運命の秤が傾くのは 3
【嘗て此処彼処に賢しき女ども座せり】
【ある者は戒めの鎖を整え、ある者は腐り飯を拵え、ある者は毛髪を毟り取れり】
【勇多き男ども、己が女のため指し示して曰く】
【『戒めを脱し、悪しき者の手より逃れよ!』】
――〈Unio Mystica/神意合一〉――
【此処に屍を礎として三門を築く。男ども、門を開きて三界を得よ。
〈Vere ac libere loquere./正しく自由に語れ〉!】
【凍えた愛を掻き捨て仏門を叩く。女ども、門を潜りて生命を得よ。
〈Memento vivere./お前は生きる事を心に留めよ〉!】
(なんだろう、あれ……?)
グラスゴーフ運営本部付参謀室により、地下シェルターへの市民の緊急避難が決定された。
だがそれはあくまで事が起こった後のものであり、まだ市民には避難命令が出ておらず、避難誘導を行う予定の警察機関は誘導路と避難先の選定を進めている最中でしかなかった。
鳶色の髪の幼い少年は、同色の目を凝らして南西の城門に視線を向ける。
インナーシティの要人居住区にある、王立ホテルの最上階の窓から体を乗り出した。南西の門の前に、縦に引かれた黒い線が突如発生してきたように見えたのだ。
ここからはそれなりに離れている。少年自身のポテンシャルが魔導師以下の魔法使いより更に低いものであるため、魔力反応の有無は感知できない。
魔道に於いては凡庸な少年がそれに気づけたのは、単に何をするでもなく窓から外を眺めていたからだ。きっと今はまだ、あの黒い縦線に気づいた存在は少ないだろう。
あれを見ていると、うなじの辺りがムズムズとして気持ちが悪い。夜中に蜘蛛を見つけてしまったかのような不吉な予感がして、どうにも落ち着けなくなるのに、全く目を逸らそうという気になれない。
あれは善くないものだ。目を背けてはならない。見なくてはならない。否――あれは暴き、潰し、掻き消さなければならないものだと、少年の中の深い部分から訴えられているようだった。
「どうかしたかな、バレット」
先刻までユーヴァンリッヒ伯爵との【大人の話し合い】をしていた父が、ソーサーの上にカップを載せて近づいてきた。
カップからは湯気が立っている。紅茶だ。本当なら給仕役の従僕にさせるべき仕事であるのに、父エルバート・ダンクワースは少年、バレットに対しては自ら世話を焼いてくれる。バレットとの時間を大切にするためだと言って、極力第三者を間に入れないのだ。
「父上……」
「ここには君の好きなゲームもない、退屈だろう。私と話でもしないか?」
ユーヴァンリッヒ伯爵は苦手だ。あの何もかもを見透かしたような瞳に、心の奥底まで暴かれているようで、彼の視界に収まっているのに堪えられず途中で離席してしまった。
礼儀で言えばマズかったかもしれない。父の面子を潰す行動は軽率だと詰られても文句は言えない。気まずさから、対面にエルバートが座ると顔が強張ってしまう。
窓際のテーブルにソーサーが置かれる。そうして口火を切った父からバレットは目を背けた。
バレットはエルバートの次男だ。しかし全くの別人でもある。この血と肉は確かにエルバートの遺伝子を継いでいるが、その魂だけは別物なのだ。
【鏃の御子】という、神王の名前のない三兄妹の一人。時を超えて人間の中に憑依転生を繰り返し、その権能を以て魔族へ対抗する切り札。それがバレットの正体だ。
エルバート・ダンクワース――ウェスト・リーズ侯爵の次男に、今代の【鏃の御子】は転生したのである。
しかしバレットに鏃の御子としての力はあれど、その自我はあくまでバレット自身のものでしかない。ウェスト・リーズ侯爵家に生まれ、優しくも誇り高い父と母、兄と執事、メイドに囲まれて育った、ごく普通の貴族の少年でしかなかった。
貴族として人民に尽くし、王国と人類全体の損益のために生き、そして人類のために次代へ全てを引き継ぐ。長男か長女のいずれかが軍に入るのが貴族の義務である以上、次期侯爵となるはずだったバレットは、その人生を貴族として捧げるはずだったのだ。
だがバレットが今代の御子として生まれ変わった時、全てが変わった。
貴族としてではなく、兵器としての人生を送ることを決定され。しかしこれまで例のなかった原因不明の欠陥により、バレットは感情の全てを失った。
鏃の御子とは激しい感情を発露する、制御の利かない誘導弾のような存在である。その感情の揺れ幅をエネルギーに変換し、大規模な破壊を撒き散らす核兵器のようなものだとでも言えば分かりやすいだろう。
扱いは難しいがその戦術的な効果は極めて大きく、運用方法さえ誤らなければ絶大な戦果を齎してくれる強力な兵器。――それが感情という動力を失ったのだ。鏃の御子の存在意義が喪失したに等しい。
今代の鏃の御子を弑し、次代に器を替えるべきだ。次代もまた同様の欠陥があったなら、その時こそ対策を立てるべきでは?
エルバートはそんな周囲の声を封殺し死力を以て兵器の調整を成した。そうして再度、兵器を使用可能な状態に回復させたのだ。自身の魔術の力を全て捧げ、バレットが再び感情を得られるように【貯水湖】を作ったのである。
外付けのエネルギータンクとして、父は魔術の才能全てを使い果たし。しかし肝心のエネルギーが自力で生み出せないと知ると、それを補填・補充する手段を外に求めた。そのためにエルバートは、バレットが目を背けたくなるような非道に手を染めたのだ。
そのお蔭で、バレットは外部から供給される感情エネルギーにより、今もこうしてかつてのような自我を保てている。
「っ……」
だがその代償は、普通の倫理と普通の感性を持つ少年には、あまりに辛い物だった。
人に、愛する人を殺させる。その時に生まれる憎悪と悲しみを炸裂させ、バレットの精神を同調させることで感情エネルギーを得る……。
闘技場で得た、少年の慟哭と非憤に胸を掻き毟られる想いだった。こんな想いをするぐらいなら、感情なんて要らないと何度も叫んだ。しかしエルバートは首を左右に振って言った。
『私は君の父だ。バレットが心を取り戻すためならなんだってしよう。そして君は私の息子であると同時に、鏃の御子でもある。その権能を取り戻すためなら……私は、例え君の心を殺してでも成さねばならないものがある。それが貴族というものだと教えたはずだね。貴族としての私は君を殺してもよいと考えているが、次代の御子が君と同じ欠陥を持っていないとは限らない。なら今代の内から対策を立て、その対策が有効に作用するかどうかを検証しておく必要がある。バレット、私も親だ。自分の子供は可愛い。しかしそれだけでこんな非道を行なっているわけではないんだよ』
彼は父だ。だがその前に貴族でもある。貴き者の義務とは、時として肉親の情を無視させるものだった。
故にバレットにはどうしようもない。怨むのなら、自身に余計な欠陥を齎した鏃の御子の魂を怨むしかなかった。つまり怨めるのは自分自身しかいないのである。
――血は繋がっていても、赤の他人だというのはそういうこと。
バレットが鏃の御子となった瞬間、親子は純粋な親と子ではいられなくなった。
貴族とは、そういうものである。そのことを理解していても、幼い子供である故に、心は納得できていない。
しかし物心付く以前から刷り込まれた貴族としての教えが、少年にその関係を受容させて。そしてどんな理由があっても、結果的に自分のために動いてくれるエルバートを信頼していて。――だからこそ父の鬼畜の如き所業に、善良な少年の心は悲鳴を上げていた。
許容できない外道の業。彼と親子でいたいのにそう在れない現実。親と子ではいられないはずなのに、親として接してくる父の態度。それに甘える自分。そのギャップがバレットを苛んでいた。
「僕には話すことなんてないよ、父上」
「そうか。しかし私にはある。聞きなさい」
「………」
有無を言わせない強い語調に閉口する。エルバートは、我が子にして戦略兵器である御子が窓から身を乗り出し、遠くを見ていたことを察していたが。そちらには視線を向けず、真っ直ぐに自分と同じ鳶色の瞳を見据えた。
「アルドヘルム・ハルドストーン。エディンバーフ伯爵領運営代表者ユーヴァンリッヒ伯爵。彼との間に結んだ取り決め通り、有事の際には此処グラスゴーフで【鏃の御子】の力を振るってもらうことになる」
それは、古の科学文明で言えば内地で……それも都心で、重水素の核反応を利用した核兵器――水素爆弾を炸裂させるに等しい所業だ。
バレットが息を呑むのに、エルバートは淡々と告げる。
「ここはエディンバーフだ。そしてもっと言えばエディンバーフの領都グラスゴーフで、王国が有する二つ目の心臓でもある。無限に採掘できる魔石というエネルギー資源は、我々王国は元より帝国にも供給され、対魔戦線を支える重要なファクターの一つと言えるだろう。ここを失うということは、それだけで両国に大きな打撃となる。だがそれよりも、もっと大事で失ってはならないものがあるんだよ。それが何か分かるかな」
「……僕?」
「違う。確かに御子は大事だ。しかし死亡すれば次の代に移るだけで済む御子は、何がなんでも守らねばならないわけではないよ。最悪敵の手に落ちるのと、封印されてしまうのを防げばいいだけだ」
「………」
「これは私だけではない、国王陛下や両国の藩屏たるお歴々の総意でもある。本人は知らないだろうがね。――ユーヴァンリッヒ伯爵だよ。彼だけは、何が何でも死なせるわけにはいかない。彼の頭脳だけは絶対に失うわけにはいかないんだ」
バレットは目を瞠った。自惚れるわけではないが、御子の名を冠する自分よりも、領主の一人でしかない男の命の方が重大なものであると言い切られたのだ。
御子としての権能以外は平均的な人間でしかないバレットにとって、それが何故なのか皆目見当もつかない。そして父が自分ではなく、赤の他人の方を重要視していることに微かな反発を懐く。
我が子の反感を見透かしながらも、エルバートは訥々と語った。
「彼は優秀だ。魔導師としては第五位階相当の実力者であり、その頭脳は王国と人類全ての宝と言えるだろう。そんな彼が有り得るものとして想定し、そしてこの私に御子の力を行使する事態に備えろと言ったんだ。魔族が人類圏に潜入している事態は充分に有り得る。そして……いったい彼以外の誰がそれを想定できた? 今まで絶対に有り得なかった可能性を閃き、実際に不審な……それらしき兆候を誰が察知できた?」
我が子の目を見据えながら、誰にも出来なかったとウェスト・リーズ侯爵は呟いた。
「今までもそうだったが、ユーヴァンリッヒ伯爵は様々な魔族の策を遠く離れた地にいながらに察知してそれを潰し、同胞の勝利と最小の犠牲での敗北に留め貢献してきた。……バレットは知らないだろうが、ユーヴァンリッヒ伯爵の未来予測は今のところ的中率が八割を超えている。科学文明のスーパーコンピュータを複数台詰め込んでいるような、そんな叡智を彼は持っているのだ」
「………」
「現実的ではない、誇張表現も過ぎると思うかな。けど事実だ。我々はあの伯爵を失うわけにはいかない。彼のクローンを造っても、彼の遺伝子を使ってホムンクルスを作成しても、どの個体も彼ほどの頭脳は持っていなかった……再現できなかった。突然変異とでも言えばいいのかな……人智の極限なのだよ、ユーヴァンリッヒ伯爵は」
彼の言葉には、異様な熱が籠もっていて。爛々と光る目は、狂気染みてすらいた。
バレットはその熱量に圧倒される。気圧される。怖いとすら思った。
「私はユーヴァンリッヒ伯爵を評価している。誰よりも高くね。それこそ知略という面では有史以来最大にして最高だろう。そんな彼がここまで丹念に、入念に不意の事態に備えているんだ。未来を覗けぬ我々はその可能性を決して軽んじることはできない」
ふと、エルバートが笑った。窓の外に視線を向け、あくまで軽く、気負った様子も驚いた素振りもなしに肩を竦めて。
釣られて窓の外を見たバレットは息を呑む。そこでは、有り得てはならないはずの異常事態が起こっていた。
だのに、エルバートはこうなるのが当たり前とでも言うように、自慢の友人を誇るように嘯きさえする。
「噂をすれば影、か。奇遇というか、なんというか――どうやらたった今、その時が来てしまったようだね」
酷く場違いで、平静そのものの声を皮切りに。
グラスゴーフの夜に、警報が鳴り響いた。
† † † † † † † †
氷結の門が開く。地獄の門が、開いた。
第一幕壁【ステンノー】、第二幕壁【エウリュアレー】、第三幕壁【メデューサ】。三つの城壁が織り成す鉄壁の護りを無視し、内側に突如として起こった死出の門出。
事前の通告により、午後六時を過ぎると共に自宅に籠もっていた都心の人々は、放送局の流すバラエティ番組やドラマ、天気予報やニュースを眺めるか食事をし、思い思いの時を過ごしていた。勤勉な子供達は明日の学校に備えて予習と復習をし、面倒臭がりな子供は宿題を済ませると暇潰しにゲームに手を伸ばしている。
殆どの人が外の景色など気にもしていなかった。外は警邏の最中の軍人達が出歩き、意味の分からない警戒を続けている。見ていて楽しいものではなく、そんなものに意識を割くぐらいなら自分のことに打ち込んでいた方が遥かに有意義である。
故に、必然だった。
北門、南西門、南東門付近に、空間を縦へ引き裂いたように発生した次元の狭間が、扉のように左右に開いて虚数空間を露わにするのを、目撃したのは極僅かだった。
え、と声を漏らしたのは誰だっただろう。台所で洗い物をしている主婦だったかもしれない。二階の自室で宿題に手を付けていた子供だったかもしれない。だが誰であっても結果は変わるものではなかった。
昏い【時間の冷蔵庫】。既存の技術、個人の力では特定できない氷獄の間。そこより這い出てくるのは、時の凍結より解凍され自由を取り戻した魔境の人間である。邪なる神に魅入られた奉仕種族の最下層だ。
無数の小鬼がいた。魔法使いが――そしてその上位種となる魔導師と勇者がいた。
筋骨隆々の人型の怪物、大鬼が。対となる牝鬼が。蜘蛛女、古石妖、鉄礬柘榴石、そして唾棄すべき溶解粘体が、氷獄より這い出てくる。
上位の貴人である氷人と炎人による指令を受け、彼らは虎視眈々とこの時を待っていたのだ。母なる大魔獣、無限の命を内包する単独の系統樹、白き公爵アルベドを救わんがため、忌まわしき人間どもを駆逐するこの時を。
満願成就の時は来た。外の景色を見て歓喜する、狂喜する、遂に自分達を閉じ込める牢獄となっていた母の胎内から出られた。百年以上もの歳月を経て、今漸く自由の味に酔い痴れる。
先頭に進み出たのは、筋骨逞しい大鬼の戦士。剥き出しの上半身の皮膚は岩のようで、その身が内包する魔力の猛りは常人を遥かに超えていた。猛々しい面構えの、オーガにあるまじき知性に富んだ眼差しで同胞達を振り返る。そして手に持つ石の巨剣を振り上げ、雄叫びを上げた。
「オ、お……オオォォッ!」
それに応え、異形どもが喝采を上げる。宴の時だ、聖戦だ。母を解き放つための、大義ある戦いだ。命を懸け、全霊を以て戦場に臨み闘う時が来たのである。
その雄叫びはグラスゴーフ全土に轟いた。必然、彼らの存在は察知される。否、氷獄の門より姿を表した瞬間に、その姿を人工精霊端末に捉えられ、緊急事態を告げる報告が上がっていることだろう。
だがそんなことは関係ない。彼らのやることは決まっている。整然と異形どもが隊列を整えた。小鬼は小鬼と固まる、大鬼は大鬼と、他の種は他の種と。最低限の統制だけを保ち、彼らは向き直る。
総ての魔物が見るのは、グラスゴーフの中心に座す白亜の城。すなわち彼らの母【白公爵の褥】の無残な遺体。
親愛にして最愛の母の骸を弄び採掘場として、更には骸の上に建造物を建て自身らの拠点とした、ニンゲンどもの冒涜的な所業。それに幾体もの魔物、魔獣達は目眩がする想いだった。
憤怒と悲憤を得て、使命感に燃えた。母を解き放つのだ! 悪しきモノの手より奪い返すのだ! 我々がそれを成すのである!
剣を、槍を、銃を、斧を振り翳し、壮大な戦の詩を歌う。母の好んだ血化粧の詩を。これこそ聖歌、遍く生命の系統樹を創生せし母の詩。
人類には、聞くに堪えぬ醜悪な音の羅列だ。聴けば嫌悪感に頭痛すらするだろう。さながら百鬼夜行とでも言うべきか。悍ましい地獄の軍団――魔軍が、進撃を開始する。
「な、なんだ!? なんでこんなところにモンスターどもが!?」
狼狽えて悲鳴を上げたのは人類のエルフだ。まだ百歳にもなっていない、エルフとしては若輩もいいところの少年兵。
彼を含む一隊が最初の犠牲者だった。千を超える小鬼の軍勢が、僅か十人足らずの警邏の部隊を呑み込む。必死に応戦しても多勢に無勢、瞬く間に蹂躙され、その五体を八つ裂きにされた。母がされたことを、奴らにも味わわせてやるとでも言うように。
しかし数に押し潰されこそすれ、ニンゲン達は精強だった。微力な抵抗の中、辛うじて念話による報告を通信所に飛ばし、情報が首脳部に上げられたのだ。
しかし、その間にも魔軍は侵攻する。
母の胎内で生まれた時から、彼らの脳髄に焼き付けられている知識によって、自分達の国である魔族の領域の国の街並みを知っている。
それはあくまで百年以上も昔のものだ。アルベドの知らないものは彼らも知らない。だが分かるのだ、この都市に乱立する建造物や魔力反応のある情報集積文字、それら総てが魔族の文明の模倣なのだと。
なんたる侮辱、屈辱か。冒涜するにしても限度がある。これは我々ニンゲンへの挑戦と受け取らざるを得ない。断固として破壊し尽くし、そしてそこに生息する総ての生物を根絶やしにしてやらねばならなかった。
手近の建物から破壊していく。拳の一振り、槌の一振り、それだけで倒壊させ、中にいたニンゲンを引き摺り出して殺戮する。ひたすらに赤子を、妊婦を、翁を、老婆を、犬を、猫を、馬を、男を、女を。「ヒャアア!?」無様な悲鳴すら煩わしい。なんと不快な生命なのか。こんなもの、生きている価値がないと強く確信する。
悲鳴を聞きつけ、何事かと近隣住民が家屋から顔を出し。窓から外を見て。そして、唖然とした。
「なんで……モンスターが……?」
有り得てはならないことだった。ここは魔族との前線ではない。後方だ。仮染めとはいえ平穏なはずの内地。それなのに、どうしてあんなモノが……? これは……夢?
あんまりな現実に、意識が逃避する。衝撃的な光景だった。上がる悲鳴、血飛沫に理解が追いつかない。実感が湧かない。そして、そんな彼らの危機意識を物理的に叩き起こす警報が鳴り響く。耳を劈く騒音に、束の間呆然として。
「に、に……逃げるぞ!」
「あなたっ、二階に子供が……!」
「おまえは先に行ってろ、おれが連れて行く! ……早く行けぇ!」
夫が、手荷物を探す妻を怒鳴りつけ、自身は二階へと駆け上がっていく。そんな様が到る所で見られた。
魔獣、魔物の侵攻を受けて、実感の伴わない形だけの警戒態勢を取っていた軍も動いている。彼らは街を破壊し、人々を鏖殺しながら突き進んでくる魔軍を見るや、一瞬呆気にとられたように嘆いた。
「おい……なんで。なんで……内地にこんな奴らがいるんだよ!?」
「泣き言を抜かす暇があったら動け! 上も把握してるだろうが報告しろ、ダンジョンの外で魔獣氾濫が起こったってな! それで伝わる! 直に応援が来るはずだ、それまではおれ達で市民の避難を援護するぞッ、防戦用意ッ!」
ドワーフの隊長が人間の青年を叱り飛ばし、十二名の部下達に指示を飛ばした。
頑強な盾を構え、腰を落とし、津波のように押し寄せる魔獣の群れを睨みつける。
剣と矛を武器に。身に纏った鎧を頼りに。そして携行していた魔導突撃銃の銃口を軍勢に突き付けて指示を飛ばす。
「撃ち方構え! 滅気薬弾の用意はいいな? 引きつけるまでもない、弾幕を張って釘付けにしろ! ただの足止めだ、殺傷力は気にするな……撃てェッ!」
青白い魔力の光を炸裂させ、銃弾の雨が絨毯のように魔軍へと掃射され――しかし、所詮は焼け石に水。寡は衆に敵せないもの。その勇敢な一隊もまた、僅かな時を稼いだだけで、氷獄の門より続々と出現する魔獣達に踏み潰されていった。
それを、見ていた。
白亜の城の頂上、天文台を模した階層に位置する場に在る、グラスゴーフを統括するシステムの総意体……人工精霊アビーロート。
自身の端末が見聞きした全て、通信所に集まる情報。それらを整理して軍部に流し、独断で警報を鳴らしたのはアビーロートである。
淡い光の粒子で体を形成する、裸身の女の姿をした人工精霊は、どこかある少女に似ていた。伯爵の娘に当たる少女に。アビーロートは冷めた眼差しで、自身の真下で慌ただしく怒鳴り合う首脳部を見詰める。
「――モンスターだと? グラスゴーフにか!?」
「伯爵閣下のご懸念はまたもお当たりになった、それだけのことだろうよ。閣下は今どこに?」
「下の階だ、参謀室に詰めておられる! 閣下のご判断を仰がねば――」
「そんな暇があるのか!? 軍を出せ、冒険者組合にも連絡し全員出させろ!」
「……ダンジョンを放棄するべきでは? アルベドの生命維持装置を停止させれば、モンスター共は消えるはずだ」
「落ち着け、それを判断するのは我々ではない。閣下の立てていたプランがある、今はそれに沿って命令を出せばいい。アビーロート、分かっているな?」
『りょう解。かくしょにでん達。げんざい2250を以てグラスゴーフは戦闘たいせいに移行。いごの指揮を、あびーロートがとります。たいき中のだい27しだんを出動させ、きょじん部隊をぜんれつに出し、けいさつには市民の避難ゆうどうをさせます。ぼうけんしゃの方々に、こべつにきんきゅうクエストの依頼を――』
一人だけ冷静な人間がいたのに、アビーロートは安堵したように吐息を溢して命令を受諾した。そして思考回路を分割して関係各所に指令を飛ばし。
アビーロートは不意に背筋が凍るような錯覚に陥って、ハッと表情を変えると北門の方面に顔を向ける。
『っ……? まってください。いま、なにか……えっ!? 精神おせん波かんち! しんしょく領域はっせい! 強度10……20……40……急激にじょうしょうちゅう!』
「精神汚染波……侵食領域だと!? 待て待て待て待て! それは、まさか!?」
『【いすいゔとぷす】です! だ、だれかっ、あれをころし――』
その瞬間である。突如として下層に爆炎が巻き起こり、炎の槍が突き刺さった。
周辺にまで熱気を及ぼす夥しい熱量、唐突に出現した膨大な魔力の反応。それに女の姿をした人工精霊は体を強張らせた。グラスゴーフの本部、白亜の城が震撼するほどの――浮遊していた人工精霊総意体が揺らめくほどの衝撃だった。
『え……? あるど……?』
グラスゴーフの首脳部を司る人間達と、アビーロートの驚愕。一瞬思考に空白の楔を打たれ、事態の把握に努めるや、アビーロートは炎の槍が突き立った階層に誰がいたのかを理解して呆然と呟いた。
まるで、親しい友人が不慮の事故に巻き込まれたのを知ったかのような。そんな、信じられないものを見た人間そのものの驚愕を露わに、人工精霊は酷く狼狽して獄炎を見詰めた。
† † † † † † † †
無繆にして至高、慈悲深き父にして全なる君の下に新生した新人類。その一人である年若き乙女が保有する異質特性【揺蕩えど沈まず】の発動を感知した。
稠密な魔術式の組み込まれた、瀟洒な懐中時計を見る。刻限は守られ、午後十時五十分となっている。
おお……父なる御方を弑逆せし者の末裔よ。死してなお白き公爵の骸を辱める冒涜者の末裔よ。邪な神に魅入られた怨敵共に正義の鉄槌を下す時が来た。
本懐である。武人として、一人の人間として、ここで聖戦の嚆矢を放つ栄誉を戴けたのは誉れである。赤銅の目を開き、クラウ・クラウは背にしていた碧光を発する宝玉に向き直る。それに分厚く厳つい手を押し当て、獰猛な戦意に燃える眼差しを向けた。
「……遂に来たぞ。アルベド……魔人共に討たれた貴様の悲憤、無念、この俺が預かる。本来なら敗死した貴様に払う敬意などないが……今一度、傅こう。白き公爵よ、我らが父にして神なる御方に侍った始まりの人間の一人よ。再臨の時は間もなくだ」
肉の壁に埋もれるようにして在る宝玉を、クラウ・クラウは恭しい手付きで掴み、引き抜いた。
ダンジョンの最下層、最奥にあるダンジョンのコア。厳重な封印処置がなされ、生命の維持のために栄養が送られてきていたパイプに繋がれて、本当なら簡単に触れることすらできるものではない。
だがクラウ・クラウが触れると、すんなりと引き剥がされた。まるでアルベド自身が待ち焦がれた迎えに歓喜しているように、美しき宝玉が震動すらしている。
生命維持装置から離されたからだろう。急激に弱まっていく命の灯火を感じながら、クラウ・クラウは薄っすらと嗤った。
クーラー・クーラー。小娘にしては上手くやった。今度は俺の番だ――男がゆっくりと浮上する。地面から足が離れ、上を向くと、まるでアルベドが急かすように天井が捻れて上空までの道を自ら開いた。
そこを通る。加速しながら上空まで飛び出した貴種の男は嘯いた。
「卑怯とは言わせん。地の利は貴様らにあるのだからな。故に」
その隆々とした肉体が揺らめく。陽炎のように。
指の先から腕に、脚に、そして全身に火が熾った。手にしていた銀の懐中時計を握り潰し、欠片も残さず灰燼とした男の総身は、自身の魔力を抑え込んで隠蔽していた楔が解除されたのを感じる。
力が全身に戻る。魔人どもに擬態する屈辱に堪えるのはここまでだ。後は一心に、作戦目標に邁進するのみ。
沸騰する溶岩の如き大男の姿――真の姿へ回帰し、クラウ・クラウは一気に直上まで飛翔するや、岩漿の手に夜を駆逐する火焔の槍を具現化した。
それは、魔術ではない。魔法でもない。
生態だ。草木が光合成をするのと同じ。貴き血統、貴種に連なる新人類に備わったもの。そしてそれは高度な魔術に比してもなんら見劣りするものではなく、むしろ自身を鍛えるほどに高まる筋肉のようなものである分、成長率と扱い易さでいえばこちらの方が上であると言えた。
「――まずは頭を潰す。まあ、基本だな」
嘯き、擲たれた摂氏5000℃を超える焔の槍が白亜の城を貫く。焼き払う。
次々と己の手足に等しい槍を投じるクラウ・クラウは、敵の首魁アルドヘルムの居場所など知る術がない。だが敵の首脳部が、このアルベドの外殻によって形成された城のどこかにあるのは把握していた。
当然のことだ。ここは新人類の技術を模倣した魔人どもの国なのである。その都市機構も非常に似通っていた。であれば、自身らの国の中枢を叩くのと同じ要領でやればいいだけのことで。――まさか己の第一投が、アルドヘルムのいた階層に直撃していたとは考えてもいなかった。
「しかし、猿真似もここまでくれば天晴だな」
塔のようですらある城の頂点を見上げ、嘲笑混じりに吐き捨てたクラウ・クラウは、残像も残さず高速で更に飛翔した。
そこにはいるはずなのだ、人工的に作成された精霊種が。都市機構の中枢システムを担う総意体が。すると案の定、いた。
青白い光の粒子で人型を形成した、裸身の女。目を見開いて赤黒い溶岩の大男を見る人工精霊の本体。有無も言わさず突撃したクラウ・クラウに、人工精霊総意体は反応も出来ない。足元で火に焼かれる魔人以下の雑魚どもなど、灼熱の巨漢は歯牙にも掛けなかった。
総意体の胸に手刀を突き刺したクラウ・クラウは、苦しげに呻き手首を掴んで足掻く人工精霊に眉を動かす。その目に恐怖と怒り、尽きぬ憎しみが見て取れたのだ。一瞬の当惑を経て、男は吐き捨てる。
「ん? 痛みと……意志があるのか? 酷な真似をする……人形に人の心など不要だろうに」
『ま、ぞく……!』
「言葉すら解する、と。つくづく度し難い。だが――」
胸の中心に突き刺さった手刀から、クラウ・クラウは自身の熱を送り込む。
体の内側から激烈な焔で灼かれ、アビーロートは絶叫した。目から、鼻から、耳から――全身の穴という穴から焔が噴出し、全身の感覚器官とシステムを焼き払った。
手刀を抜き、地上へと墜落していく人形にクラウ・クラウは苛立ち紛れに唾を吐く。溶岩の肉体でそれをすると、吐き出されるのは溶解した岩石の礫だ。
「間違えるな。【魔】の字を冠する穢れた血族は、貴様の創造主の方だ」
心底不愉快だとでも言いたげに言い残し、クラウ・クラウはもう、あの不憫な人形のことなどすぐに忘れた。
完全に破壊した。あと一分ほどは機能を残すだろうが、停止するのは確定的に明らかである。今は時が惜しい。破損した人工生命のシステムに構っている暇はなかった。一分一秒を争う。ここまでは順調だ。
浮遊するクラウ・クラウは背後に向き直った。高所ゆえの強風に煽られ、火の粉を散らしながら遠くを見据える。眼下で犇めく魔物達と、それと矛を交える雑魚は眼中にもない。
彼の視線の先には軍事基地があった。そこから無数の空挺が飛び立とうとしている。あれには相応の力を備えた精鋭が乗っているのだろう。既にクラウ・クラウを捕捉しているらしく、今に魔導騎士や魔導師が襲い掛かってきそうだった。
まともにやれば苦戦は必至。孤立無援の現状、些細な苦戦すら致命的なタイムロスに繋がるだろう。故に、
「出鼻を挫く。そして、公爵閣下のお食事の支度をせねばな」
人類にとっては残忍に――しかし魔族にとっては頼もしく、勇敢で、猛々しい武人の笑みを浮かべてクラウ・クラウは廃墟となった城の跡地を立ち去った。
出撃してくる敵の機先を制するのだ。然る後に最後の大詰めに取り掛かる。そうしてこそ、作戦は完了したと言えるのだから。
地面に墜落した人工精霊アビーロート。彼女の下に二人の男を運んできた少女の存在には、彼は気づくことができなかった。
今日此処で、最初の一撃でアルドヘルムを殺し損ねたことこそが、クラウ・クラウの痛恨のミスであるのだと――そう認識する者は、後にも先にも一人もいない。
誰も気にしないだろう。気づきすらしないはずだ。その男の延命によって、一人の少年の起こす行動に変化が起こり、それが彼の宿命を運命に擦り替えられるなんて。それこそ神ならぬクラウ・クラウに分かるはずがなかった。
少年、アルトリウス・コールマンが――呼ばれる。
偶然などではない。人為的に、必然として特異点とされた少年が今、激動の夜に動き出す。




