第十六章 事故、転職
話を聞くとやっぱり明らかな窃盗だった。タイヤ屋の裏に鍵が掛かっていない倉庫がある。そこにあるタイヤを盗んで売るという話だ。
十時過ぎアパートの前に集合、ユタカが借りてきたハイエースで出発。行く先は金沢文庫のタイヤ屋だ。
たしかに国道の裏手はこの時刻真っ暗、時折風が強く吹くがシーンとして人は見当たらない。
「あそこの倉庫、先週確認したんだ。鍵掛かってねえし、中に新品タイヤが山になってる」
ユタカは懐中電灯を照らしながらそろりと倉庫に近づく。オレはユタカの合図があるまで国道側でハイエースに乗ったまま待機、伊佐は中間地点にある広告の旗が何本も立っている鉄骨の矢倉に上って周囲の監視役だ。
ユタカが倉庫の扉を開けて中に入った直後だった。ひとしきり強く風が吹いて旗が大きく揺れた。伊佐が風に煽られてバランスを崩し旗の棒に寄りかかった。
「ああっ」伊佐が寄りかかった旗は固定されていない。下のコンクリートの重りがずれて落下してしまった。
伊佐も旗と一緒に地上に飛び降りた。
「ガッシャーン、ガラガラ、ガシャーン、ドーン」二、三本の旗が同時に落ちて大きな音が鳴り響いた。
「わうっ」と叫んでユタカが目を釣り上げて倉庫から飛び出してきた。ヤツは一目散、オレの車の前を全力で駆け抜けた。
「…………」
呼び止めようと思ったがユタカは振り返らず国道を金沢八景方面に遠ざかってゆく。
「逃げちゃいましたね……」伊佐がにが笑いを浮かべ近寄ってきた。
「なに、あの野郎、ビビッて一人で逃げやがって」
仕方なく国道を下ってユタカの逃げた金沢八景方面にゆっくり車を走らせる。
いた。一キロほど走るとガソリンスタンドの脇にユタカがへたり込んでがっくり首を垂れていた。
タイヤ泥は失敗に終わった。それ以来ユタカは仲間内で「ビビリ野郎」と呼ばれている。
不二子からはあれ以来一ヶ月も連絡がない。悶々としているオレに岸田礼子から電話が入った。「ヒロシさん、私、岸田礼子、いまここに不二子がいるから替わる」
「ヒロシさん、不二子です。会いたいよう。……ごめん、連絡できなかったの。あれ以来親の監視がうるさくて……今日も礼子の家に行くっていったら、本当に行ったかって、ちゃんと確認の電話が入るし。もう少ししたら何とか横須賀に行けるように作戦立ててるから。それでそちらからの連絡は悪いけど礼子に電話してね。じゃあ」
やっぱ監視されてるんだ。仕方ないけど。
肉屋の社内の雰囲気は悪くなる一方だ。社長の客に向けた笑顔が振り向くと一瞬で鬼になる。確かに従業員を人として見ていない。給料袋を投げて渡すし。一日中小言ばかり。
社長が来ると文句を言われたくないので皆、無意識に背を向ける。社長から見るとサボッているのを見られたから慌てて背を向けてるんだと思えるらしい。そんなギスギスしているある日事故が起きた。
今日の仕事は終了。スライサーの最後の手入れとして刃の部分を布で拭くんだが、ちょうど布を当てた瞬間「ヒロシ、競馬やらねえか」と隣の魚屋の兄さんから声がかかった。
「えっ」一瞬振り向くと手元が狂い「シュッ」と軽い音がした。
「うえっ」手のひらがバックリ切れて見る間に大量の血が噴き出した。
「ああっ」血はあたりに飛び散って周囲が血だらけ。
「待て、ヒロシ、ちょっとそのまま動くな」そう言うと兄さんは走って店の奥に行き塩の入った容器を持ってきた。自信満々に「これで消毒しねえと大変なことになる」と言って塩を傷口にすり込む。ジンジンしびれてもう痛いのかどうか分からないが、塩が真っ赤になって見た目のショックを増す。手ぬぐいを手に巻いて二人が付き添って二軒先の病院に駆け込んだ。
「おえっ、なんだこりゃ」医者が大声をあげた。
「だれが塩なんかつけたんだ、細菌が入ったらどうするんだ馬鹿野郎」と医者はカンカンだ。
「ダメだこれじゃ麻酔が効かねえ、麻酔なしでやるしかねえ、痛いぞ」と医者は厳しい顔だ。
結局、塩を全部洗い流し、消毒をし直し、縫合することになった。
「だれか体押さえてろ、痛えぞ」医者はそういうとグサグサと縫い始めた。
「あうーっ、あうーっ」悲鳴を上げずにはいられない。二人に押さえられなかったら逃げ出していただろう、耐えがたい痛さだ。くっそー魚屋のせいだ。塩なんか、塩な……痛みはさらに増す。もう強烈な痛みに耐えるだけで何も考えられなくなった。
「はい、傷は大丈夫、薬出しとくから。それと一週間風呂入れないよ」
「はい、すいません」オレはまだ続く痛みに震えながら医者に礼を言った。
フラフラしながら肉屋に戻る。店に戻ると社長がいた。オレをにらみ付けこう言った。「ふんっ、このクソ忙しいのに怪我なんかしやがって、どうせなら腕一本ぐらい落とせばよかったな」
「クソ社長…………そんなにオレが憎いのか」
決めた。「こんな会社辞めてやる」
翌日荷物をまとめた。とりあえずオヤジに電話をして頭を下げた。
「ハハハ、おまえも少しは苦労らしい苦労をするようになったか」オヤジの言い草に腹が立つが社長よりはマシだ。次の仕事が決まるまで家に戻ることになった。
職探しには職安に行くしかない。職安に入ったがどの窓口へ行ったらいいのか、マゴマゴしていると職員らしい人が近寄ってきた。
「あなた求職、だよね?」
「はい」
「じゃこの用紙に記入して書けたらそこに並んで、ハイ次の方」職員は忙しそうに求職者に用紙を配っている。
記入机に用紙を置いた。二ページに渡って色々な項目がある。学歴? 高校中退じゃぁ中卒ってことだよな。資格? 免許しかねえ。職歴かぁ? 肉屋だけだな、バイトは職歴にならねえし。希望の職種……運転手なら無難なんだが大事故やったばかりだし。あー、書く事が全然ねえ。こんなんで使ってくれるとこあるのかな……隣のお兄さんの用紙をチラ見した。大卒だし、資格の欄もいろいろ書いてある。これじゃ勝負にならねえ。オレは気持ちが萎えてきた。
用紙を提出すると長椅子で呼び出しを待つ。小一時間待った。
「橘さん、いらっしゃいますかぁ?」と声がかかった。手を挙げている女性のところへ向かう。
「ふーん、特殊技能とかはお持ちじゃないですね。前の職種が肉屋さん……特に希望の職種が書いてありませんからねぇ……」
「何でもやります、仕事の好き嫌いはないです」職員に先立ってこっちから返事をした。
「わかりました、じゃ取りあえずこの三件から選んで面接に行きますか? 」
クリエイト不動産、インターナショナルクラブ、川田商店の情報を受け取った。長椅子に戻って内容をじっくり読む。
クリエイト不動産、不動産物件の販売かぁ。だけどオレ不動産の資格も経験もないぞ、なのに募集ってどういうこと? さらに読み進むと最初の取っかかりの捨て駒みたい。売買契約成立で四パーセントバックとなってる。二千万の家売ったら八十万ってことか、悪くないような気がするが、なにせ何にも知らないオレが家を売る? ――やっぱ無理だよな。
次はインターナショナルクラブ。無料セミナーに参加すれば契約社員となって会員を増やす仕事をする。ここは当初仕事がこなせなくても固定給がでる。一定数の会員を獲得できれば三百万、次のステップは八百万、最後は一億まで達すると書いてある。
これ、一種のネズミ講じゃねえの? と思うが固定給が出るんだったらダメなら辞めればいいんじゃん。リスクはない。
最後が川田商店。ここ聞いたことがある。中学校に文房具を納めてる会社だ。地味過ぎるのと給料は安い方。ここは最後に当たってみよう。
まずインターナショナルクラブに向かった。地図によると逸見駅から三百メートルほど奥まったところにあるビルらしい。今十二時、面接は午後一時からだ。
駅をおりてしばらく歩く。この辺は昔からあまり繁華な所じゃない。商店街が切れて道が細くなる手前に古い三階建てのビルがあった。確かに三回の窓に『インターナショナルクラブ』と張り紙がしてある。貸しビルらしいが一、二階は空いている。エレベーターもなく三階まで階段を上がる。ドアの前に来ると何やら会議をしているような気配、ちらっと覗くとドアのすぐ前に受け付けのカウンターがあった。覚悟を決めてドアをあける。
「いらっしゃい、ようこそインターナショナルクラブへ」
びっくりした、オレの入るのを待っていたかのように大きな声がかかった。三十くらいの女性、五十歳位の男性がこっちを向いてお辞儀をしている。
「あのう、お客じゃなくてここの社員募集で来たんですけど……」とオレは恐縮してオロオロしてしまった。
「ふふっ、驚きました? ここは皆平等のクラブです。基本的に社長も社員もないんです。
みんな仲間」と言って女性がオレの手をとって奥の部屋に案内してくれた。
「ここでちょっと待てってください。あと二人応募された方が来られます」
「金さん」さっきの男性が呼んでいる。
「二人、同時に来られた」
「ハイッ」金さんと呼ばれた女性は入り口に向かった。
「いらっしゃいませ」金さんの歓迎の声が聞こえる。オレの時と同じように二人の応募者がこの部屋に連れてこられた。
「ちょうど一時から表彰式が始まります。面接はその後となります。三十分ぐらいで終わりますからね、それまで見ててください」
オレたち三人はソファに並んで座り、表彰式を見学することになった。
「では今から横須賀三浦地区前期四の一の表彰を行います。今期は皆さん頑張ったのですが目標をクリア出来たのは大矢部の倉持さんだけでした。倉持さんは一~三月で四十五人達成、三百万円獲得です。他の方は藤井さんが三十六人、竹中さん三十二人、今井さん同じく三十二人、石井さん三十人ちょうどでした。倉持さんには現金三百万をお渡しします。他の方は努力賞として十万円分の商品券となります、もう少し頑張ってください」と金さんが読み上げると倉持さんはガッツポーズ、他の四人は拍手を送りました。
現金を鷲づかみしたまま倉持さんが我々に近づいてきて「ほら、三百万、信じられないと思うけど君たちも夢じゃないよ」と倉持さんは満面の笑顔で語る。
セレモニーが終わると彼らは互いに握手を交わし、満足そうに帰って行った。
「はい、お待たせしました。ではこれからセミナーを開始します」金さんは机を並べ直し黒板を持ってきた。
金さんの説明によると固定給は月額十万、会員をひとりゲットすると五千円が加算される。つまり月十人の会員を取ると給料は十五万、それに投資のような預かり金を取るとその十パーセントが加算される。それによってほとんどの契約社員は少なくとも十五から十八万は稼げるというのだ。
うーん、さっきの表彰式がどうにも芝居っぽい、他の二人はどう思ったか知らないがオレは一ヶ月様子を見てたぶん辞める。そう決めた。
それから半月、知り合いを口説いてみたがだれも乗ってこない。獲得ゼロだ。オレは辞めると申し出た。すると「いま辞めると給料は出ません」という。金さんともう一人が全力で引き留めにかかる。「あなた、もし今、お金に困っているんだったら前貸ししましょう」とまで言い出した。あぶねえ、絶対あぶねえ、オレはもう会社に行かないことにする。結局、半月が無駄になった。
地味な川田商店、場所は知ってる。行ってみるか、オレは事前の電話もせずそこに向かった。
ドアの前でちょっと呼吸を整える。なにやら会社の中がざわざわしているような感じ。
「こんにちわ、職安で社員募集を見てきました」ドアを開け、恐る恐る女子事務員に声をかけた。
「ダメだよ一品でも欠けたら納品にならねえ、おまえら何やってんだ」
びっくりした。上司らしい人が大声で他の社員に怒鳴り散らしてる。
「あのう、入社希望の人が来てるんですが……」女子事務員が怒鳴ってる男に声をかける。
「なに? 社員? ああ、募集してるよ、だけど今日は納品トラブルでそれどころじゃねえじゃん、悪いけどまた今度にしてもらえ」そう言って男はガサガサと仕事を始めた。
「あの、そういうことなんであさってもう一度来てもらえませんか? 」と女子事務員は済まなそうにお辞儀をした。オレは書類を渡し早々に引き上げた。
二日後、またドアの前で一呼吸。
「こんにちわ、先日きました橘ですが……」
「あらっ、先日はすみませんでした。今日は、あの、ふふっ、一応、穏やかですので……」と事務員の女性は笑顔で応対してくれた。
「あっ、先日の人ね、どうもどうも」奥から前回怒鳴っていた男の人が出てきた。
「こないだはね、ちょっと私も頭にきちゃってね……おどろいたでしょう」
「いえ、忙しそうだったので、私も連絡せずに来ちゃいましてすみませんでした」
「あの、ここっていつもあんなじゃないですから」と男は頭をかきながら席に座った。
「私、専務の大川です。えーっと、応募の書類、見ました。前は……肉屋でしたっけ。で、免許あるけど車の運転、普通にできるでしょ」
「ええ、以前バイトで酒屋の配達をずっとやってました」
「了解、うちの仕事難しいことないから、ただ忙しいだけ」
「そういうの大丈夫です」
「オッケー、採用します」
あっさり採用となった。『忙しいだけ』っていうのがいまのオレにはピッタリだ。こんどはまじめにやらないと……と自分に気合いを入れた。
初日、気合いが入って定刻より一時間も早く会社に着いてしまった。当然まだ誰も来ていない。入り口のコンクリートの段に座って待つことにした。
「ガシャッ」裏口の方でドアが開く音がした。『だれか居たんだ……』と眺めていると年配の男性が釣り竿とバッグを持って出てきた。こちらを気にもせず車に乗るとゆっくりと出て行った。
しばらくすると社員らしい人が次々と出勤してきた。
「おはようございます」女子事務員、年配の女性、男性が四人、続いて専務。オレはとりあえず全員にお辞儀をして最後に会社に入った。
朝礼で専務から皆に紹介された「えー、橘 ヒロシさんです。今日から働いてもらいます。以前は肉屋さんでなんかこう、挽肉とかいろいろやってたと聞きました。まぁ、うちはあんまりワザとか必要の無い仕事なんで、しっかりやってもらえれば結構です。じゃぁ橘さんから一言……」と専務に促されて一歩前に出た。
「どうも、初めまして橘ヒロシです。よろしくお願いします」
特に話すことも思い浮かばない。型通りの挨拶を終えると専務から自分用のロッカーと机をあてがわれた。
「今日は社員全員が揃ってなくて自宅から直接配達に行ってる社員がこの他に三人いるからね、会ったときにそれぞれ挨拶してください」と専務から補足説明。
「今日は中央駅周りのルートに行ってもらう。山本と一緒に行動して覚えてください」と専務は手招きして山本さんを呼ぶ。
「山本さんですか、これからよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく山本です」
山本さんは三十歳半ばぐらいのちょっと小太りの人だ。ざっと見た感じここの社員はみんな真面目に見える。専務以外はクセがなさそう。まぁ肉屋が特別だっただけか、こういうのが普通なんだな、と少し安心した。
「じゃ、倉庫へ」と山本さんが先に立って歩き出した。
その時、突然事務所のドアが大きく開いた。
「雨、降っちゃってダメだぁ今日は」と大きな声を出して年配の男が入ってきた。手には釣竿とバッグ。
朝、見た人だ。表で会社が開くのを待っているとき裏口から出て行った人に間違いない。
「社長さん、あの人が社長だから……」と山本さんが小声で教えてくれた。
一瞬オレと社長の目が合ってしまった。ちょっと緊張して直立の姿勢となった。
「ん、どなたかな? ……」
「はい、橘、橘ヒロシです」
「なに? 橘さん? えーと誰ですか?」
社長はオレが入る事を知らなかったようだ。何から言おうかと迷っていると奥から声がかかった。
「あんた、この間私が言ったじゃない、忘れた? 新入社員よ……」と言いながら年配の女性がソロバンを片手にモソモソと出てきた。
「社長の奥さんです……」とまた山本さんが教えてくれる。
「あぁ、そうか、聞いた聞いた、今度入ったのね」やっと社長は思い出したようだ。
「オッケー、よろしくね」社長は片手を挙げて敬礼し奥に入っていった。
「ごめんね、あれが社長の川田武、私が光子、あの人釣り気違いでね、平日から仕事放り出して行っちゃうのよ、あなた釣り好き? 」
「えっ、釣りですか……オヤジが好きだったので自分もやります」
「そお、じゃ、釣りで社長をおだてると待遇よくなるかもよ……」と奥さんはソロバンで背中をかきながら奥に引っ込んだ。
「社員は普通だが、社長、奥さん、専務、この上位三人は個性の塊だな」と思った。




