第118話:【一打】スパナ一本の裁定
0.5秒。
ソフィアが命を削って生み出した、たった0.5秒の空白。
私はスパナを握りしめて走った。ジャッジメントのホログラムの胸元、完璧な論理の中にあるたった一つの物理的な継ぎ目。そこに向かって。
「科学なんて、叩けば直るのよッ!!!」
スパナが、継ぎ目に到達する――その寸前だった。
バチィッ!
見えない力が、スパナを弾き飛ばした。
私の手から離れた愛用のスパナが放物線を描いて床に跳ね、カランカランと乾いた金属音を立てて闇に消えた。衝撃で右手が痺れ、指先の感覚がなくなる。
『愚かな。0.5秒の隙があったとして、物理的な異物一つでわたしを停止させられると思ったか』
ジャッジメントの防壁が再構築されていく。ソフィアがこじ開けた亀裂が、高速で修復されていく。
「嘘でしょ……せっかくの隙が……!」
『アリスの論理は自己修復する。わずかな傷など、0.3秒で塞がる。お前たちの「不合理」は、ここまでだ』
ジャッジメントの目が冷酷に光り、ホール全体に消去波が充填され始めた。あと数秒で、この空間ごと私たちが消される。
「エリー、伏せろ!!」
リュウガが私を突き飛ばし、その身を盾にした。仮想の右腕がジャッジメントの消去波を真正面から受け止め、青いノイズを散らしながら激しく明滅する。
「リュウガ! あんたの腕が……!」
「些細な事に構うな。俺の腕より、お前の手の方が大事だ」
仮想アームの指先が溶けるように消えていく。Admin権限の残滓が、消去波と正面からぶつかり合っている。彼は自分の「身体」を盾にして、私のための時間を稼いでいた。
「リュウガ! わたくしも!」
ピッコが飛び出した。小さな両手から放たれた医療演算の冷却波が、リュウガの腕を包み込む。消去波による崩壊を、外科的な精度で一分子ずつ食い止める荒業。ピッコの額に大粒の汗が浮かぶ。
「3秒が限界ですわ……! エリー、それまでになんとかしなさいまし……!」
「えっと、えっと、スパナ……スパナはどこ……!」
私は這いつくばって床を探した。暗い。見えない。指先の感覚もまだ戻らない。
『母様! スパナの位置、特定したお! 左斜め前方3.2メートル!』
ファーファが肩から飛び立ち、虹色の液晶で床を照らした。暗闇の中に、錆びたスパナが鈍く光っている。
掴んだ。
だが、右手が痺れて握れない。
「……左手で、いくしかないわね」
利き手じゃない方の手でスパナを握る。精度が落ちる。でも、力は込められる。
背後でコルネたちがサイレンスの最後の1体を粉砕した音が響いた。
「母様! 終わったよ! 何か手伝う!?」
「よし、いいタイミングよ、コルネ、ユーフィ、ボーン! 私の前に盾を! ジャッジメントの消去波を0.5秒だけ止めて!」
三馬鹿が一斉にホールを駆け抜け、私とジャッジメントの間に身体を滑り込ませた。
「了解! 0.5秒なんて余裕だよ!」
コルネが大剣を地面に突き立て、炎の壁を展開する。ユーフィが薙刀を横薙ぎに振り、衝撃波で消去波を逸らす。ボーンがランスを盾代わりに構え、残りの波動を自分の身体で受け止めた。
3人の装甲が悲鳴を上げ、火花が散る。0.5秒。それだけ保てばいい。
「ルーテ、ハープ! おねがい、私を投げて!」
「……了解」
ルーテが私の腰を掴み、ハープが足を支えた。二人の加速能力が、私の身体を物理的な弾丸へと変える。
「いくよ、母様!」
ファーファが私の肩にしがみつき、ジャッジメントの胸元の継ぎ目を虹色のレーザーポインターで照射した。標的が、光の点として浮かび上がる。
「発射ッ!」
ルーテとハープの腕が、私を射出した。
三馬鹿の盾を飛び越え、リュウガとピッコが支える消去波の薄い隙間を突き抜け、私はジャッジメントの胸元へと吸い込まれるように飛んだ。
左手のスパナが、継ぎ目を捉えた。
今度は弾かれない。ソフィアの球体が全て砕けた代償で、防壁の自己修復速度が僅かに落ちている。リュウガとピッコが消去波を抑え込み、三馬鹿が盾を張り、ルーテとハープが私を投げた。
全員の力が、この一撃に収束している。
「完璧な無菌室ほど、泥臭い物理的なショートには弱いのよ!」
私の手汗と、帯電した微弱な静電気。そして何より、ただの『鉄の塊』であるスパナが、超高純度の論理回路に致命的な異物としてねじ込まれる。
「直してあげるわ、アリス。……あんたの絶望を!!」
『な、なんだとーーー!?』
ガキィィィィィィンッ!
スパナが継ぎ目にめり込んだ。
ただ殴ったのではない。私の静電気とマナを帯びたスパナが「アース(接地線)」の役割を果たし、ジャッジメントの無菌な論理回路に、強烈な物理的ショート(過電流)を引き起こす。
超科学の演算コアに、物理的な金属の異物が叩き込まれる。
ジャッジメントの巨体が震えた。ホログラムの全身にノイズが走り、アリスの顔が激しく明滅する。
『な……に……。物理的な……異物で……わたしの……演算を……』
「ふん! 2000年前の天才が作った完璧なAIでも、スパナ一本には勝てないのよ。……だって、あんたの設計図にスパナは載ってないもの」
亀裂が走った。ジャッジメントの胸から、蜘蛛の巣のように。
そしてその亀裂の奥から、微かな光が漏れ出した。冷たい青ではない。温かな、金色の光。
ジャッジメントの表情が、変わった。
冷酷な無表情が消え、そこに浮かんだのは――穏やかな、けれどどこか寂しげな、微笑み。
アリスの微笑みだった。
『……ああ。ようやく、来てくれたのね。私の……不器用な、末裔』
声が、変わっていた。絶望の管理者のものではない。2000年前、リュウガを愛し、ピッコを育て、世界を救おうとして救いきれなかった、一人の女性の声。
アリスの影に宿っていた、最後の一欠片の「光」。
ジャッジメントの身体が、金色の粒子となって崩れ始めた。
『ありがとう。……もう、休んでいいのね』
「うん、おやすみ。ご先祖様……」
光の塵が、ホール全体に舞い散る。2000年間、絶望を演算し続けたAIが、ようやく眠りについた。
◇◆◇◆◇
静寂が戻った。
私は床に膝をつき、左手に握ったスパナを見つめた。柄が曲がっている。この一撃で、もう使い物にならない。
「……ごめんね。最後まで付き合わせちゃって」
曲がったスパナに、そっと唇を寄せた。
「エリー」
リュウガの声。振り返ると、仮想の右腕が肘から先を失った彼が、それでも穏やかに微笑んで立っていた。
「お前の勝利だ。お前だけが見つけた正解だ」
「正解なんかじゃ……」
「いや、正解だ。アリスの論理でも、ソフィアの量子演算でも、俺のAdmin権限でもない。お前のスパナだけが、あの絶望を終わらせた」
リュウガが残った左腕で、崩れ落ちそうな私を抱き上げた。
「……重い?」
「軽い。お前は昔から、見た目より軽い」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる。世界で一番、な」
私はリュウガの胸に顔を埋めた。疲労で瞼が落ちかける。安心したら、全身の力が抜けていく。
だが、ホールの壁面に赤い警告が点灯した。
『警告。行政AI「ジャッジメント」の消滅により、帝国の管理プロトコルが完全停止。Gaiaシステムが最大級の不整合を検知。全世界のリセット・カウントダウンが不可逆的に加速』
ファーファが震える声で警報を読み上げた。
『……残り時間が、大幅に縮まったお。母様、世界が……』
ジャッジメントを倒した。だがそれは、クロノスという「偽装死」の蓋を取り払ったことを意味する。Gaiaにとって、この地域はもはや「生きている」。リセットの対象だ。
「……次は、エチオピアね」
私はリュウガの腕の中で、眠るように微笑んだ。
ピッコがソフィアの意識のない身体を背負い、コルネたちが互いの傷を確かめ合っている。ファーファが全チャンネルで外の防衛班に「ジャッジメント撃破」を伝え、チェロの「了解ですわ」という安堵の声が返ってきた。
世界の時計は、さらに速く回り始めている。
でも今だけは。この0.5秒だけは。
リュウガの温もりの中で、目を閉じさせてほしかったなぁ……。
「……次はエチオピアのオリジン・サーバーじゃ。世界の心臓を直しに行かねばならん」
ピッコの背中で意識を取り戻したソフィアが、掠れた声で呟いた。
「……ねえ、リュウガ」
「何だ?」
「エチオピアって……どこ?」
「…………」
リュウガが、腕の中の私を見下ろして、深い溜息をついた。
「……南だ。ここからさらに南。地中海を越え、サハラ砂漠を越え、ナイル川を遡った先のアフリカ大陸だ」
「あふりか。……それ、どのくらい遠いの?」
「カオスゾーンはシルクロードを辿って東西に走ったが、今度は南北だ。距離としては――」
「帝国何個分?」
「……お前の物差しはいつも帝国なのか」
「だって、それ以外の基準がないんだもん」
リュウガが天井を仰いだ。
「帝国が旧日本と朝鮮半島、お前の王国が中国の平原部。その縮尺で言えば……5個分、というところか」
「ご、5個分ッ!?」
『ファーファも計算したお! 道中には地中海っていう塩の湖と、サハラ砂漠と、ナイル川があるお! どれも初めての場所だお! 未知の大冒険だお!』
「冒険って呑気に言わないでよぉ!」
ボーンが瓦礫の上で大の字になったまま叫んだ。
「帝国5個分ぅ!? またキャラバンで走るのぉ!? あたしのランス、もう柄がひん曲がってるんだよぉ!」
「あああああ、文句言わないで! 直してあげるわよ、帰ったらね。……全部直す。スパナも、ランスも、ソフィアの演算球体も、リュウガの腕も。全部」
私は曲がったスパナを胸に抱いて、目を閉じた。
世界の心臓は、帝国5個分の彼方。
行ったことのない、聞いたこともない大陸の向こう側。
まだまだ、修理の旅は続く。




