8 闇の中で聞こえる声
「レイ」
ヴィオレットの声は冷静でいようとして、それでもできなかった。
震える声と視線が少年へ向けられた。
「母さんの話を聞いていた? アリーサの中に入って、永遠の悪夢に閉じこめられるかも知れないって、ちゃんと聞いていた?」
「聞いていたよ、母さん」
「あなただってもう分かっているでしょう? 正しいからといってうまくいくわけじゃない。現実にはどれだけ正しいことをしようとしたって、裏切られることがたくさんあるって!」
「うん、分かっている」
息子は無情にも、素直に頷いた。
「だから早く、アリーサを起こしてあげないと。きっと泣いていると思うから」
「レイ!」
「……ダメよ」
息子を引き留めようとしたヴィオレットの声に、重なるように掠れた声がした。
モニカだ。白い手でぎゅうとアリーサの手を握りしめて、じっと娘の顔を見ながら彼女は言った。
「ダメよ、レイ。そんなこと。あなたには未来がたくさんある」
本当はモニカにも分かっていた。このままモニカが終わらない浄化を続けていても、娘には絶望的な未来がいずれ待ち受けていることに。
友人に酷い要求を突きつけた。ヴィオレットはモニカを見捨てることも、アリーサを見捨てることも、きっと心を痛めるだろう。
こんな母親のエゴに、友人の息子まで巻き込んでしまった。今更気づいても遅いのだが、モニカは後悔と共に娘の初めての友達に伝えた。
「アリーサと仲良くしてくれてありがとう。レイ。とても感謝していたわ。そして、あなたの申し出は本当に嬉しかったわ」
ベッド脇で娘の手を握ったまま、モニカは少しだけ振り向き、微笑んでレイを見た。
レイは彼女の言葉に眉間に皺を寄せると、モニカを、そしてヴィオレットを見上げた。少年の声は、心外だとばかりに少し尖っていた。
「モニカさん。母さん。僕の可能性を、僕の未来をあなたたちで勝手に決めないでほしい」
「レイ!」
「分かってる、母さん。僕のことを心配して、そう言ってるんだとは分かっている。でも冷静に考えて。モニカさんはアリーサの浄化の手を放せない。母さんは自分ではアリーサの中には入れない。じゃあここでアリーサを救うために動けるのは、僕だけじゃないの?」
「……っ!」
正論だ。ヴィオレットは言葉に詰まった。
しかし、分の悪い賭けだ。
「戻れなかったら、どうするの!」
レイは笑った。母を安心させるために。
「僕の聞き分けが悪いのは、ずっと前から知ってるでしょ。戻って来れないことを素直に受け入れる僕じゃないって、信じてよ」
ヴィオレットは思いっきり息子の頭を平手で叩くと、涙を拭って道具を取り出した。
「あなたの聞き分けが悪いことを、信じているわよ、レイ!」
「じゃあ何で叩くの。母さんは常々、理不尽だと思う」
「うるさい!」
真っ暗な闇の中に、小さな希望の光が灯った。
* * * * * * * * * *
真っ暗な闇を歩き疲れた私は、何十回、何百回となく遭遇した鏡の前に座る女性の脇で、しゃがみこんだ。
どこまで歩いても、いつも自然と彼女のところにたどり着いてしまう。
女性はずっと鏡をのぞき込んでぶつぶつと呟いている。
話しかけづらい。そして、話しかけたくはない。
しかし、どれほど歩いても何も変わらない。何かを変えるには冒険をするしかないのだろうか。
帰りたい。会いたい。母の姿と、そして別の人の姿を思い浮かべて、私はついに決心した。
「あの……」
私が口を開いたとたん、ぱしっと誰かが後ろから私の口をふさいだ。
「!!??」
焦った私はもごもごと叫ぼうとしながら暴れるが、口をふさいだ手は外れない。
話しかけようとした私の声に反応してか、ばっと女の人がこっちを向いた。
「!!!」
女の人の真っ黒な顔から、小さな目がいくつもこちらを向いていた。
それは全てを呪うような顔であったし、見たことを後悔するような、おぞましさに満ちていた。
がくっと腰が抜けて私がその場にしゃがみこむと、女の人はきょろきょろと辺りを見回し……そしてまた鏡に向き直った。
鏡を見つめる女の人は、また前のような綺麗な顔立ちに戻っていた。
私は腰が抜けたまま、呆然とその姿を見ていた。
ちゃんと話しかけていたら、女の人は私に返事をしただろうか。その顔を、無数の目をこちらに向けて。
怖い。怖くて涙が出てきた。
私の口をふさいだ手に涙がぽたぽたと流れると、その手がゆっくりと外れた。
「!?」
ばっと振り向くと、そこにはレイがいた。口元に一本指を立てて、しずかにという仕草をしながら。
「レ、レイ……! むぐ」
私の喜びと驚きの声はすぐに塞がれた。レイがもう一度私の口を塞いだのだ。
静かにしろと言いたげに彼の眉間に不機嫌そうな皺が寄る。
レイだ。懐かしいその表情に、嬉しくて私はまた涙が出てきた。
どれくらいぶりだろう。何でここにいるのだろう。
どうして、私がレイに助けを求めていたのが分かったのだろう。
どうして、私がレイに会いたいと思っていたのが分かったのだろう。
たくさん聞きたいことはあったけど、レイが私の口を塞いだままだったので、何も聞けなかった。
彼はもう一度、片手で静かにしろという仕草をした。
私は頷く。
彼は塞いでいた手を離して、私の手を握ると、こっちという仕草をして引っ張っていった。
後ろに、光が消えていった。
* * * * * * * * * *
私達は、暗闇をずっと歩いていた。
手を握るレイのぬくもりだけが、今はすがれるものだった。
沈黙の続く暗闇をずっと歩くのは怖い。
先ほども歩いている最中に時々泣いてしまった。べそをかきながら歩いても、毎回当然のように鏡の前に座る女の人のところに出ていた。
果てのない暗闇を一人で歩いている気分だった。
でも今は、一人じゃない。
前を歩くレイと話がしたい。しかし彼は手をぎゅっと握ったまま一言も話さない。
怒っているのだろうか。謝りたいのに。
後ろの光がどんどんと遠くに消えていった。不安になって私は後ろを振り返る。
するとレイは立ち止まって振り返るとじっと私の目を見て、もう一度自分の口元に一本指を立てて当てた。
声を出すなという仕草だった。
どうしてそんな仕草をするのだろう。声にだして言ってくれればいいのに。
それとも、話してはいけない何かがあるのだろうか。
私はもう一度後ろを振り向いた。鏡の前の女の人はもう見えない。
レイの方を振り向くと、彼は私の反応を辛抱強く待っていた。
私は彼の目を見て、頷いた。
彼はそれを見てちょっと笑った。一ヶ月ぶりの笑顔だった。
私も笑顔になった。なんだかすごくホッとした。
暗闇の中をまた歩いていった。会話はないけど、落ち着いたまま歩き続けて、しばらく経った。
「もう話しても大丈夫だよ、アリーサ」
ふいにどこかから声が聞こえた。レイの声だ。
ホッとして話そうとしたが、私の手を掴むレイの手の力がぎゅっと強くなった。
「……」
私は沈黙を守った。目の前のレイが振り向いて、話しかけてくれないと嫌だ。駄目だ。
だって目の前のレイが、私の知っているレイが、話しちゃ駄目って言っているんだもの。
「アリーサ、僕のことを嫌いになったの?」
「……」
なってないわ、レイ。
心の中で返事をしながら、私は歩き続けた。
歩き疲れて、もう歩けないと思っていたけれど、レイが引っ張ってくれているから、私はまだ暗闇を歩いている。
「僕が自分勝手でわがままで、情けない男で、君のことを守れなかった。きっと君は僕のことを嫌いになっただろうと思ったよ」
そんなことないわ。レイだって、私のことを嫌いになってない?
声がする度に目の前のレイが、緊張するように私の手を握る。私はレイの手をぎゅっと握り返した。
「アリーサ、お願い、何か言って」
ダメよ。じゃあ振り返って、ちゃんとレイが、私に話していいって言って。
暗闇の中を歩き続けると、ふいにどこかから明るい光が射し込んできた。
暖かい。まるで母に抱きしめられているかのようだ。
「アリーサ、アリーサ……。……ちくしょう」
レイの声が、最後に、憎々しげな女性の声に変わった。
* * * * * * * * * *
暖かい。光が射し込んでいる。
私はゆっくりと目を開けた。
私はベッドに横になっているようだった。窓の外からは朝の光が射し込んでいる。
私の右手を母が包んでいた。左手を包んで眠り込んでいるのは、レイだった。
私は目をぱちぱちと瞬かせる。これは、夢なのだろうか。それとも現実なのだろうか。
そういえばさっきまで、ずっと暗い場所にいて、レイが私を引っ張ってくれていたような気がするのだけれど。
首を傾げると、目の下にクマを作った母が私を見て、小さく微笑んだ。
「アリーサ……良かった」
「お母様?」
何がどうしたのか聞こうとしたら、母はゆっくりと私のベッドに倒れこんで、気絶するように眠ってしまった。
「お、お母様、お母様!?」
私は慌てて体を起こそうとしたが、目眩がしてそのままぱたりとベッドに沈み込んでしまった。
驚くほど体が重い。鉛のようなずっしりとした重りをつけられているかのようだ。
「眠らせてあげなさい、アリーサ。モニカはずっと力を放出していたから、疲れ果てているのよ」
「ヴィオレットのおばさま!?」
レイだけじゃなく、ヴィオレットのおばさまも私のベッドの脇にいた。
彼女もまたぐったりとした様子で小さな水晶玉をベッド脇の机に置いた。ぴしり、とヒビが入った水晶玉が割れた。
「レイ。アリーサは起きたわよ。あなたももう戻ってきたでしょう。起きなさい」
「……う」
何度か苦しそうに呻いて、レイが目を開けた。
レイはベッドの脇で私の左手を握ったまま眠っていたため、私達の距離はとても近かった。
間近で私の視線と彼の視線が絡む。宝石のような綺麗な青い目だ。彼はそれを細めて満足そうに微笑んだ。
ああ、ひさしぶりのレイだ。いや、ひさしぶりだっただろうか。さっきまでずっと一緒にいたような、変な気分である。
不思議な感じを覚える私にレイは話しかけた。
「……おはよう、アリーサ」
「おはよう?」
なぜレイが私のベッド脇で眠っていたのだろうか。
よくわからないながらも返事を返すと、彼は起きあがって私の顔をじっと見た。
「おとぎ話で読んだことはあるけれど、黄泉の国に妻を迎えに行った夫は、何で妻を見ないという約束を守れなかったんだろうと思った。色々なものが邪魔をするんだね。君が僕を信じてくれなかったら、あの黒い顔の女の人が、君を捕まえてまた引き戻すところだった」
「うん??」
レイは何を言っているんだろう。私が首を傾げると、彼は「落ち着いたら話すよ、だから今はゆっくり休んで」と私に笑いかけた。
「僕も正直ぐったりだ。母さんも、モニカさんも。そして君も疲れ果てているだろう。とりあえず、寝よう。もう朝だけどそんなことはどうでもいい。僕たちには休息が必要だと思う」
真面目くさった表情で彼は言う。
おはようと言ったばかりで、おやすみなさいと言うのは気が引けたけれど、私もなぜか疲れ果てて、もう瞼が閉じようとしていた。
「うん、そうね……そうね。おやすみ、レイ」
「お休み、アリーサ。そしてお帰りなさい」
彼の優しい声に、私はやっと安心して眠りについた。




