第二節 弾ける破滅と日常の回帰
「よし、気体は十分に溜まった。確認しよう」
瀬戸の言葉は、魔法を解く無慈悲な宣告であった。
彼は親指で試験管の口を塞ぎ、凛を真っ直ぐに見据えた。
「佐倉さん、マッチをお願いしてもいい?」
「……え、あ、うん」
凛の手は、微かに震えていた。彼女はマッチを擦り、小さな、しかし凶暴な火を灯す。
瀬戸が、水素の溜まった試験管をその火に近づけた。
――キュッ!
乾いた、鋭利な破裂音が、二人の間の空気を切り裂いた。
小さな、滑稽なまでの爆発。
それは、凛が抱いていた濃密な幻想が、物理的な衝撃によって粉砕された合図であった。水素と酸素が再結合し、再び「水」へと戻るその瞬間、彼女と彼を繋いでいた透明な糸もまた、焼き切られたのである。
「成功だね。次は酸素、線香を持ってきて」
瀬戸は淡々と、機械的に実験を継続する。成功の歓喜など、彼の冷徹な理性の前では塵に等しい。凛は、記録を取り、装置を解体し、ビーカーを洗う。
透明だった水が気体となり、また何事もなかったかのように排水口の闇へと消えていく。それは、彼女の秘めたる感情が、誰にも看取られることなく処理されていく様を暗示しているようであった。
「お疲れ、佐倉さん。片付け、助かったよ」
瀬戸の微笑みは、雑巾で拭われた実験台のように、清潔で、そして何も残っていなかった。
授業終了のチャイムが、理科室の静寂を乱暴に蹂躙した。
「移動教室だぞ、急げよ」
教師の放つ下卑た声と共に、空間は一気に「ざわざわ」とした日常の泥濘に引き戻された。椅子を引く無機質な音。廊下から聞こえる、他愛もない、しかし残酷な笑い声。
一歩外に出れば、そこにはまた、曖昧で、不潔で、騒がしい毎日が口を開けて待っている。
瀬戸はいつの間にか、有象無象の友人たちの輪に戻り、部活という名の集団的熱狂について語りながら去っていった。凛もまた、己の役割を演じるべく、友人の呼び声に応じて廊下へと足を踏み出す。
ふと振り返れば、あんなに特別であった実験台は、今はただの木材と金属の塊に戻っていた。 特別な時間など、最初から存在しなかったのではないか。
マッチを擦った指先に残る、微かな火傷のような温もり。そして、あの小さな爆発音。
それだけが、彼女に残された唯一の収穫であった。
卒業という名の「永遠の別離」が訪れたとき、彼女は三月の光の中で見た銀色の泡を思い出すだろう。
しかし、その記憶もまた、時間の経過と共に酸化し、やがては無意味な記号へと成り果てるに違いない。
空はどこまでも高く、群青色の虚無を湛えている。
凛は、自らのブレザーをさらにきつく合わせ、酸素の薄い日常へと、再び沈んでいった。




