第120話:【塩湖】地中海、青い塩の湖
クロノスを出て三日目。キャラバンは旧イタリア半島を南へ駆け抜けた。
荒れ果てた石畳の街道。崩れた水道橋。二千年前のヒトが積んだ煉瓦は、ナノマシンの管理を受けなかった分だけ正直に朽ちていた。帝国の白い街並みとは違う、剥き出しの時間の重さ。カイルが操舵席から「前方、地形変化」と告げた瞬間、私は息を呑んだ。
碧い。
地平線まで、碧い結晶が広がっていた。波はない。音もない。空の青を吸い込んで、鏡のように静まり返った死の平原。
「……これが、地中海?」
「正確には、地中海だったもの、だな」
隣でリュウガが腕を組む。右腕の義手が微かに軋んだ。オートマタ技術で作られたそれは、見た目も動きも本物と変わらない。けれど、こういう乾いた空気の日だけ、関節がほんの少しだけ鳴る。本人は気にしていないふうだけれど、私にはもう聞き慣れた音だ。
「Gaiaの暴走で海水中のマナが過飽和になり、二千年かけて結晶化した。海洋としては完全に死んでいる」
「……綺麗なのに、死んでるって言うのね」
「リセットが進めば全海洋がこうなる。地中海は、その見本市だ」
ピッコが演算球体のデータを読み上げた。
「結晶密度は不均一。薄い箇所は体重で割れるわ。アークの質量なら――」
「落ちるな」
「落ちますわね」
カイルが振り向いた。
「アンリミテッド・モード、使うか?」
量子浮揚ユニットのリミッターを外せば、アークは低空浮揚で結晶面を滑走できる。クロノスでヴォルフが回収した部品で修繕済み。ただし燃費は通常の五倍。
「使うしかないでしょ。カイル、全車に航路データを転送して」
「了解した」
リュウガが旧世界の海図と、リディアの偵察データを重ね合わせる。
「リディア、偵察を頼む」
「もうやってるわ」
リディアの声は素っ気ない。けれど指先は正確だった。フェアリ・オプション・ハンドレッド・スウォームのうち、多眼カメラを搭載した偵察型が十機、低空でアークの前方へ散った。巨大な複眼が結晶面の亀裂と空洞をスキャンし、リアルタイムで地図を描いていく。
『航路マッピング開始だお! 亀裂ポイント、赤でマーキングしていくお!』
ファーファが虹色のアンテナを全方位に展開し、通信帯域をフル稼働させた。ソフィアに強化してもらった三倍の帯域幅が、十台のキャラバンと百機のドローンを一本の糸で繋ぐ。
アークが浮いた。
結晶の海を、十台の箱舟が滑り出す。
◇◆◇◆◇
異変は、航行二時間目に起きた。
「……振動。下からだ」
リュウガが床に手を当てた。義手の指先のセンサーは、こういう微細な振動を拾うのに向いている。
「リディア!?」
「捉えてる。結晶面の下、深度六十メートルに大型反応。全長――推定二百メートル以上。移動してる」
ピッコの瞳が細くなった。
「……海洋防衛システム。二千年前の遺物ですわね」
結晶が、割れた。
碧い平原に亀裂が走り、黒い触腕が噴き出した。一本、二本、五本、十本。結晶の破片を撒き散らしながら、それはアークの船体に絡みついた。
ナノマシン・クラーケン。
旧文明が海底に敷設した自律防衛兵器。二千年間、結晶の棺で眠っていたそれが、私たちの振動で目を覚ました。
「全員、緊急戦闘配置ッ!!」
チェロ姉様の声が響く。重力斧を肩に担ぎ、アークの甲板に飛び出した姿は、誰よりも早かった。
「テューバ、右舷の触腕を止めろ! オーボエ、全機の同期を取れ!」
「了解ッ!」
テューバが巨大なハンマーを振り下ろし、甲板に食い込んだ触腕を叩き潰す。衝撃で結晶の欠片が飛び散り、陽光を受けて虹色に砕けた。オーボエのハルバードの石突が甲板を打ち、統制音が全員の体内に響く。
「リディア、目を潰して!」
「言われなくても!!」
リディアが指を弾くと、フェアリ・オプション百機が碧い空に散開した。攻撃用の蜂型ドローンが結晶面すれすれを高速で旋回し、正確な連射で結晶を砕く。砕けた結晶面が無数の反射板になり、クラーケンの巨大な単眼に光の洪水を叩き込んだ。
同時に、電子戦に特化した妨害型ドローンが高周波を放射。触腕の協調動作が乱れ、アークを締め上げていた力が一瞬だけ緩む。
「コルネ!」
「はいっ、エリーちゃん!」
コルネが甲板の縁から跳んだ。大剣の刃が真紅に燃え上がり、触腕の根元を一刀で焼き切る。断面からナノマシンの黒い粒子が噴き出すが、ユーフィの薙刀が生み出した衝撃波がそれを吹き飛ばした。
「ボーン、下から突いて!」
「任せろぉぉおおおおッ!」
ボーンが重突撃ランスを構え、甲板を蹴って結晶面に降り立つ。ひん曲がった柄を気合で握り直し、触腕の関節を正確に抉った。
オルガのビットが弧を描いて飛び、触腕の神経節に電磁パルスを撃ち込む。三本の触腕が同時に痙攣し、アークから剥がれ落ちた。
「ルーテ、ハープ、見えた!」
クララの狙撃スコープが捉えたデータが、ヴィオラの中継を経て全員に共有される。結晶の下、深度四十メートル。クラーケンの核が脈動していた。
「セフィラ!」
ピッコが静かに呼んだ。
「道を開けなさい」
「はい、お任せください!」
セフィラが甲板の先端に立った。振動剣が唸りを上げる。
「全員、セフィラの後ろに並びなさい」
オーボエの統制音が変わった。0.01秒刻みの精密同期。十一人のシスターズとセフィラが、一直線に並ぶ。
白銀の銛。
先頭のセフィラが振動剣を全開にし、その背にコルネの炎が重なる。ルーテとハープが加速フィールドを展開し、テューバが全員の足場を固定し、オーボエが最後のカウントを刻んだ。
「3、2、1――」
「「「「突撃ッ!」」」」
十二の光が一本の槍になって、結晶の海面を貫いた。
碧い結晶が爆ぜ、黒いナノマシンの海を切り裂き、核に到達する。セフィラの振動剣が外殻を砕き、コルネの炎が内部を焼き、ユーフィの衝撃波が残骸を吹き飛ばした。
単機の十四倍の貫通力。
核が、砕けた。
クラーケンの触腕が力を失い、結晶の海に沈んでいく。黒いナノマシンは碧い塩の結晶に呑み込まれ、やがて静寂が戻った。
◇◆◇◆◇
その夜。
結晶の海に月が映っていた。
碧と銀。二千年間、誰にも見られなかった光景。アークの甲板に座り込んだ私の隣に、リュウガが黙って腰を下ろした。
「……こんな景色、二人で見られるなんて思わなかったわ」
「ああ……」
「リュウガは見たことあるの? こういう海」
「海は見てきたが、こんな海は初めてだ」
月光が結晶面を渡り、無数の星を散らしていた。世界が終わりかけているのに、こんなに綺麗なのは、なんだか反則だと思う。
「お前と一緒なら、世界の終わりでも悪くない景色だ」
心臓が跳ねた。
この男は、こういうことを何でもない顔で言う。
「……っ、そういうの、急に言わないでよ」
「事実を述べただけだが?」
「事実がいちばん困るのよッ」
『きゃーっ! てぇてぇだお! てぇてぇ最大値更新だお!』
ファーファが甲板の上で虹色に回転した。
「記録すんなッ!」
「クララ姉様、もう撮ってる?」
「もち、三秒前から」
ボーンが結晶の欠片の上で大の字に寝転がったまま、夜空に向かって叫んだ。
「あーっ、いいなぁーっ! あたしもあんなこと言われてみたーいっ!」
「ボーン、あなたに言う相手がいるの?」
「クララ姉様ひどいぃぃ!」
笑い声が、死んだ海に響いた。
二千年ぶりの、笑い声だったかもしれない。
◇◆◇◆◇
翌朝。結晶の嵐を抜けた十台のキャラバンは、旧リビアの海岸に乗り上げた。
砂。
見渡す限りの、砂。
ファーファの地図によれば、ここから南へ帝国五個分。サハラ砂漠を越え、ナイル川を遡り、エチオピアの高原を目指す。
「……ねえ、リュウガ」
「何だ?」
「帝国五個分って言ったけどさ」
「ああ」
「……まだ一個分も進んでないよね?」
沈黙。
リュウガは地平線を見据えたまま、静かに口を開いた。
「カイル、進路を南に。サハラを抜ける」
「了解。全車、砂漠走行モードに切り替え。タイヤ圧を二段階下げろ、轍を深くするな」
カイルはすでに操舵席で計器を読んでいた。十台のキャラバンに向けて、淡々と周波数を切り替えながら指示を飛ばす。余計な言葉を使わない。リュウガと似ている。だから二人は、会話が少なくても噛み合う。
「ルート上に、旧イスラエル領を通過する区間がある」
リュウガが地図に指を置いた。地中海の東端、結晶化した海の縁に張りつくように細い陸地がある。
「死海、と呼ばれた塩の湖があった場所だ。今は干上がっているだろうが……通過時に少し寄りたい」
「死の海? 物騒な名前ね」
「塩分濃度が高すぎて、生き物がほとんど棲めなかった。もっとも、俺の時代ですら遥か昔の話だ。四千年……いや、それ以上前か。その岸辺の洞窟に、人類最古級の文書が保存されていた」
「四千年前の……文書?」
「死海文書。紙でもなく石板でもなく、羊の皮に書かれた記録だ。人類がまだ魔法もナノマシンも持たなかった時代に、それでも言葉を遺そうとした」
四千年。途方もない数字だ。リュウガの二千年ですら気が遠くなるのに、さらにその倍。
チェロが腕を組んだ。
「……父様。お気持ちは理解しますが、リセットまでの猶予はソフィアの試算で数ヶ月。寄り道に割ける時間は――」
「分かっている」
「であれば……」
「通過ルート上だ。大きな迂回にはならない。半日あれば十分だ」
オーボエがハルバードの石突で床を軽く打った。
「半日。それ以上は認められません。陽が中天を過ぎたら出発します」
カイルが地図を確認し、小さく頷いた。
「ルート上であることは確認した。迂回距離は誤差の範囲だ。半日なら補給計画に影響しない」
三人が揃って許可を出した、というよりは、三人とも条件付きで折れた。リュウガが何かに固執するのは珍しい。だからこそ、それが必要なことだと分かるのだろう。
ピッコが小さく頷いた。
「母様……アリスも、記録を遺すことに執着していましたわ。知識は、誰かに届けなければ意味がない、と」
記録を遺す。知識を繋ぐ。
それは修理屋の仕事と、よく似ている。
壊れたものを直して、次の人に渡す。四千年前の誰かが羊の皮に書き残した言葉が、巡り巡って、今の私たちの地図になるかもしれない。
「よし、ちょっとだけ寄り道、しよう。リュウガ」
「寄り道ではない。偵察だ」
「はいはい、偵察ね」
『ファーファも古代のデータベース、見てみたいお! 四千年前だお! ファーファの百万倍くらい先輩だお!』
「先輩って言い方おかしいでしょ!?」
エンジンが咆哮した。
砂漠の向こうに、世界の心臓が待っている。
その手前に、四千年前の誰かが遺した言葉が眠っている。
スパナ一本と、家族と、曲がった愛情を持って。
修理屋は、走り続ける。




