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紅に咲く ― 鳥籠の姫君と誓いの護衛 ―  作者: ゆき
第二章 春に咲く舞
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第三話 涙に咲く花

翌朝。

昨晩から降り始めた雨は、せっかく咲き誇っていた桜を、容赦なく散らし始めていた。


それでも――


“がんばっていれば、いつか戻してくれるかもしれない”


伽耶は、そんな希望を胸に、重たい身体をなんとか起こし、袖に腕を通した。



そして、書房の椅子につくと、しばらくしてドンドンと大きな戸を叩く音が響く。


(……音が、違う)


以前より、ずっと早く、そしてうるさくて、威圧的なノック。

それだけで、誠ではないことがわかってしまうのが切なかった。


授業の最中、ふとわからない箇所にぶつかる。

自然と視線が隣に流れる。


「ねえ、誠……」


そう言いかけて――そこに誰もいないことに気づく。


(……そうだった)


誠はもう、隣にいないのだ。


中庭での休憩時間。

いつもなら隣にいた人の声も、影も、気配もない。

風だけが、髪を揺らして通り過ぎていく。



だから、何度も考えた。


“こっそり会いに行こう”と。


でもそのたびに、見慣れない女官の数に驚かされる。

廊下の端には、兵の姿まで――


(……閉じ込められてる)


そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。



もう、本当に会えないのだ。



そのことが、伽耶の胸に重くのしかかった。




それからは、あんなに鮮やかだった世界が、急速に色を失っていくようだった。


食事は喉を通らず、授業も、舞の鍛錬も、なんとかこなしてはいるものの――

それはもう、「学ぶ」とは呼べないものだった。


伽耶は、日ごとに身体が重たくなっていくのを感じていた。


中庭に、誠と一緒に植えた春の花。


その花々が、ゆっくりとその色を散らしていくのを、伽耶はただ、見ていることしかできなかった。







場面は軍部。

周焉明の私室で地図を広げた誠が、紙に向かっている――はずなのだが。


「……それでは、ここに配置した部隊がどうなる?」

「……!」


焉明の低く抑えた声に、誠は我に返る。


「誠坊、挟撃されて全滅だぞ。君にしては珍しい失策だ。……どうした? 身が入っておらんようだな」


誠は口を開きかけたが、結局、何も言えずにうつむいた。


(申し訳ありません……)


焉明はふぅと煙を吐くような息を漏らした。


「軍師というものは、“気をもってはならん”のだ。感情に引きずられては、読み違えるぞ。」


誠は何も言えず、ただ視線を落とした。

その様子に、焉明はふっとため息をつく。


「……つらいな。だが――時だけが、お前を癒してくれるだろう」


そう言って、昔のように誠の頭を荒々しく撫でた。

その手は少しだけ、優しかった。


その時だった。


「おーい、誠坊! まだ落ち込んでんのかー?」


扉がノックもされぬまま勢いよく開き、陽気な声が部屋に飛び込んできた。

振り返れば、蒼煌辰がにやにや笑いながら歩いてくる。


「蒼煌辰、別に私は――」

「まだダメみたいだな〜。まあ、そりゃそうか。俺でもそうなる!」


バシバシと無遠慮に肩を叩くその手に、誠はわずらわしそうに払った。

本人は慰めのつもりなのだろう。だが今の誠には、その言葉も動作も、ただの騒音のようにしか響かなかった。


「で、何しに来たんだ?」


焉明が問いかけると、煌辰は顔を引き締め、声を落とす。


「気になる噂があってな。……伽耶姫ちゃんの話だ。

最近ずっと体調を崩してるらしい。医官が頻繁に宮に出入りしてるって話、聞いたぞ?」


その一言で、誠の息が止まる。


「ほら、お姫様ってなるとさ。いろんな連中が詮索するもんだ。

……ま、医官がついてるんだし、大丈夫だろ?」


煌辰は冗談めかして笑って見せたが――

その言葉は、誠の胸に深く突き刺さった。


(……姫様が、病に――?)


にじんだ掌の汗に気づいたときには、もう心は乱れきっていた。

ただただ、誠は動けずにいた。






伽耶姫が床から起き上がることもできず、謎の病に伏している――

そんな噂が、城中を駆け巡るのはあっという間だった。


(口止めをしていたはずなのに……)


芳蘭は頭を抱えるしかなかった。

一度広まった噂話は、もはや誰にも止められない。

そして今、その噂がとうとう、あの方の耳に届いてしまったのだろう。


景仁の執務室の前で、芳蘭は小さく息を吐き、気を引き締めるように背筋を伸ばす。

そして、静かに扉を叩いた。


「入れ」


中から返ってきた声はいつものように落ち着いていたが、どこか張り詰めた気配を感じさせた。


執務室に入った芳蘭は、ふと景仁の顔色に目を止めた。


「……お疲れのようですね、陛下」


「――ああ、例の賊の件でな。王都からは遠く、地形も複雑でなかなか踏み込めん」


景仁は顎に手を当て、険しい顔で地図を見つめている。


「その件もあって、余計に頭が痛い。……それで、伽耶のことだが…医官は“どこにも異常はない”と言っていたが……それで、この有様か?」


彼の低い声には、焦りと困惑が滲んでいた。


芳蘭は唇をかすかに噛みしめながらも、真っ直ぐに景仁の前へ進み出て、深く頭を下げた。


「申し訳ございません……すべては、私の判断によるものです」


「どういうことだ?」


「……姫様のご様子が、あまりに陸誠様に傾いておられました。

姫様の将来を思えば、早めに距離をおいた方がよいかと……そう、考えたのです」


しばらく、静寂。


景仁はゆっくりと椅子にもたれ、目を閉じた。


「――そういう、ことか……」


身体の奥底から搾り出すような声だった。

芳蘭は、その沈黙にまるで全身を刺されているかのような思いで立ち尽くしていた。


やがて、景仁は静かに言葉を紡いだ。


「芳蘭。お前のしたことを、責めるつもりはない。

伽耶と陸誠の噂は……わしの耳にも、届いていた」


そして顎に手を当て、しばし思案する。


「……このままの状態が続くようならば、どれか縁談でも進めて、代わりを探すしかないかもしれんな」


その言葉に、芳蘭は小さく息を飲む。


だが、今の彼女には、何も言えなかった。


「…陛下の、仰せのままに」


そう答えて、芳蘭は深く頭を垂れた。







伽耶姫は重病でもう10日以上も伏せっている。

そんな噂が最早公然と城中を巡っていた。


「……もう、じっとしてなんていられねぇ!」


夜の軍部の書庫。煌煌と灯る燭台の下で、蒼煌辰がドン、と壁を叩いた。


「俺はいくぜ誠坊、噂が本当なのか確かめねぇと…!」


誠は拳を握りしめたまま、目を伏せた。


「そうはいっても蒼煌辰ーー

どうするつもりなのですか?」


自分でも気づかぬうちに、声がかすかに震えていた。

煌辰は机に身を乗り出し、地図を広げる。


「これは宮中の見取り図だ。裏門を抜けて、ここの廊下を通れば――」


「バカか、お前たちは」


呆れた声が、部屋の隅から響いた。

焉明が髪をかき上げながら、ゆっくりと現れる。


「姫には医官も女官も、しかるべき者がついている。お前たちが今すぐ動いてどうなる」


「でも、このまま指くわえて黙ってるわけにもいかねえだろ!」


「……お前は、どうしたいんだ?」


問いかけられたのは、誠だった。

焉明の視線は、まるで誠の奥底を覗き込むように鋭い。


「姫様の顔を見られれば満足なのか?違うだろう。」


「……っ」


「お前が本当に欲しいものは、なんだ。

そのために、今お前がなすべきことは?」


誠はぎゅっと唇を噛み締めた。

浮かぶのは、桜の下で笑う伽耶の顔。

あの日、ふたりで手を繋いだ中庭――


「……わたしは、もう一度、伽耶様の傍に立ちたい」


その声は、絞り出すように静かだった。

しかし確かに、その言葉に決意が宿っていた。


焉明はふっと満足そうに笑い、机に大きな地図を広げた。


「この賊の件。誰も手を出したがらんが――」


地図を広げ、誠を真っ直ぐに見る。


「お前なら、どう動く?」


誠は目を見開いた。


「お前の力を示す、絶好の機会だと思わんか?」

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