7 暗闇を払う光
モニカは、目に涙をいっぱいに溜めた娘が、ずっと玄関に座っているのを見ていられなかった。
そこで彼女は思いついた。レイに手紙を書けばいいと。
彼は間違いなく、アリーサを心配していたし、悪いことをしてしまったと悔やんでいた。今月来ていないのにはきっと何か事情があるはずだ。
モニカの言葉にアリーサは顔を輝かせて、走って自分の部屋へと向かっていった。その姿にホッとする。
最近のアリーサは、だいぶ情緒が不安定になっていた。
揺れる感情に引きずられるように、彼女の中の呪いの気配を感じていた。
それでも、アリーサはまだ聖女である母の魔力に守られている。
不安定ながらも、きっと大丈夫。落ち着けば、きっと。
モニカがそんな風に思っていたら、アリーサの部屋から悲鳴が聞こえた。血相を変えてモニカが娘の部屋へと向かうと、鏡に向かってアリーサは叫んでいた。
「消えて」「出て行って」と。
「ダメ、ダメよアリーサ! その言葉は、ダメ!!!!」
モニカの制止は間にあわなかった。その言葉と同時に、アリーサの中にあるモニカの魔力は、彼女の中の黒いものを消し去った。
強い意志と方向性を持って、呪いが消え去ることを望むこと。
それが一般的な「浄化」だった。
意志は言葉によって方向性を持ち、アリーサの中にあったモニカの魔力は、命令通りに呪いを消した。
しかしその呪いは、消しても消しても、より強く大きくなって、アリーサを包み込んでいった。
モニカの魔力がその黒いものに対抗する力を無くすと、それはアリーサの体全体を包み込み……そのまま、アリーサの意識は失われた。
残されたのは床に倒れ込むアリーサと、必死に彼女を揺さぶる母、モニカの姿だけだった。
* * * * * * * * * *
真っ暗だ。
何も見えないくらいの真っ暗な空間に、私はいた。
何でだろう。さっきまで部屋にいたはずなのに。
そうだ、母が飛び込んできて……どうしたんだっけ。
私は首をかしげると、暗闇の中を歩き出した。
歩いても歩いても、どこにも行き当たらない。
困ってしまった。母のところへ、早く戻らないといけないのに。
「――どうして私の鼻は、高くないのかしら」
「っ!?」
突然どこかから聞こえた声に、私は悲鳴をあげかけた。
驚いて見ると、真っ暗な中にぼうと光るものがあった。
鏡台だ。
その前に座っているのは、綺麗な金髪の綺麗な女の人だった。
「どうして頬はもっと紅くないのかしら。唇が艶やかじゃないのかしら」
彼女はぶつぶつと呟いている。
「眉の形も悪いわ。そばかすが気になるわ。まつげだってなんでこんなに短いの」
私はぽかんとその姿を見つめていた。
何を言っているのだろう、この人は。いや、ここはどこで、何でこんな状態なのだろう。
話しかければ、きっとその女の人は返事をしてくれるはずだ。こっちに視線を向けてくれるのだろう。そんな気がした。
それでも、その女の人に話しかけるのはためらわれた。何か恐ろしいものがそこにある気がして仕方がないのだ。
話しかけるのは最終手段にしようと思いつつ、私はそっとそこから離れた。
彼女の側を離れて、また歩く。どこまでもどこまでも。
どれほど歩いても、真っ黒な闇はいつまで経っても晴れてくれなかった。
* * * * * * * * * *
モニカ家からの早馬がきたのは、17日の深夜だった。
こんな夜更けに、と不審な表情でヴィオレットは渡された手紙を見て、顔色を変える。
「たすけて」と走り書きがそこにあった。
説明の余裕すらないようなモニカの文字に、ヴィオレットはすぐに出かける準備をした。
騒々しい物音に起きてきたレイが、目を擦りながら母の姿に問いかけた。
「母さん、どうしたの」
「レイ、ちょっと出かけてくるわ。すぐ戻るから」
「どこへ?」
ヴィオレットは迷った。
モニカ家の緊急事態だ。アリーサに関連する可能性が高い。レイに伝えれば、きっと彼はついてきたいと言うだろう。
どんな危険があるか分からないのに、息子を連れて行くことにためらいを覚える。
しかし、じっと自分を見つめるレイに、ヴィオレットは息を吐いた。
そうだ。あの手紙を読んだときに決めたではないか。彼の心を大人の気持ちで推し量るのはよそうと。
「レイ。落ち着いて聞いてね。モニカから手紙が来て、状況が分からないけど私に助けを求めている。すぐに向かおうと思うの」
レイは目を見開くと、すぐにそれに思い至ったようだ。
「アリーサのこと!?」
「そうね、その可能性が高いわ。でも、何が起こっているか本当にまだ分からないの。危険なことになっている可能性もあるわ」
「僕も……」
彼は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
僕も行きたい、と言うつもりだったのだろう。けれども危険の可能性をヴィオレットに告げられ、ためらった。
ためらったのは、危険だからではない。自分が足手まといになって、アリーサを助けられないことを危ぶんだのだ。
そんなレイにヴィオレットは苦笑した。
「あなたが聞き分けがいいと、母さんは戸惑うわ」
「母さん……」
「ほら、すぐ支度して。すぐじゃなきゃ置いてくわよ」
「!!」
ぱっと顔を輝かせて、レイは部屋へととって返した。
「三分待って、母さん!」
「はいはい、私は五分かかるわ。逆に母さんを置いていかないでね」
聖女の仕事道具を用意するために、ヴィオレットは奥の小部屋にと向かった。モニカが自分に助けを求めているということは、何らかの手伝いがヴィオレットにはできるということだ。
レイを連れて行くのは危険なことかもしれない。しかし息子一人守れずして何が聖女か。
これでもし、レイを連れて行かずにアリーサに最悪なことが起こった場合、息子は……いや、そんなことを想像するのはよそう。
今はただ、アリーサのことを案じよう。自分と同じように、モニカも命に代えても娘を守りたいと、そう思っているのだろうから。
* * * * * * * * * *
馬車を飛ばしに飛ばして、夜明け頃にはモニカ家にたどり着いた。
玄関の扉は開いていた。ヴィオレットはためらわずに屋敷へ入り込むと、アリーサの部屋に向かった。
ヴィオレットの後ろから小走りにレイがついてくる。部屋の前で彼を止まらせると、ヴィオレットは中に声をかけた。
「モニカ、いるの? 来たわよ」
「ヴィオレット! 入ってきて!」
中から悲鳴のようなモニカの声が聞こえた。
誰かに操られているといった声でもない。ヴィオレットは頷くと、それでもレイには「ここで待っていて」と告げた。レイは緊張した顔で頷いた。
慎重にと扉を開けて中に入ると、ベッドにアリーサが横たわっているのが見えた。
アリーサの手を両手で包むように、モニカがこちらに背を向けてベッドの横に座っていた。
「いったい、何が起こったの?」という質問を口にする前に、ヴィオレットは異変に気づいた。
アリーサの回りを黒いものが取り囲んでいた。
それはアリーサの中から溢れるように広がり、彼女の姿を完全に黒く染める前に、モニカによって消し去られていた。
黒いものがアリーサを取り囲むと、モニカが手に力を入れ、そこから光が放たれる。何度も何度も繰り返されるそれに、やつれた顔をしたモニカは言う。
「ヴィオレット、見ての通りよ。アリーサは飲み込まれてしまった」
「……っ」
アリーサの回りを守るようにしていたモニカの魔力が見あたらなかった。
呪いが、彼女を支配しようとしていた。
「私が浄化をやめたら、アリーサはおそらく死ぬわ。他の令嬢と同じように、鏡に顔を叩きつけるようにして」
ぼろぼろとモニカは涙を流した。
今モニカが行っているのはただの対処療法だ。解決策はない。いずれモニカの力が尽きれば、アリーサは飲み込まれていく。
ヴィオレットはモニカの隣にかがみ込むと、単刀直入に聞いた。
「私に何ができる?」
モニカは光で暗闇を散らしながら必死の口調で言った。
「ヴィオレット、私を娘の中に連れて行って。意識が沈み込んでいるアリーサを、連れ出すしかないの」
「……っそれは」
ヴィオレットは浄化の能力はない。聖女によって能力が異なるのだが、ヴィオレットの力は夢払いであった。
起きているときはその意志の強さで呪いや悪意を跳ね返していた人が、無防備な夢の中では悪夢にうなされることがある。
たかが夢、とあなどることはできない。夢はその人間の魂に密接に結びついていることもあるのだ。
悪夢を払うのがヴィオレットの力なのだが、その力の応用で夢の中に他人の意識を送り込むことができる。
起きると悪夢を忘れてしまう人の原因をさぐるべく生み出した力なのだが、あまりに危険が高いため使わないように神殿の高位者に警告されていた。
悪夢を見たまま夢主が目を覚まさないと、入り込んだ人も抜け出せなくなってしまうのだ。そんな危険な力を、使うわけにいかなかった。
「……ダメよ、モニカ」
「危険なのは承知の上よ! このままじゃ、アリーサは」
「それでもダメなの。あなたが浄化をやめたとたん、アリーサは黒い呪いに閉じこめられる。起きることができなくなるわ。起きることがないということはあなたも一緒に永遠の悪夢に閉じこめられるのよ。呪いに負けたアリーサが自分の命を絶ったら、あなたの魂はいったいどこに行くのかすらわからないわ」
ヴィオレットの説得にモニカは憔悴した顔のまま少し笑った。娘の手を握る両手に力を込める。
黒い闇がはじけて、アリーサから離れていく。そしてまた、戻ってくる。繰り返しだ。
「……いっそ、それでもいいと思っているの」
「モニカ……」
「私のせいで、アリーサはこんなことになって……まだ10歳なのに、我慢させるだけさせて……。私ばっかり生き延びることなんてできない。ならいっそ、一緒に行くわ。どこまででも」
強い意志のこもったモニカの言葉に、それでもヴィオレットは首を横に振った。
「それは、ただの自殺だわ、モニカ。……私には手伝うことができない」
「じゃあどうしろっていうの! 私は死んでもこの手は離さないわ!」
「モニカ、落ち着いて。他に浄化の力を持つ者を連れてくる。……それまで耐えられる?」
無理だろう、とヴィオレットは思った。半日でも力を放出し続けることが異常なのだ。言うなれば大声を出し続けて黒い闇を払っている状態だ。いずれ彼女の声が涸れるのは目に見えている。
それでもモニカは頷いた。すがるような目をヴィオレットに向ける。
「分かったわ。私、三日でも一週間でも、こうして耐えるから。お願い、お願いよヴィオレット。誰かが来たら私が娘の中に飛び込むわ。飛び込ませてくれるわよね、約束してくれる?」
「……ええ」
モニカの家は僻地だ。中央の神殿までは片道で一週間ほどかかる。こんな地方には他に浄化の力を持った人間など登録されていない。
ヴィオレットは途方もない苦痛を感じながらも、ゆっくりと立ち上がった。
そこに、静かな声がかかった。
「僕がアリーサの中に入るよ」
振り向くと、レイが声と同じくらい落ち着いた瞳で、ヴィオレットを見上げていた。




