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ドブネズミ  作者: 山口 にま
第五章 根津さん、聞こえますか?
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ホルダー名はN

一騎のマンションの玄関の扉を開けた瞬間、由紀子は女物のシャンプーの匂いを嗅いだような気持ちになった。部屋に入った剣崎は布手袋をしてファスナー付きの小さなビニール袋を複数用意する。

「髪の毛が残って入ればいいんですがね」

そう言って剣崎は布団を剥いだ。

枕の上に残されていたのは明らかに女の物と思われる長い髪の毛だった。剣崎は由紀子に気づかれぬように素早く布団を元に戻し、

「やっぱり髭剃りの方がいいかなぁ」

と大きな独り言を言って洗面所に逃げて行く。そっと洗面所から由紀子を伺うと、彼女は瞬きもしない目で布団を見つめている。根津の奴何やってんだよと剣崎は心の中で蛍を叱りつけた。

剣崎が電動カミソリと歯ブラシをビニール袋に入れて戻ると、由紀子はベッドサイドの小物入れを一つ一つ調べていた。剣崎は由紀子に一つぐらい吉報を与えようと何気ない風を装いパソコン机の引き出しを開けた。蛍の言う通り保険会社の封筒が出て来た。

「奥様、これ、ご家族宛のものじゃないですかね」

封筒には神戸の自宅の住所と由紀子の名前が書いてある。

「こう言うのはその場で確認した方が良いから」

剣崎にそう促されて由紀子は封を切る。保険金の受取人は長谷川しなの、額は三十万ユーロ、日本円にして三千万円だ。特約として紛争地域での死亡や誘拐でも適用されると書いてある。まぎれもなく夫一騎が家族のために残した贈り物だ。

由紀子は目頭を押さえる。一騎から家族としての愛情を初めて感じることが出来た。剣崎は由紀子のご機嫌が治ったのを見てとると、一騎のパソコンに電源を入れた。

「このパソコンは会社の貸与品なんですよ」

剣崎はそう説明して由紀の権利主張を予め抑え込む。蛍の書いたメモ書きを見ながらパスワードを入力してみた。果たして、パソコンは正常に起動した。剣崎は安堵の息を漏らす。彼はすぐさまメールサーバーに入り、一騎とムスリム関係者との接触を探る。モスクでの同胞ならば一騎の弔いに対して良い知恵を授けてくれるはずだ。

ここで剣崎の携帯が鳴る。出てみると外務省だった。

「ちょっと失礼」

剣崎は携帯を片手に玄関を出る。パソコンは開いたままだ。由紀子は別居してから一騎の記事や写真を見ないようにしていたが、一騎亡き後は彼の仕事を見てみたくなる。由紀子は写真ホルダーを開けた。試みに一番上のNと名前がついたホルダーをクリックし、適当な写真を開いてみた。

三十代前半と思われる若い女の写真だ。閉まりかけた車のドアにマイクを差し入れる姿、逃げる取材対象を三角の目で追いかける姿。皆鬼気迫る写真だ。そうかと思うと不安そうな顔で窓の外を見る横顔もある。窓にかかっているカーテンはこの部屋の物だ。全て根津蛍の写真だった。


九年間も別居していたし、女性の一人もいても不思議ではない。でも部下とできてしまうなんてフィリピンのあの女の時と同じだ。由紀子は息が出来ないほどの怒りを感じる。一騎も蛍も許せないと思う。自分は九年間苦しく一騎を恨み、復縁を迷い、働きながら、それこそ死ぬ物狂いで子どもを育てて来た。それなのにこの二人は自分のためだけに好きな仕事をして、恋愛ごっこを楽しんで来たのだ。

由紀子が一騎と分かち合っていたのは、苦しいだけの愛だった。


剣崎が戻って来た。由紀子は急いで写真ホルダーを閉じた。由紀子は顔面蒼白だ。彼女の様子がただならぬことに気づいた剣崎は一つの提案をする。

「私は一度会社に戻ります。明日に備えて今日は早目に休んで下さい。今日はこちらに泊まりますか?それとも利便性を考えて駅に近いホテルを取りましょうか?」

「ホテルにして下さい」

由紀子は沈んだ声で答えた。剣崎はその場で駅前のビジネスホテルに電話をかけた。


蛍は会社を出た後、二週間ぶりに自宅に帰った。出かけぎわにあまりに慌てていたのでトイレの電気が付けっ放しだ。部屋全体が埃っぽく黴くさい。冷蔵庫の中身は大方腐っている。誰かが再び襲撃して来たら?それならそれで好都合だ。一騎のところに連れて行って貰える。蛍はタブレットを充電プラグに接続した。もう二度と一騎からビデオ通話がかかって来ることはない。蛍はメダイを握りしめ、聖母マリアに問いかけた。私はこれから生きていけるのでしょうか、と。

明日も朝から撮影が入っている。早く寝ないと。蛍はそれだけを思って、何も食べずにシャワーを浴びて寝た。


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