7話 終わりと今
約束を交わしてから数日後。
ユリウスは、ほとんどベッドから起き上がれなくなっていた。
食事も水も、少しずつしか口にできない。
それでも、私が傍にいるときは笑顔を見せてくれた。
「アリア」
「どうしました?」
「少し、窓を開けてくれないか」
言われた通り、窓を開けた。冬の終わりを感じさせる風が部屋に入り込む。
外では木々が揺れ、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
「いい天気だな」
「そうね」
「君と初めて街へ出かけた日も、こんな天気だった」
「覚えていたの?」
「ああ。君が甘い物に目を奪われている時、剣を売って、帰り道は荷物を持たされた日だ」
彼は小さく笑った。
「また、一緒に、甘い物を……買いに行こう」
「行きましょう。元気になったら」
「……そうだな……」
私は彼の手を握った。彼の手は握り返そうとするけど、もうほとんど力が入らなくなっていた。
「アリア」
「なに?」
「ありがとう」
「急にどうしたの?」
「君と過ごせて、本当に幸せだった」
「……私もよ」
「君に、出会えてよかった」
彼は私を見つめていた。
その瞳には、いつもの優しさがあった。
「愛している」
「私も、あなたを愛しています」
「今度は、もっと、長く……ずっと、ずっと一緒に、いよう」
「うん……ずっと一緒」
私は彼の手を額に押し当てた。
「待っているわ。ずっと」
ユリウスは、安心したように微笑みながら目を閉じた。
そして、私の手を握っていた指から、少しずつ力が抜けていく。
「ユリウス?」
返事を返してくれない。
「ねえ、ユリウス……?」
彼の名前を何度も呼んだ。けれど、もう彼が答えることはなかった。
窓から差し込む光が、彼の顔を優しく照らしていた。
穏やかな表情をしている彼は、まるで、眠っているように見えた。
いつ目覚めてもいいように、おはようって言いたくて、
日が暮れるまで彼の手を握り続けた。
……
――どこまでも白い空間だった。
上下も、左右も、遠近感さえ曖昧な世界。
そこに、ユリウスは一人で立っていた。
自分が死んだことは理解している。心臓を握りつぶされるような痛みもなくなっていた。
《今回もあなたは死んでしまいました》
遠くから、聞きなれた声が聞こえる。
男とも女ともつかない、無機質なのに、感情豊かな、不思議な声。
《輪廻転生の運命により、あなたは再び生まれ変わることになります》
「……ああ」
《次の人生でも、あなたは同じ運命を辿るでしょう》
「そうか」
《これまでと同じように、あなたは成長し、やがて命を落とすことになります》
「もう分かっている」
ユリウスは静かに答えた。これまで何度も聞いてきた言葉だ。
死ぬたびに、この白い世界へやってくる。
そして、同じように告げられる。自分は再び生まれ変わるのだと。
「頼みがある」
《何でしょうか》
「これを最後にしてくれ」
白い空間に、彼の力強い声が漂う。
「それと、呪いも一緒に持って行ってくれ」
《……あなたは、輪廻転生を望まないのですか?》
「望まないわけじゃない。ただ、もう十分なんだ」
ユリウスは、自分の手を見つめた。そこには何もない。
それでも、つい先ほどまで握っていた手の感触が残っている気がした。
「俺を待ってくれているかもしれない、大事な人がいる」
彼は微笑んだ。
「その人と一緒に最期を迎えたいんだ」
《あなたは、その人のために輪廻転生を終わらせたいのですね》
「そうだ」
《これまでの人生で、あなたは何度も命を失いました。そのたびに生まれ変わり、呪いを背負い続けてきた》
「ああ」
《その運命を終わらせるということは、あなたが再び死んだとき、もう生まれ変われないということです》
「構わない」
《あなたの魂に結び付いている呪いも、輪廻の力も、終わることになるでしょう》
「それでいい」
《後悔は……ありませんか?》
ユリウスは迷う事なく、そして、力強く返事をする。
「ない。俺には、帰りたい場所がある」
『……分かりました。あなたの願いを受け入れましょう。あなたの力強い生き方には、何度も感動させられました。少し寂しい気持ちはありますが、見送らせてください』
白い空間に、柔らかな光が広がっていく。
「次の人生を最後とし、あなたを縛っていた呪いを取り除きます」
ユリウスは目を閉じた。
「願わくば、その人と短くも永い、幸せな時を」
「ああ。今までありがとう」
光が強くなり、意識が遠のいていく。
最後に彼が思い浮かべたのは、あの家で笑っていたアリアの顔だった。
遠い異国の小さな町。そこで、一人の男の子が生まれた。
その子は、ユリウスと名付けられた。
物心がついた瞬間、以前の人生の記憶が蘇った。
自分が誰だったのか。どこで生きていたのか。
そして、誰を愛していたのか。
すべて覚えていた。
彼は、普通の子供として育てようとしてくれる優しい両親に恵まれた。
ただし、普通の子供と同じように遊んでいる時間はなかった。
彼には、どうしても会いたい人がいたからだ。
アリア。
彼女は今も、あの家で暮らしているのだろうか。
別の誰かと一緒になっているかもしれない。
自分のことなど忘れて、幸せに暮らしているかもしれない。
それでも、会いたかった。
彼女の顔を見て、もう一度名前を呼びたかった。彼女の声を聞きたかった。
彼女の手に、触れたかった。
だから、ユリウスは以前の人生と同じように身体を鍛えた。
剣の扱いを身体に染み込ませ、馬の乗り方を学びなおし、旅に必要な知識を身に付けた。
そして、十二歳になった頃。彼は故郷を離れることにした。
遠い異国にある、かつて暮らしていた場所へ向かうために。
町で売れ残っていた黒い馬を一頭手に入れ、必要な荷物をまとめた。
両親には、十二年間育ててくれた恩に報いるため、全てを正直に伝えた。
どうしても会いたい人がいること。
輪廻転生を繰り返し、今回の人生が最後であること。
彼らは最初こそ疑い、心配もしていたが、ユリウスの決意が変わらないことを知ると、最後には笑顔で送り出してくれた。
「いつでも辛くなったら帰ってきなさい」
「ありがとう。母さん」
「ユリウス、相手に恋人がいたら諦めて帰ってこい。もしいなかったら、そのまま結婚しちまえ」
「父さん、ありがとう。必ず手紙書くよ」
旅は長かった。
いくつもの街を通り過ぎ、山を越え、荒野を進んだ。
雨に降られる日もあった。
道に迷い、何日も同じ場所をさまよったこともある。
馬が疲れれば休み、食料が尽きれば、山や川の恵みに頼った。
彼は進み続けた。
一年と数か月をかけて、大きな街に向かう途中、分かれ道に出会った。
一つは街への道、もう一つは街から少し離れた森へと続く道。
迷うことなく進むと、森の近くに建てられた家が見えてくる。
その場所を遠くから眺めたとき、ユリウスは馬を止めた。
家は、以前と変わらない場所に建っていた。
家の周りには見覚えのない木々や作物が大きく育っており、壁の色はくすんでおり、年月を感じさせる傷が増えている。
彼は馬からゆっくりと降りる。
そして、玄関まで歩みを進めた。
扉を叩く。
かすかに音が聞こえる。
扉を叩く。
しばらくすると、内側から足音が聞こえた。
扉が開く。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。以前よりも少し大人びた顔。
目元には、年月を重ねた人だけが持つ穏やかさがあった。
それでも、間違えるはずがない。
「……アリア」
女性は目を見開いた。
「あなたは……」
ユリウスは、少しだけ笑った。
「ただいま」
彼女の目から、涙がこぼれた。
「ユリウス……?」
「ああ」
「本当に……あなたなの?」
「待たせてしまって、すまない」
アリアは、彼の前に膝をつき、十三歳の少年を見つめる。
長旅に耐えられるように、鍛えたであろう小さくも大きな身体。
以前とは少し違う、茶色がかった髪の毛。
ぼろぼろになった革の鞘に納められている小さなナイフ。
彼をここまで運んでくれた、漆黒の馬。
「遅い……遅いわよ……ずっと……待ってたんだからね?」
「すまなかった。鍛えたり、身体に合わせた乗馬を練習したり……それで遅くなってしまった」
「もう……」
彼女は笑いながら、少しシワの増えた手で涙を拭い、そして、ユリウスを抱きしめた。
かつて何度も抱きしめた相手。姿は違っても、優しく腕を背中に回す感触は、間違いなく彼だった。
「おかえりなさい。ユリウス」
「ただいま。アリア」




