第五話 黎明のふたり
窓の外は、今日も朝から雨が降っていた。
伽耶は、のそりと寝台から身を起こす。
ここ数日、誰にも会いたくないと人払いをしている。
――こんなふうに抵抗したところで、何も変わらない。
それは、きっと伽耶自身が一番よく分かっていた。
けれど、今の彼女は「何のために頑張るのか」が分からなくなっていた。
トン、トン――
控えめに戸を叩く音が響く。
「わたしよ。入ってもいいかしら?」
華蘭の声だった。
いまは誰にも会いたくない――
けれど、身体が動かないうちに、そっと扉が開いた。
「起きてたのね。もう……こんなに痩せて……。身体は大丈夫なの?」
華蘭は苦笑を浮かべながら、そっと伽耶の寝台に腰を下ろした。
「原因不明の病なんて……とんだ役立たずの医官たちね」
怒ったような声と裏腹に、その手はとても優しく、伽耶の背を撫でてくる。
その柔らかさに、もう枯れたと思っていた涙がにじみそうになり――伽耶はそっとまぶたを伏せた。
「今まで、よく頑張ってきたから。きっと今は、休むときなのよ」
華蘭の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……そういえば、誠。出兵することになったのよ」
「えっ……?」
その名を耳にした瞬間、伽耶の瞳が大きく見開かれる。
誰かの口から「誠」と聞くのは、それこそ久しぶりのことだった。
「賊が甚大な被害を出していてね。誰も策が出せずに困っていたの。誠ったらすごかったのよ。軍議で突然策を出して、その場にいた誰もが言葉を失って……。結局、誠の策が採用されたの」
華蘭が、にこりと微笑んだその瞬間だった。
――ポロ、と。
堰を切ったように、涙が頬を伝って落ちた。
一度溢れ出した涙は、もう止められなかった。
「……やだな……どうして……」
声が震える。唇も、指先も、微かにふるえていた。
「誠は、頑張ってるのに……私だって、がんばらないといけないのに……もう、なんのために頑張ったらいいのか、わからなくなってしまったんです」
その背に、華蘭の手が優しく添えられる。
ただそっと――温かく、包み込むようだった。
「ねえ伽耶、以前私に縁談きたの、覚えてる?」
そう問いかける華蘭の声はとても優しく、穏やかだった。
伽耶は、こくんと小さく頷いた。
「わたしはね……誰かの“奥さん”というだけの自分になるのが、どうしても嫌だったの」
その横顔は、ふだんの快活さよりも、少しだけ真剣で、けれど、どこか柔らかかった。
「だから、自分に価値を持たせようと思ったの。
武芸を極めて、“将”になって――縁談は断ってやった。誰にも文句を言わせなかったわ」
伽耶が何も言えずにいると、華蘭は優しく笑って、彼女の手をとった。
「私たちが“姫”に生まれてしまったのは……
もうどうしようもないこと。
でもね、自分の“生き方”を変えることは、できるかもしれない」
その手は、とても暖かかった。
「……ちなみに、これはね。
昔、お父様がわたしに言ってくださった言葉よ」
伽耶がはっと顔を上げると、華蘭は優しく微笑んだ。
「今年の冬――同盟国を迎えての宴が開かれるわ。
その催しとして、姫舞を披露せよと命じられているの」
「わたしがやります」
伽耶は華蘭の言葉に被せるように声を上げた。
先ほどまで翳っていたその瞳には、確かに、強い光が宿っていた。
「もう、大丈夫ね」
そう言って、華蘭はそっと伽耶の髪を撫でた。
「わたしは、いつだってあなたたちの味方よ」
それからの伽耶は、まるで人が変わったようだった。
これまでだって、努力はしていた――そう思っていた。
けれど、それだけでは足りなかったのだ。
自分の限界は、まだその先にある。
もっと美しく。
もっとしなやかに。
もっと――!
靴はすり切れ、足はあざだらけになった。
全身が悲鳴をあげても、伽耶は舞の鍛錬をやめなかった。
陽が昇る前に起き、誰もいない中庭でひとり身体を動かす。
気が遠くなるような繰り返しの中で、ようやく、ほんの一瞬だけ“理想”が見える瞬間がある。
それを信じて、伽耶は踊り続けた。
山中に、しとしとと雨音が降りしきっていた。
その静けさのなか、誠は岩陰からじっと前線を見据えていた。
甲冑の隙間から入り込む冷たい雨にも、眉ひとつ動かさない。
「陸誠様!こちら、準備整いました!ご確認を!」
「……ああ、これで問題ない。もう一分隊の進路は?」
「迂回路にて待機中とのことです!あとは、合図を待つばかりです!」
部下の報告に、小さく頷く誠。
その耳に、師の言葉が静かに蘇る。
『お前が本当に欲しいものは、なんだ。
そのために、今お前がなすべきことは?』
誠は目を閉じ、ひとつ、深く息を吸った。
それはまるで、心に宿した火を確かめるような呼吸だった。
「――作戦、開始」
その声は、雨を切り裂くように、静かに、しかし力強く響いた。




