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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第五章 根津さん、聞こえますか?
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変わらぬ気持ち

由紀子と剣崎、アリとムハンマドはワゴン車に乗り込み、一騎の遺体が保管されているペシャワールを目指した。

 暑くもない汚くもない、由紀子がパキスタンに対して抱いた印象は、イスラマバードを離れるとすぐに打ち砕かれた。

終わりなき交通渋滞、手入れのされていないアスファルトは陥没している。イスラム国家であるから物乞いはいない建前ではあるが、やはり車が止まると物乞いはやって来る。若いアリは物乞いを視界にも入れないがムハンマドは小銭を施していた。途中フライングコーチと呼ばれる長距離バスが路肩で転倒していた。どういう事故を起こしたらバスが転倒するのか由紀子はしばらく考えねばならなかった。


ペシャワールには正午に着いた。冷房の効いたワゴン車を出ると熱気と埃が由紀子を襲う。

一行はホテルのレストランでカレーとビリヤーニと呼ばれる炒め飯で昼食を取った。観光客ではなく、また友人同士でもない彼らは共通の話題もなくひっそりと黙っている。

「奥さん、大丈夫ですか?」

剣崎は由紀子を気遣う。皆口には出さないがこれから一騎の亡骸との対面だ。かつて自分が経験したこともない遺体の運搬という難事業を出来るのだろうか、アリはその不安を隠しきれない。


彼らは警察署に着いた。アリが玄関にいた警察官に用件を伝える。警察官は剣崎、由紀子、アリを中に招き入れた。由紀子は暗い気持ちで剣崎の後に続く。

 遺体安置所はパキスタンでは珍しく冷房が効き、甘い大便のような臭いがした。

一騎と思われる遺体はシーツで覆われてストレッチャーに載っている。シーツを剥がしたら全く別人だった、なんて奇跡を由紀子は願う。警察官は剣崎に日本のパスポートを渡した。一騎のパスポートだ。これで一騎の生存は絶望的となった。剣崎が由紀子の方を伺うと、彼女は身を硬くして遺体に近づこうとしない。そこで剣崎が先に遺体を確認する事となった。剣崎は一度丁寧な合掌をしてシーツを剥がした。

剣崎は顔の潰れた惨殺死体との対面を覚悟していたが、そこのあるのは見慣れた部下の顔だった。

「綺麗なお顔ですよ」

剣崎はそう言って由紀子に亡骸を見せた。頬に一発だけ被弾していたがその他は本人だと識別するに足る状態だ。一騎は目も口も半開きで、酔っ払って眠りこんでいる体だ。

「彼はハセガワイッキか?」

警官は尋ねた。由紀子は観念しイエスと答えた。

「おい、起きろよ、長谷川、起きろよ」

剣崎はそう呼びかけた。その呼びかけは馬鹿馬鹿しいことこの上ない。それでも剣崎は一騎に声をかけずにはいられない。

「おい、長谷川、おい・・・・・」

剣崎の声が途切れ途切れになる。いくら呼んでも一騎は二度と目を覚ますことはない。剣崎は嗚咽を漏らし、由紀子やアリに涙を見せまいと壁に顔を向ける。アリは子どものように泣きじゃくっている。

やっと一騎は私のところに戻って来た、由紀子はそう思った。しかし十三年間の結婚生活の終わりはこれである。初めて気持ちが通じ合えた日の喜びも、一騎の嘘に振り回された事も、九年間の別居も、一騎への憎しみも、ゆるしも、全てが何もなかった事になった。

私達、傷つけ合うためだけに巡り合ったんやな。

由紀子は一騎の頬に触れてみた。その頬は冷たく、柔らかかった。由紀子は最後に一騎に触れたのはいつか思い出せない。今までの事はもういいから私も東京に行って良いですか?そう何度も言いかけたし、手紙も書いた。しかし手紙は投函できなかった。またいつものように答えを先延ばしされるのが怖かったからだ。こんな事になるならば伝えれば良かった。私の気持ちは変わっていない。出会った頃と同じなのだと。

由紀子は自分があまりに静かに泣いていることに驚いた。涙は後から後から湧いてきた。それなのに涙の理由が分からない。悲しみ?私に悲しむ資格があると?由紀子は寒いくらい冷房の効いた霊安室で、自分の涙の温かさだけを感じた。


検死の後の一騎は裸だ。一騎が粛清当時着ていた服は無造作に畳まれて近くのテーブルに置いてあった。

「これは長谷川一騎の物か?」

剣崎が聞くと、警察官は頷いた。

「持ち帰っても?」

剣崎の問いかけに警察官は面倒臭そうに再び頷く。死体も死体にしがみついて泣き喚く遺族も飽きるほど見てきた警察官は、目の前で繰り広げられる哀愁劇にもさして関心を示さない。剣崎は急に狡猾な目つきになって、やおらビニール袋を取り出すと、袋の中に一騎の血がついた遺品を突っ込み、素早くの自分のカバンに押し込んだ。更に上目遣いに警察官の出方を伺いつつ、再び一騎に向かって合掌すると、小さなデジタルカメラで遺体を撮影した。警察官は悪趣味な奴もいるもんだと言いたげな視線を剣崎に送ったが、特に咎めたてはしなかった。剣崎はシーツを脇に寄せて数多の銃創が残る胸部や腹部の写真も撮った。遺族に断りもなく亡骸をいじって。由紀子は嫌な気持ちになる。剣崎は何事もなかったかのようにカメラをしまい、シーツをかけるともう一度一騎に合掌した。

「彼の遺品は?」

剣崎の問いに警察官は部屋の片隅に置かれたスーツケースとショルダーバッグを指差した。剣崎は由紀子にちょっと失礼、と断りつつ中身を改める。案の定カメラやパソコンはない。

「本当にこれだけか?」

「そうだ」

「カメラやパソコンは?」

「知らない」

部族地域の人々は機密漏えいに憤慨してジャーナリスト達を粛清した。これ以上情報が漏れる事を恐れてカメラ類を没取したのだろう。とは言え剣崎は失望していない。一騎がウェブ上に保管した画像や映像を、蛍がCDに取り込んでいたのを知っていたからだ。その作業は深夜に及び、蛍は大きなため息をつきながらやっていた。


「長谷川をイスラマバードに連れ戻して良いのかな」

剣崎はアリに言った。アリはウルドゥー語で警察官に剣崎の希望を伝えたようだ。警察官は書類にサインをするように由紀に求めた。DNA鑑定は不要だ。アリの助けで由紀子が書類にサインし終えると、警察官は一騎のシーツを丁寧に巻き直した。そしてストレッチャーをゆっくりと押して玄関に向かった。剣崎とアリは一騎の荷物を持ってそれに続く。既に玄関には木製の質素な棺が用意されていた。棺の内側はビニールシートで覆われていた。剣崎とアリはシーツごと一騎を持ち上げて納棺する。警察官が棺の蓋を閉め、プラスチックの結束バンドで棺を封印した。

イスラマバードから乗ってきたワゴン車を玄関に寄せ、その場に居合わせた数人の警察官も手伝い棺をワゴン車に入れた。ワゴン車の座席は運転席以外全て畳まれている。一行はワゴン車とタクシーに分かれてイスラマバードに戻る。ムハンマドが一騎の棺をワゴン車で運び、由紀と剣崎、アリの三人はタクシーだ。

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