39.彩りと戯れ
宝石のような涙、鈴を転がすような声、濡らした頬を拭いもせず部屋に入ってきたベラドナの様子と、切羽詰まった涙声にグレンは勢いよく立ち上がる。
「だ、旦那様ッ、私ッ…!」
慌てて駆け寄り肩を掴み、ぽろぽろと涙を流すベラドナに、なぜ泣いているのかという正当性のある問いかけをしたのだが。
「どうし、どうしたんですか先輩!?何があったんですか!?脳天に何か重いモノでも落ちてきましたか!!?それとも犬の糞でも踏みました!!?」
「貴方、私のことなんだと思っていらっしゃるの」
何せ慌てるとこうだ。それはないだろぐらいの例を出してきやがった愛しい夫に、胸に抱かれるとか、強く抱きつくとか、そんなことも一切忘れ思わずスン…と泣き止んで聞き返してしまったベラドナ。
その顔を見てグレンは安心したように息を吐く。
「なんだ嘘泣きか……」
「ホッとするところが違うでしょう」
解散。ベラドナから離れたグレンは席に座り直し、昨今流行りの衣服やら装飾品やら、見世物やらが載った新聞を広げ直す。
ベラドナも髪を整え、衣服を整え、両手で顔を覆うといっそ芸術的なほど態とらしく泣き出した。
「私ッ…!悔しいですわ……ッ!!」
「劇団の友人仕込みの嘘泣きは凄いですね、目薬無しでその精度ですか、劇団女優いけますよベラドナ」
「冷静なご感想をどうも…グレンのせいですわよ、私が泣いているのは」
「でしょうね」
「冷静な判断をどうも!」
ぺふん!ベラドナが苛立ちのまま勢いよく投げた滲み一つないハンカチがグレンの側頭部に当たる。意に介さない。気持ちいいぐらいの無視だ。
ベラドナは怒りながら自分で紅茶を淹れ、グレンの分も淹れ、カップを渡し、自分の分の椅子を引きずってきてグレンの隣に座った。いつものことだ。そしてカップを傾けながら話し始める。いつものことだ。
「茶会で望まれて話してはいるのですけれど、旦那様とのあれこれを話す時に現実味が足りないのも困り物ですのよね……」
「毎回どんな話をしているんですか、それも茶会で、昼間っから」
「貴方だって同性との友人のみの時に話しませんでした?中身は似たような物ですわ、実体験か観察眼頼みかの違いで」
「もっとキラキラしいこと話していて下さいよ、新しい装飾品の話とか、花の品種の話とか……?」
「女に夢を見過ぎですわ旦那様、そんな話題毎回五分すらもちませんもの」
「孤児院出身の女なら食べられる野草でフルコースを作るにはで丸二日話せますよ」
「面白そうな話題はまた別でしょうよ、その話題はあとで聞かせて下さいましね」
自分の髪の先をくるりくるりと弄りながら、新聞を読み続けるグレンの横顔へと話しかけ続けるベラドナ。
どうやら今日は機嫌が良いらしい、グレンからちゃんとした相槌が返ってくるからだろう。グレンもカップを持ち上げ傾ける。
「少なくともキスまではしているわけですから、結婚式の一度だけですけれども、それでなんとか場を持たせていますのよ私」
「へぇ」
「他所の新婚のご夫婦はもっとスキンシップを大事にするとお聞きしましたの」
「へぇ」
「少なくとも朝夕二回はキスをするという所も」
「じゃぁ話しのタネに、キスしますか?」
カチャ。会話の間に生まれる静寂を、この国では精霊の居眠りと呼ぶ。その居眠りの間に二人は視線を合わせ、三回ほど瞬きをした。
今回、精霊を目覚めさせたのはベラドナの方だった。
「……今ですの?」
「……ちょうどひと段落ついたので」
「…………雰囲気もへったくれもありませんのね、そんな考えだから貴族女性向け商品の売れ行きが今まで悪かったのではなくて?」
「う゛ッ!!」
心臓部への急激な痛みにより椅子の上で死にかけるグレン。
自分にベタ惚れの筈のベラドナからの冷めた視線も追い討ちになったのだろう、結構深いところまで痛みが走ったようだ。
「痛いところを……ッ、」
「勝手に痛がっているだけではございませんの?、いまなら早くしてちょうだいな…そうと分かっていれば小芝居なんてしませんでしたのに……」
呻いているグレンの横で、ベラドナは涙の跡が酷くないか狐のコンパクトで確認する。遠目では目立つ事はないが、至近距離では白粉が剥がれていることが分かるだろう。
むぅと眉間に皺を寄せるベラドナの顎を指で軽く引き、自分の方へと向けさせるグレン。腹を括ったのだろうか、珍しく手早く、しかし丁寧な所作で顔を近づける。
「……っ、グレンたら、中々情熱的なのね」
「雰囲気?を出すため、目のひとつも瞑って下さいよ先輩、やりにくいな」
「いやよ、話す内容が一つ減るじゃない」
「はぁ……我儘ですね…………」
「貴方に対してだけね」
減らず口を投げ合い、お互い頬を染め、もう少しで唇が触れ───
ガッチャッ
「グレンー、この前頼んだ特殊容器細工の許可証と…………………………」
───ようとしていたが、触れないギリギリで止まった。開いた部屋の扉に、羞恥を即座に隠したベラドナの視線と、殺意を隠そうともしないグレンの視線が向く。
向けられた側であるただ仕事をしにきただけのジェロームは、片腕に箱と紙の束を持っていたので、ドアノブを握っていた手を離して振って、挨拶した。
「……後でいいわ、ごゆっくり!」
「折る」
「あら」
旋風が隣から現れ、ベラドナがその勢いに瞬きした後には隣の熱も扉を開けて立っていた筈のジェロームも居なかった。
遠くに離れていく足音を聞きながら、今のうちと椅子から立ち上がり、執務室内に隠している化粧直しセットを取り出し、コンパクトで見ながら白粉を叩き直す。
「ぁぁァァァァア゛ッ゛ッ゛!!ギブッ!ギブッテンダロッッ゛!!オ゛ァ゛───ッッッッ!!!!」
遠く遠くから聞こえる断末魔を聞きながら、今度は睫毛を整え、頬紅を入れ直し、贈り物として貰った薄桃色の貝リップを付け直す。
何度か唇をんっ、ぱ、と擦り合わせたあと、髪を直して、化粧直しセットをしまって、衣服を整え椅子に座り直した。ついでにコンパクトを手元に、書類の山に隠すようにして置いて待つ。
息を荒げたグレンが部屋に帰ってきた。
「すみません戻りました」
「遅かったのね旦那様」
「あの従業員には入室の際に絶対にノックをしろと教えておきました」
「ノックは大切だものね」
グレンの手には先程ジェロームが持っていた箱と、書類の束、机に置いて書類を読み始めるグレンの横でベラドナはニコニコと微笑みながら待つ。
「ベラドナ、今口紅はつけていますか?」
「え?頂いた色付きの、保湿リップを…」
「洗濯の時って落とすの楽です?」
「侍女からは好評よ?色が薄付きで品が良くて、ハンカチについても洗濯で簡単に落ちると…なぜそんな事を?」
グレンは先程ベラドナが投げつけ、机の上に落ちたハンカチを拾う。アイロンが丁寧にかけられたそれを広げ、内側を外に出るよう折り直した。
そしてベラドナと視線を合わせると彼女の肩を掴んで、吐息のかかる距離で問いかける。
「僕に落とさせて頂けませんか?」
「……はい…」
ベラドナの頬に掌が触れ、ハンカチに包まれたグレンの指が淡く色付いた唇に触れる。口の端も、柔らかい真ん中も、全て触られ耳まで赤く染めるベラドナ。
何度か恥ずかしくて唇を動かすと彼の指を喰んでしまい、慌てて離すと少し中の唾液で湿った所まで触れられる。
羞恥に耐え切れずグレンの肩を押し除け、ハンカチを持つ手を止めさせるベラドナ。
「………ぉ、落ちたと思うのですが、旦那様」
「ありがとうございます、普段使われている口紅はどんな色が多いですか?」
薄桃色に色付いたハンカチをたたみ直し、机の上に置くグレン。彼のその手を見ながらベラドナは問いに答える。ハンカチを置いた手は、今度は箱の方へと動き、蓋を開けた。
「えっ、と…紫がかった赤の薄めのものや、桃色のものが、多いかと……」
中から取り出されたのは装飾の少ない、しかし品の良い黒い金属の筒に入れられた、口紅。
グレンは三本ほど開き、自分の手の甲へと線を引く。その中から一本を選んで、自分のハンカチで先を一度だけ拭ってからベラドナへと見せた。
「このような色味の?」
「ええ……」
「じゃぁ、最初はこれにしましょうか」
グレンの指がベラドナの顎を軽く引き、二人の視線が一瞬交わる。至近距離に思わず顔を下げて逃げたベラドナの耳に、優しい声が滑り込んだ。
「顔を上げて」
再度、顎を押し上げられ上を向かされるベラドナ。真っ直ぐに見詰められるのに耐えかね、目を瞑ってしまう。
恥ずかしさで引き攣る唇に触れたのは、口紅の冷たさでなく、指の柔らかさ。
「ベラドナ、塗りますよ」
「ッぅ」
力を抜け、ということなのだろう。唇を指先で優しく二度ノックされ、肩を跳ねさせた後、軽く開く形で緩ませるベラドナ。
唇の上を撫でる口紅の冷たい感触。けれど、先ほどの指で触れられた時の熱は消えない。
「……何度ぐらい塗り重ねます?」
「も、のに、よるわ……」
「コンパクトをお借りしても?」
顎から指が離され、やっと息を吸えたような心地のベラドナは早鐘を打つ心臓を押さえ、熱っぽい頬に手を当てる。
隠した筈なのに迷い無く書類の隙間からコンパクトを取り出したグレンは、鏡で顔が見えるよう開いてベラドナへと向けた。
「…どうですか?」
「…………このままで、充分」
「なるほど……、ベラドナ」
鏡の中に映る自分が想定よりも酷い顔をしていると考えたベラドナは、逃げるように顔を背けた。
そんな彼女の肩を、腕を撫で、手を取り、顔を寄せるグレン。真っ赤に染まった首筋から、熱い頬に手を当て、自分の方を向かせる。
「口付けても良いですか?」
小さく頷いたのを確認してから、顔を近づけ、今度こそ二人の唇が重なった。何度か離れ、擦り付け、相手の吐息を呑み込むように唇を重ねる。
何分そうしていただろうか、それとも、何秒しか過ぎていないのかもしれない。
熱が離れ、惜しむようにベラドナの手がグレンの襟元を掴んで引き留める。甘く上擦った声が、乱れた口紅が残る唇から溢れた。
「…………グレン」
熱っぽい視線や甘い声から顔を背けたグレンは、今ほどした口付けの余韻など全く無い真顔で紙へと走り書きを始める。
その姿に面食らったベラドナは数秒固まり、次に震え、別な熱の籠った声で名を呼んだ。
「色移りは軽度、だが、指で拭っても取れにくい…と……」
「グレン」
ぺろり。自分の唇についた口紅を舐めとったグレンは顔を顰め、ベラドナに塗った口紅を見ながらメモ書きを続ける。
「舌に触れると味が酷いな、要改良……」
「グレン!!」
殆ど悲鳴のようなベラドナの声が上がった。いつものことだ、誰も気にやしないだろう。こうして平和な一日は過ぎていくのだった。




