パキスタンへの旅立ち
翌朝由紀子と剣崎はホテルのロビーで待ち合わせをした。ホテルから駅までは歩いて行ける距離だ。特急に乗れば成田空港までは一時間足らずである。
特急電車の中で剣崎は声を潜めて言った。
「今日の速報でご主人の事を名前入りで伝えます。これ以上は隠しきれないので」
由紀子は硬い表情で頷いた。
「成田空港では撮影が入りますが良いですか?」
「撮影?」
由紀子は聞き返す。
「そんなに固く考えないで下さい。我々が搭乗するところを数秒カメラで追うだけです。ご主人の事は今の所公表していないので取材に来るのは我が社を含めて二、三社でしょうね。質問が来ても私が答えますので安心して下さい。奥様はカメラの方を向く必要もありません」
由紀子は不安になる。メディアに粗探しをされてバッシング、そんな事例をテレビで山ほど見て来た。自分は当事者としてうまく立ち回れるのだろうか。
平日の成田空港は空いていた。由紀子は灰色のパンツと白いブラウスという出で立ちだ。懸念していた報道関係者を全く見かけない。出国審査を経て由紀と剣崎はパキスタン行きの搭乗口へ向かった。
由紀子は遠目で大きなテレビカメラを担いでいる青年を認めた。
「来ているのはうちの社だけですね」
剣崎は耳打ちした。由紀子たちは歩き続け、カメラとの距離が近くなる。カメラの前にいるのは黒いスーツの根津蛍だった。由紀子は自分の顔が険しくなって行くのを感じる。いけない、こんな顔がニュースに出てしまったら。由紀子は自分を取り戻し、蛍に気づかぬ振りをする。隣を歩く剣崎が微かに頷いたように感じた。次の瞬間、蛍はカメラに向かって喋り出した。
「パキスタン北西辺境州で発見された日本人の遺体は弊社JNP通信の社員、長谷川一騎のものであるとの情報が入ってきました。繰り返します。パキスタン北西辺境州で発見された遺体は、弊社JNP通信の社員、長谷川一騎のものであるとの情報が入ってきました。これからご家族の方とJNP通信代表の剣崎二郎がパキスタンのペシャワールに向かいます。以上成田空港からの報告でした」
蛍は機械的に口だけを動かして報道した。私情を入れると涙がこぼれそうになる。剣崎は軽く蛍と香山に手を上げた。由紀子は前を向いたまま形ばかりの会釈をする。
香山のカメラは由紀子と剣崎の姿をいつまでも追い続けた。
由紀子と剣崎は夜にイスラマバードに着いた。その日は空港そばのホテルに泊まった。そんなに暑くない。そして思ったほど汚くない。
翌朝由紀子は午前五時に起こされた。由紀子が窓を開けると黄緑色のオウム飛んで行った。まだ日が昇り切っていないイスラマバードは清浄な空気に包まれている。由紀子は若い頃看護学生としてボランティアに訪れたコルカタを思い出した。由紀子が身支度を整えロビーに出ると、ホテルの車寄せには早くもスズキのワゴン車が横付けされていることが見て取れた。十人は乗れそうだ。この大型ワゴン車に一騎の棺を載せることを思うと由紀子の胸は塞がれた。
やがてパキスタンの民族衣裳、シャワルカミーズを着た女性がロビーに入って来た。女性用のシャワルカミーズはワンピースと長ズボンを合わせ、体の線が極力出ないような作りになっている。由紀子の前に現れた女性は還暦過ぎの日本人だった。
「長谷川さんの奥様でいらっしゃいますね。本当にお可哀想に」
女は由紀子を抱きしめた。彼女の体の温もりや柔らかさが由紀子を慰めた。
「わたくしは武藤照子と申します。ここで三十年間旅行代理店をしております。ええ、一騎さんの今回の取材もわたくしがコーディネートしましたよ。まさかこんな事になるなんて」
照子は指に腹で涙を拭う。
「わたくしどもが責任を持って一騎さんを日本にお戻ししますからどうぞご安心ください」
「主人とは親しかったですか?」
由紀子は聞いた。
「そうね、かれこれ十年間の付き合いになるかしら。一騎さんが別件での取材の帰りにイスラマバードに立ち寄って貰ったり、うちの息子が一騎さんを訪ねて日本に遊びに行ったりと親しくお付き合いさせて頂いたんですのよ。こちら息子のアリです」
照子は端正な顔立ちの青年を紹介する。
「イッキさんがいなくなって本当に悲しいです」
彼はパキスタン人の顔をしていたが、日本語を喋った。
「ペシャワールにはアリを行かせます。彼は日本語も英語もここの言葉のウルドゥー語も出来ますからきっとお役に立てると思います」
照子は由紀子と剣崎を車寄せに導き
「運転手のムハンマドも一緒です」
と運転手も引き合わせた。
「よろしくお願いします」
由紀子と剣崎は同時に頭を下げた。由紀子は離れていた九年間の長さを思い知る。照子や剣崎が語る一騎はもはや由紀子の知らない一騎だ。




