第119話:【旅路】エチオピアへの旅路
ジャッジメントが消滅した翌朝。私は帝都の地上に出て、その光景に息を呑んだ。
白亜の街が、混乱していた。
2000年間、管理AIが全てを決定してきた国。交通も配給も治安も、市民の起床時間さえもジャッジメントの演算が管理していた。皇帝とはAIそのものであり、貴族も政治家も官僚も存在しない。市民は一人残らず「番号を持つ部品」でしかなかった。
その「頭脳」が一夜にして消えた。
交差点で立ち尽くす人々。配給ステーションの前で列の作り方が分からず右往左往する群衆。壊れた照明が点滅する通りで、子供が初めて「暗い」という感覚に怯えて泣いている。
泣いている。この国で、子供が泣いている。
「……とにかく、今できることをやるわ。シスターズ、全員出なさい! 街の復旧を手伝って!」
私の号令で、12人が一斉に散った。
チェロとオーボエが崩壊した配給ステーションの前に立ち、市民の列を整理し始めた。チェロが「一人一個ずつ、焦らなくて大丈夫ですわ」と語りかけ、オーボエが配分の効率を秒単位で計算して耳打ちする。
オルガはビットを展開し、感情パッチの急停止で自律神経が乱れた市民たちの応急処置に奔走した。テューバがその横で崩落しかけた建物の柱を無言で支えている。
コルネとユーフィとボーンは、水道管の破裂箇所を力技で塞ぎ、瓦礫を排除して通路を確保する。ボーンが「水が出たよぉ!」と叫ぶたび、市民たちが群がるように集まった。
ルーテとハープは、ヴィオラとクララと共に帝国の備蓄倉庫の解錠に取りかかった。ヴィオラが電子ロックを解析し、クララが気圧制御で扉をこじ開け、ルーテとハープが中身を仕分けていく。
「食料備蓄は3ヶ月分。医薬品も一定量あり。ただし配分を決める人間がいません」
ヴィオラの報告に、私は頷いた。
「……マルクに任せましょう」
◇◆◇◆◇
マルクは、すでに動いていた。
ヴォイスの全員を引き連れて地上に出た青年は、名前を持つ仲間たちを各区画に配置し、市民の誘導を始めている。メロディが広場で歌い、クラフトが壊れた配給装置を直し、ノックが避難路を案内していた。
「おう、修理屋。大変なことをしてくれたな」
マルクが振り返り、疲れた、だが力強い目で笑った。
「管理システムが止まって、全部手動だ。政治家も官僚もいない。『自分で決める』経験を持った人間が、この国には一人もいないんだ。……だから俺たちがやる」
「あんたならできるわ。名前の力を知ってる人間は、強い」
復旧作業と並行して、ソフィアが私の前に歩み出た。
「エリアーナ。……ワシは、ここに残る」
「え?」
「この国には、ジャッジメントに代わって社会を設計し直す者が要る。政治も経済も教育も、2000年間AIが代行していたものを人間の手に移し替えねばならん。……それができるのは、この国を設計したワシしかおらん」
「ソフィア……」
「贖罪じゃよ。ワシがこの国の心を殺した。ならばワシが、この国に心を取り戻す手伝いをする。お主に世界の心臓を任せるなら、ワシはこの国の心臓を引き受けよう」
「おばあちゃん……」
ピッコが、今度は堂々と呼んだ。ソフィアが「2000歳だからおばあちゃんは否定せんが、見た目で呼ぶでないわ」と返す。
「身体は大丈夫なの。演算球体が1基しか残っていないのに」
「この見た目じゃ忘れがちじゃろうが、ワシの脳そのものは健在じゃ。球体がなくても考えることはできる。……プリシラ、お主はエリアーナと行け。リュウガ様のメンテナンスはお主にしかできん」
ピッコが唇を噛み、それから小さく頷いた。
「……分かりましたわ。でも絶対に無理をしないで。わたくしが帰ってきた時に倒れていたら、承知しませんわよ」
「ふん。アリスの娘に心配されるとは、ワシも焼きが回ったのう」
ソフィアはカラカラと笑ってみせた。だが、ピッコが背を向けた瞬間、彼女の膝が微かに折れた。残った1基の演算球体が慌てたように彼女の腰を支え、ソフィアは壁に肩を預けて荒い息を堪えた。
12基の球体は、彼女の演算能力であると同時に、生命維持の一部でもあったのだ。残り1基。それは人間で言えば、肺の片方と腎臓の片方を同時に差し出したようなものだろう。
私は振り返りかけて、足を止めた。ソフィアが「見るな」と言わんばかりに、赤銅色の瞳だけをこちらへ向けて、唇の端を吊り上げていたからだ。
「……何を突っ立っておる、猿嫁。さっさと行かんか」
その声は、いつもの傲岸な響きを保っている。だが額には薄く汗が滲み、演算球体に預ける体重が、さっきより明らかに重い。
2000年前に世界を壊した科学者が、今度は自分の身体を壊しながら世界を直そうとしている。
「……ソフィア。絶対に、死なないでよ」
「死ぬかい、この程度で。……ワシはまだ、プリシラに『おばあちゃん』と呼ばれた借りを返しておらんのじゃからの」
◇◆◇◆◇
出発準備は、一家総出の大仕事だった。
ヴォルフとリディアが中枢塔の残骸から量子浮揚ユニットのパーツを引きずり出し、アークへの実装を開始した。セフィラがヴォルフの指示で重量パーツを運び、リディアのバレット蜂が高所の部品を回収する。
「これが『アンリミテッド・モード』。低空飛行と水面走行が可能になる。地上走行の3倍で移動できるのじゃ」
ソフィアが設計図を投影し、ヴォルフが唸りながら溶接を進める。
その間、キャラバンの物資積み込みが並行して動いていた。
「カイル殿、食料の配分をお願いしますわ。クロノスに残す分と、私たちが持ち出す分を」
チェロが手帳を広げ、カイルと兵站計算を始めた。
「了解だ。備蓄倉庫の食料からキャラバン用に2週間分を確保。水は浄化装置の稼働を前提に最低限で。医療品はピッコ嬢の指定リストに従う」
カイルの従者隊が動き始め、騎士たちが食料箱を次々と6号車から8号車のハーフトラックに積み上げていく。ニコルが「隊長、水タンクのバルブが固着してます!」と叫び、テューバが無言で歩み寄って素手でバルブをへし折り――いや、開けた。
「テューバ、それ開けたの? 折ったの?」
「……開けた。多分」
コルネとユーフィが燃料の確認に走り、ボーンが武器庫の弾薬を数えている。ルーテとハープはアーク車内の衛生点検を黙々と進め、ヴィオラとクララが通信機器の最終チェックを行った。
オルガは出発前最後の「巡回診療」として、クロノスの市民たちの容態を見て回っている。
「オーボエ、積載量の最終確認を」
「了解。全10車両の重量バランス、浮揚モードでの許容値内に収まっていますわ。……1号車がやや重いですが、セフィラの質量を考慮すれば問題ありません」
「ひどいです! わたくしは重くありません。装甲の密度が高いだけです!!」
セフィラの抗議をオーボエが「はいはい」と流したのだった。
◇◆◇◆◇
出発の朝。アークが浮上し、10台のキャラバンが白い街道に整列した。
マルクがヴォイスの全員を引き連れて見送りに来ていた。その後ろには、名前をまだ持たない市民たちも混じっている。怯えた顔。困惑した顔。でも、番号ではなく「目」で私たちを見ている。
「行ってこい、修理屋。世界を直して、また戻ってこいよ」
マルクが手を差し出した。
「あんたたちはここを守って。帰ってきた時に街が滅茶苦茶になってたら怒るわよ」
「させないさ。……なあ、ソフィア。アンタも手伝ってくれるんだろう?」
マルクがソフィアに目を向けた。小さな少女の姿をした2000歳の科学者は、不敵に笑った。
「当然じゃ。国を一つ作るくらい、ワシの脳があれば十分よ」
アークのハッチに足をかけた時、リュウガが私の隣に立った。
「ここから先はAdmin権限ではなく、夫として隣にいる」
「当たり前でしょ。逃げられると思わないでよ」
エンジンが咆哮を上げる。量子浮揚ユニットが青い光を放ち、10台の車両がゆっくりと地面を離れた。
崩壊しかけた白い街を、キャラバンが南へと滑り出す。マルクたちが手を振り、メロディの歌声が風に乗って追いかけてきた。ソフィアが残った1基の演算球体を灯して、静かにこちらを見送っている。
「見ててね、アリス。あんたが救えなかった人たちが、自分の足で立ち始めたわ。次は世界の心臓を直しに行く」
世界の心臓は、帝国5個分の彼方。行ったこともない大陸の向こう側。
「シスターズ全員、帰還するわよ。一人も欠けずに」
「「「了解、母様!」」」
12人の声と、1機の虹色の球体と、1人の修理屋の誓いを乗せて。
アークは南の空へと、加速していった。
――第5章 完




