聖剣拝領、破の急 2
やっと暑さがひいてきました。今まで死んでいたのが生き返った。
お待たせしました、更新です。超展開、急展開ですが、やっと物語全体を通してのプロローグが終了しました。
あまりに急で非難轟々となりそうですが、どうぞ。
夢から醒める。この六年は、無駄だった。
だけど、無意味ではなかった。僕はそう信じる。
† † † † † † † †
「〈暗い暗い谷底で、永久に続く夢を視よう〉」
この世とあの世。
「〈今あなたは私の前に輝き、華やかな装いで光を体に浴びながら、
奇跡のように立っている〉」
現世と幽世。
「〈あなたは光の中に私を見つけ、私はあなたの髪に祝福の香油を注ぐ〉」
生と死の狭間で金色の女は唱えた。
「〈さあ雲の中に虹を置こう、塵の中に住まう者は目を覚ませ。
主はお望みになられたのだ、神を誉め讃えよと〉」
――あたかも、メシアの生誕を祝う聖母のように。
万人の尊崇を以て讃えられるであろう美と退廃、殉教への誘惑に満ちた女の面前には一つの盤がある。
その盤面には無限が広がり、時と人、火と灰、空と風が置かれていた。
現世を象った盤面は、しかし完全な膠着状態に陥っている。発展の余地のない袋小路に行き当たっているのだ。
むべなるかな、対局するはずの打ち手が不在で、手駒を取り回しても望む勝利が手に入らないのである。
対局相手やジャッジを下す審判が居ない以上、勝負は成立しないまま放置されるのが自然だ。そも戦えないのだから、負ける事もできないのは自明の理。故にこのゲームの一切は全て無駄であると結論した。
無駄は省くべきだ。
意義のないゲームにかかずらっていられるほど暇ではない。
この身は所詮影法師、本来の打ち手の代理人。亡き主人の望みを叶えるために、遊んでなどいられないのだ。ひたすら満願成就に向けて邁進するのみ。
舞台はようやく序盤から中盤へ差し掛かろうとしている。
駒を揃えるのに何百という歳月を掛け、自由意志を持つ駒がレールの上を歩むよう脚本を描き、演目通りに役者が演じられるよう下準備を整えてきた。
最後の役者が出揃うまで、あと少しというところだ。
長かった。ほんとうに、長かった。
此処に至るまでの道程、辿った道筋、ただただ継続してきた試行の歴史。
人を創った、王を創った、英雄を創った。舞台を築き、脚本を練り、筋書きから外れた運営にテコ入れを行ない、此処に到れる有資格者を生み出した。
たった一人だ。たった一人の有資格者を手に入れるため何人の木偶人形を造り、壊し、英雄のラベルを貼って使い倒したか。もう数えるのも馬鹿らしい。
だがそれが徒労にならなかったのは幸いである。あと少し、あと少しで始められる。
始まるのは人類救済の英雄譚……? 違う。
では世界救済の伝説? いいや、違う。
人間賛歌、それに近い。
だが違う。
もっと独善的だ。もっと自分本位で、我田引水とでも言うべき叙事詩。
始めるのはそれ。この身の創造主と志を同じくしていながら袂を分かった、御方の愛する者との決戦を目指す相剋。
自分の方が上手くやる、お前には負けない――ただそれだけの、対抗心。そこから始まった創作の競争。
故に始まるのは一人芝居。
主役は単一。他は残らず端役ですらない舞台装置。
三文芝居を続けてきた甲斐があった。これこそデウス・エクス・マキナとしての面目躍如だと、今は亡き御方もきっと褒めてくださる。
脚本や舞台の出来など二の次三の次、真作の人間を生み出せればそれで良いのだ。贋作だらけの手札に、たった一枚のジョーカーさえ加わるならそれでいい。
今からもう待ち遠しかった。胸が苦しくて、切なくて、はしたなくも哀願してしまいそうだ。早く来てほしい、と。すぐにでも来てほしい、と。お前だけを望む、お前だけが望みなのだから。
真作の人をこの手に掴む。御方の悲願を成し遂げて大神に魅せてやろう。遂に御方の御業は真実、本物の人間を創り出せたのだと。贋作と呼ぶのも烏滸がましい習作の山の頂きに、真作と言える人間の創造工程を掲げられたのだ、と。
主役は異界の者。彼は自身に絡みつく糸に操られるままレールの上を疾走している。
二つの人形より御子を奪い、大神の眷属に御子を奪われ、眷属と人形をぶつけ御子を取り戻そうとしていた。
それでいい。これで後の事象は決定された。もはやシナリオから外れる事はない。必然の着地点に到達すれば、後はもう野となれ山となれ……筋書きを超えて思うまま歴史の上を駆け抜ければいい。
何も心配はない。懸念すべきイレギュラーもない。我が掌中にありて、彼の嘆きも、彼の悲憤も、心震わす激情も、全て炉に焚べられて薪となる。
これより先、鼻につく愁嘆場は不要だ。所詮ここは通過点、些細な事で立ち止まられても困る。何よりこんなところで躓かれては、せっかく介助して強くしてやった甲斐がない。
霊峰の山頂、祭壇に置かれた首を前に青年が自失している。
名前を知っていただけの女を守れず、何が起こったのかも分からぬ蒙昧のまま無様を晒している。
だがそんな様すら微笑ましい。彼には悪い事をした、しかしこれより先にあるのは約束された無窮の栄光。永遠に褪せる事のない栄誉。多少の悲劇など、彼の生を彩る宝石のようなものだ。
――金色の貴婦人が、愛おしい宝物を愛でるが如く、陶然として黄金の剣に指を這わせる。そして囁くのだ、黄金の神王に仕えた原初の眷属は。
「吾の待ち人、来たれり。汝の到達を赤心より寿ごう」
† † † † † † † †
また――記憶が飛んでいた。
これで何度目だろう、と漠然と思う。記憶が断絶するのは初めてではない。以前にも似たような経験があった。
思えばここに来てからだ。この六年で何度も記憶が途切れている。
一年に一度降る雪によって長期的に脱力させられ、不自然に意識が飛んでも気にする事がなかった。その間に何があっても、特にどうとも思わなかった。
たとえば、いつの間にか真人になっていた。
たとえば、いつの間にか識らない魔術を身に着けていた。
たとえば、いつの間にか識らない技術を身に着けていた。
以前とは比較にもならないほど、桁外れに強くなっていたのだ。自分の記憶が飛んでいる間に。そうした時には決まってなんらかの成果が手元にはあり、アーサーは釈然としないものを感じながらも問題だとは思わなかった。
いや問題だと思えなかった。認識が狂っていたのだ。だからアーサーは急増した魔力量を制御できず、己の魔力に制限を掛けたのである。
地面に両膝をついて、茫洋とした眼差しで祭壇に置かれた首を見る。
それは、女の首だ。祈るように手を合わせ、鮮血を撒き散らした女の体が祭壇の前に倒れている。首を無くした女の死体のすぐ傍には、頭部を粉砕されて死んでいる魔族もいた。
血がこびりついた刀剣を握っている魔族は、どうやらアーサーに殺されたらしい。らしい、というのは、アーサーには彼を殺傷した記憶がないからだ。状況を見るに魔族が女の首を刎ね、その直後に魔族はアーサーの鉄棍で撲殺されたのだろう。
言葉が出ない。頭の中は透明な闇で混沌となり、気が狂いそうだった。
山麓からは戦闘の気配がする。天地をどよもす獣の咆哮が轟き、山頂に侵入せんとする人魔の者たちを阻む、猛り狂った竜王の暴威がカンサスの大地を侵していた。
竜王はその名に恥じぬ大怪物だ。二人の剣豪はおろか、魔族たちですら彼の竜王の守りを突破できずにいる。まるで竜王は実現された祭祀の妨害を赦さぬ門番のようである。
御子の首を捧げられ、祭祀は成った。故に使命を帯びた人と魔の者たちは、必死の形相で山頂を目指し、立ちはだかる赤き竜王と戦っていた。人と魔はそれぞれ仇敵だ、共闘など望めない。竜王に立ち向かいながらも両陣営は相手を出し抜かんとしている。
その戦闘の激しさは耳に届く、肌を打つ――だがそんなものになどアーサーの意識は向いていなかった。
刳り貫かれた女の両の目。眼球を失った奈落のように暗い眼窩を、青年は空虚な眼差しで見詰め続ける。
祭壇の向こう側には次元の狭間とでも言うべき亀裂が走り、途方もなく神聖な魔力が流れ出ていた。
だがそれがどうしたというのだろう? 青年は必ず守ると約束した女が、自らの関知しないところで死んでいるのに絶望していた。
所詮は名前を識っていただけの他人だ。だが彼女は元の世界への帰還を熱望している青年にとって、稀薄ではあっても元の世界の思い出を感じさせてくれる数少ない人間だった。そして何より彼自身も出処が判じられない、彼女への執着めいた感情を抱いていたのだ。
この六年間に自身を襲っていた原因不明の記憶の断絶、そして意識と記憶がない間に活動している自分。
アルトリウス・コールマンという青年は、この世界のアルトリウスに憑依する形で現れた。故に意識がない間はこの世界のアルトリウス、本来の体の持ち主が活動していたのかもしれない。
もしもそうであるなら、アーサーはこの世界の自分を許せそうになかった。出会って間もなく、関係性も薄い女の死に、こうも絶望している由縁は定かではないとしても。この世界の自分が関わっているのなら、憎むに値するとすら言える。
そうだ、憎いのだ。なぜなら調月扶桑という女は自分にとって――
『吾の待ち人、来たれり。汝の到達を赤心より寿ごう』
「……?」
次元の揺れ目、空間に奔る黒い亀裂。そこから聞き覚えのない、しかしどこかで聞いた事がある気のする声を耳にして、アーサーの意識は急速に現実へと回帰した。
「………」
女の首の向こう側。刳り貫かれた彼女の両目が見据える先に視線を向ける。
そしてアーサーは無意識に、だが確信を持って誰何した。
「……マーリン?」
それは、いつかの自分が破壊した、演算補助宝珠の補助人格の名前。その誰何に、女の声は隠し切れぬ喜悦を滲ませて応える。
『如何にも。吾はかつてダーム・デュ・ラック・マーリンとして、汝を助けた事がある。だがそれは吾の切れ端、仮想人格を積んだ端末に過ぎん。吾の名はアリーア・エンテオ・フィリア、かつて神王の御元にて人を統べた魔導大国ソロモンの王であった者。異なる次元より来たりし者よ、この狭間へと来たれ。さすれば汝の望みは叶うであろう』
「………!」
異なる次元より来たりし者。
自分の望みが叶う。
その抗えない甘い誘惑の言葉に、アーサーは思わず黒い亀裂を注視する。
気がつけば立ち上がっていた。そして理性の歯止めも利かないまま、祭壇を飛び越えて次元の亀裂に飛び込んでいた。
次の瞬間、目映いばかりの光に目を灼かれ、眩む。呻き声を漏らしながら強烈な光に堪え、光が収まるのを待って目を開くとそこには――〈神聖〉が、広がっていた。
「ようこそ、吾の待ち人。待ち望んだ〈唯一の人間〉。アルトリウス・コールマン」
其処は、光だった。有り得ざる黄金だった。
澄み切った清浄なる湖に囲われた孤島は、緑の映える木々と濃厚な土の香りに包まれている。悪心を招くほど清らかな風が穏やかに吹き、安らかな眠りを誘う空気に満ちていた。
だが邪なる黄金としか形容できない、悍ましい印象が付き纏う。
孤島の中心にある聖壇のせいだろう。それは無数の髑髏によって成り立ち、夥しいまでの〈念〉が凝縮されていたのだ。
勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい! 敗けたくない、我はただ一心に勝利を望む。体は朽ち死に絶えた身であろうと、勝利への渇望だけは失わない。敵を殺し、殺し、皆殺しにして根絶やしにするまで我に安息など一切無用――そんな絶望的な思念が渦を巻いている。
「ふふ……久しいな、マイ・マスター?」
女は笑った。聖壇の頂にて青年を見下ろす、魔性の美を象る魔女が笑った。
邪心なく嬉しそうに。
積年の宿願を成し遂げた喜びが抑えきれないように。
皮肉とも取れる言葉の裏に、悪意は欠片も感じられない。
「これなるは有史以来、戦場にて死に絶えてきた者どもが行き着く希望の島。敵対者を滅ぼさずにはおれぬ、神の使徒どもの渇望の形。これを目にして声一つ漏らさぬ、恐怖も嫌悪も生じさせぬ。どころか、正気を保っているという時点で、吾は確信せざるを得ない。やはり、と」
「………」
「吾は間違ってなどいなかった。この世界で人間と定義し得るのが大神の眷属のみで、主の眷属は残らず贋作である。故に真作の人をこの手にせんがため、真の人たるを外に求めたのは間違いなどではなかったのだ」
「何を言っている……?」
聞いてはならない、知ってはならない真理を聞かされている気がして、堪らずアーサーは口を挟んだ。
しかし黄金の女は異常に長い金色の髪を虚空に揺蕩わせながらも、青年に構わずに続ける。
「真なる人間とはどれほど脆弱であり邪悪であろうとも、その魂の芯には必ず黄金を有している。それはつまり意志の燦めき、人を人たらしめる貴きもの。そしてこの世で、我が主の眷属の中で、その黄金を有するのは汝のみだ。すなわち汝のみがこの剣を手にする資格を持つ」
まるで歌劇の俳優の如く、大仰な手振りで女は指し示す。
示したのは、自らの傍らにある金色の剣。聖壇に突き立つ兵器。十の指輪を十指に嵌めている女は、妖艶に青年を手招いて謳う。
「さあ、これを。この剣を抜き取り、資格を有する証とせよ」
「……私が?」
「そうだとも。〈聖剣コールブランド〉とは神王の佩剣にして真作の人……すなわち真実〈真人〉と呼べる者のために遺した鍵。汝にしか抜けぬ、扱えぬ」
アーサーは、嗤った。何もかもが滑稽だった。
王の助言者と、湖の貴婦人と、そしてソロモン王と名乗ったこの女。これらが同一人物であり、アーサー王伝説の無いこの世界で、アルトリウス……すなわちアーサーと呼ばれる自分が、聖剣コールブランドを手にする?
可笑しかった。嗤わずにおれない。アングロサクソンであるアーサーが、聖剣コールブランドを抜くだなんていったいなんの皮肉だ? プライドが高い、黒い冗句を好むと見られるイングランド人であるアーサーをして、これほど笑えない冗句を突きつけられた事はない。
「私にそれを抜け? なぜだ。お前は私に願いが叶うと言っただろう。それ以外に興味も関心もない」
乾いた嘲笑を浴びせると、女はあくまで悠然と、超然とした佇まいのまま応じた。
「これは、神王の贈り物である。故にこれを抜いた者には、神王が込めた奇蹟により一度だけ、心底の願望を汲み取り叶えられる機構を有している。願いを曲解せず、過たず正確に叶えるであろう。故に吾の言に偽りは皆無。さあ――汝、黄金の心魂を有せし者よ。聖剣を抜きて自らの願望を成就させるといい」
「―――」
女の言葉に、嘘の気配はなかった。
否、そんな事はどうでもいい。仮にこれを抜き願いを叶える事で、よからぬ事が起こるのだとしても。女の真意が悪意に塗れていたとしても。アーサーはどうしても叶えたい願いがあった。
元の世界に帰る。何を置いても必ず帰る。そのためなら何を犠牲にしてもいい。アーサーは誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように、よろよろと歩を進めて聖壇の階段を登っていった。
女が、祝福するように微笑んでいる。聖剣の柄に手を伸ばすアーサーを、彼女は心から祝福していた。
そこに邪心はない。悪意など絶無だ。
だが、女は言った。
「一つ、聞きたい事がある」
「………」
「汝は主の佩剣を抜きし時、何を願う?」
「……お前に、なんの関係がある」
煩わしい。答える義理はない。
邪険にする青年に、しかしあくまで彼女は優しげだ。
「関係はない。そして、吾の問いに汝が答えねばならぬ義務もない。ただの興味本位だとも」
なら答える気はない。アーサーは聖剣の柄を掴んだ。
豪奢な剣だ。華美な刀剣だ。綺羅びやかな装飾など一つもなく、白銀の刀身に金色の紋様が奔っているだけの剣は、宝剣のように絢爛たるものだった。
特別な力は感じない。そして、抜けるという確信だけがある。今か今かと聖剣自体が待ち望んでいるような、そんな気配だけを感じていて。
これを抜けば、帰れる。切望していた元の世界への帰還が成る。アーサーは自然、沈みきっていた心が高揚しようとしていた。
だが。
ふと脳裏を過ぎる、女の首があった。
「―――」
関係ない。関係ない。関係ない。
帰る、元の世界へ。そうだ、何も関係ない。
自らに言い聞かせながら、聖剣を抜く。剣の刀身から半ばを呑んでいた、聖壇からするりとコールブランドは抜けた。
なんの抵抗もない。ただただ聖剣が喜んでいるのが感じられた。そして無垢な赤子のように、何かがアーサーの心に触れてくる。
汲み上げられる。汲み取られる。形容できないモノが、アーサーの願望を形にしようとしている。そしてそれを眺めていた女は、歓喜するように寿いだ。
「――素晴らしい。流石は、人間。その願いに祝福あれかし、その尊くも勇ましき意志に光あれ! 自ら苦難の道を選ぶ、汝の誇り高きを吾は賞賛しよう。おお、万歳! いと尊き人の偉志よ!」
世界が歪む。あらゆる次元の狭間に漂う孤島が歪む。
聖剣から噴出する奇蹟の力で何もかもが捻れていく中、美の化身とも言える女は両手を振り上げて絶賛していた。
アーサーは、何も言わない。言えない。自身が何を望んでいたのかを、無理矢理に自覚させられたのだ。そして何が起ころうとしているのかを感じ、信じられない気持ちで呆然とする。
「私は……」
渦を巻く時の歯車。それが自らを雁字搦めに捕らえていく。ただただ呆然とする青年は、ケタケタと笑い転げる聖剣の意志を感じ取っていた。
――お前は勇者だ。地獄の底を歩む運命の子だ。その証明として奇蹟を与える。お前は征くのだ、神々の代理戦争の終着を見届けに。
女が讃える。あくまでも崇める。女は、信じられないといった面持ちの青年が消えるその直前に言った。
「さらば。吾は使命を終え、ここに永遠の死を賜る。しかれどもこの身は汝に侍るもの。故に、すぐき訪れるであろう再会の時を、本心から心待ちとしておこう」
その言葉を最後に、アーサーの意識は暗転した。そして――
† † † † † † † †
そうして目を醒ましたアルトリウス・コールマンが見たのは、六年前――アルドヘルムに〈契約〉という名の呪いを掛けられた後。かつてこの体が故郷としていた場所の、戦場跡地の景色だった。
『六年の内に失っていた時間を取り戻したい。調月扶桑を助けたい。そのための機会を手に入れたい』
アーサーが望んでいたのがそれだった。
元の世界への帰還という願いよりもなお強く、自らを支配していた何者かからの脱却と。そしてそれに纏わる自我の確立、自身の意志が介在しなかった結末の否定こそが、アーサーの望みであったのだ。
六年前、まだ少年だった頃の自分の体に立ち返ったアーサーは、自らがアルドヘルムとの〈契約〉に縛られていない事に気がつくと、心底から滲み出る情動に震えた。
自由だ。今、アーサーは自由を得たのだ。
だからこそ彼は笑う。たとえ誰が嘲笑おうとも、己を操る事など認めない。自分で選び、自分で進んだ先の結末なら受け入れられても、自分の意志が介在しなかった終わりなど認められるものか。
ただ……アーサーは一つだけ、どうしても不思議に思ってしまう。
個人的で些末とも言える矜持のためだけに、なぜ自分は元の世界の帰還よりも今を選んだのだろう。
それほどまでにあの女の……調月扶桑の死を受け入れられなかったのか?
「ああ……そうか」
不意に得心がいった。
アーサーはただ大切な元の世界の残影を、無惨な死に至らしめる事が許せなかったのだ。
つまるところ、自分が知っている人間が。元の世界というかけがえのない希望の形が。僅かにでも穢されるのを許容できなかっただけなのである。
ただ、それだけだった。論理的でも何でも無い、幼稚で愚かな選択。それが折角のチャンスをふいにした。
それが分かったからアーサーは笑えた。笑って――そして一歩を踏み出す。
アーサーは投げ出していた。自分を構成する要素に、自分以外は一切無用。故に誰かに恵んでもらった力なんて要らないのだと。いつの間にか手に入れていた真人としての力の全てと、技の全て。それらを捨てていたのである。
等身大の、元の自分。中身に相応しい少年の姿に戻れただけ。
悪夢めいて冗長だった六年は畳まれた。無駄に長い前ふりは終わったのだ。ここからようやく、少年の旅が始まるのである。




