ注文する。
サンドイッチセットにはスープがついていた。それを見たセシルは冗談めかしてこちらに問いかけた。
「冷ましてあげましょうか?」
揶揄っているつもりなのだろうが、迂闊すぎる。
「ああ、頼む」
そう言って、スープを彼のほうへやると、楽し気に細められていた目が丸く見開かれた。あからさまに狼狽えている。隙を見せるから悪い男に付け込まれるのだ。彼はいつまで経っても学習しない。
視線を彷徨わせるセシルをしばらく無言で見守っていると、観念したのか、彼はスープに息を吹きかけて冷まし始めた。頬を染め、眉間に皺を寄せるセシルを見ていると、自分の心の、あまり直視したくない部分が満たされるのを感じた。
セシルがふと顔を上げた。目が合う。彼は瞳を一瞬揺るがせた。よくない。これでは共倒れだ。心臓が強く鼓動を打った。彼に強く惹きこまれそうになったが、セシルはそれを遮るように器をぶっきらぼうに机に置いてこちらに返してきた。
「次からはご自分で冷ましてください」
「君がやる、と言ったんだろう」
私は速くなった脈を誤魔化すために、呆れた風を装った。
食事を済ませて、帰り間際にベアトリクスが所望していたクロワッサンをいくつか購入する。どうせただの口実だろうが、買わないとセシルに怪しまれる。持ち帰り用の紙袋を抱えた私をセシルは興味深そうに眺めていた。
店を出ると冬の始まりを告げるような冷たく乾燥した風がぶつかってきた。焼きたてのクロワッサンも帰る頃には冷たい塊と化してしまいそうだ。
「妹の使いっぱしりをするなんて随分な変化ですね」
私が抱える紙袋を見て、セシルが言った。軽口のような調子だったが、口元には柔らかな笑みを浮かべていた。
ベアトリクスは私とセシルの関係を応援しているが、セシルは我々兄妹の関係に気を遣っている。その流れでいくと、私は妹とセシルの友情のためにひと肌脱ぐべきなのかもしれないが、私にはそんな余裕などない。
自分の狭量さを再確認していると、セシルは木枯らしから身を守るためなのか、私のほうに体を寄せてきた。当然のように縮められたこの距離も随分な変化であることに彼は気付いているのだろうか。
セシルは婚約者候補という立場を甘んじて受け入れているが、どうも男同士でそういう関係になることについて忌避感を持っているようだ。ちょっとした接触にすら過敏に反応する。今の時点でどこまで私のことを許してくれるのかは、少しずつ確かめていくほかなかった。彼が半ば無意識に向け始めてくれた信頼を、不用意に踏み込むことで失うのだけは避けたかった。
「妹にこき使われるような私は嫌いか?」
「いえ、前よりずっといい」
私の問いかけに、セシルは大人びた笑顔で静かに答えた。
セシルを寮の部屋の前まで送り届けて別れの挨拶をすると、彼は扉を開けて振り返った。セシルは何も言わず何かを待っているかのような表情でこちらを見上げてくる。不自然な間が生まれた。彼の意図が読めず、「どうした?」と尋ねると今度は不思議そうに見つめ返してきた。
次の瞬間、彼は我に返ったようにハッとすると一気に頬を真っ赤に染めた。慌ててドアを閉めようとしたのでそれを足で止める。その勢いで半身を部屋に滑り込ませて、セシルの肩を掴んだ。手に持っていた紙袋が廊下へ落ちる音が遠く聞こえる。
セシルは頬に両手を当てて目を瞑っていた。それで防いでいるつもりなんだろうか。どうしていつも目を閉じてしまうのだろう。
その無防備さにいっそ怖さすら感じながら、前髪を流して丸い額に口付ける。彼の心の奥底にある剝き出しの熱が微かに届いたような気がした。
作戦の失敗に気付いた彼は、今度は私の肩のあたりを押して部屋から追い出そうとし始めた。必死に押しているつもりらしいが、彼のその細い腕でどうにかできるほど私は柔ではない。
「もう帰ってください!」
「してほしそうだったから、したまでなんだが」
「ち、違います! 今日は何もないな、と思っただけです!」
セシルは口を滑らせて、さらに動揺を増した。
「早く出てって! 変な噂が立ったらどうするんですか!?」
噂なんてもう取り返しがつかないほど立っている。この期に及んでまだ後戻りできる気でいるのだろうか。いつになったら私の本気を認めてくれる? いつになったら君の本心を見せてくれる? 信頼なんて破壊してここですべて暴いてしまいたい、そんな暗く熱い感情が沸点に達しそうになった。
そのとき、ずっと体を押していた手が胸倉を掴んで逆に引きよせてきた。自分の力も重なって、私はバランスを崩しそうになったのをなんとか堪える。セシルはそのまま前のめりになった私の頬に唇を押し当てた。呆気に取られて彼を見ると、私以上に彼自身が自分の行動に困惑しているようだった。
それでも力が緩んだことに気付いたのか、セシルは一気に私を外に押し出し「これでおあいこです!」というよくわからない言い訳をしながら扉を閉めた。廊下にはただ茫然と立ち尽くす私と、潰れた紙袋だけが取り残された。それを拾い上げ、見た目だけでもマシにしようと伸ばしてみたが、できてしまった皺は消すことができなかった。
屋敷に戻ると、案の定ベアトリクスは自室で暇そうにしていた。やはり予定などなかったらしい。崩れてしまったことを謝りながら、紙袋を渡す。彼女は皺を見て、意味ありげな笑みを浮かべた。
「いかがでした?」
彼女は探るようにこちらを見てきた。パンの味について聞かれているわけではないことはすぐにわかった。
「……悪くなかった」
これほど振り回されても嫌いになれない相手が存在するなんてことはできれば知りたくなかった。知ってしまえば知る前には戻れない。彼が与えた熱は過去の傷を押しのけて、より深く、より残酷に私の心に刻み込まれている。




