第96話:【家族】ピッコ、13番目の娘
アークのラボには、最近、不思議な「授業」の声が響いている。
「……いいですか。この数式の解は一つです。なぜ『分からない』などという非論理的な返答が返ってくるのですか?」
ピッコのホログラムが、空中に浮かぶモニターの向こう側にいる相手へ、苛立ち混じりの声を上げていた。モニターの向こうには、かつて私たちが訪れた「守り人」の集落に設置してきた一台の情報端末――通称『知恵の箱』を囲む子供たちの姿がある。
私たちは集落を離れた後も、ピッコの通信機能を介して、彼らに旧世界の知識やメンテンナンスの技術を遠隔で教えていた。
「だってピッコ、この記号、ヘビが踊ってるみたいで面白いんだもん!」
画面の向こうで子供が無邪気に笑う。ピッコは大きく溜息をつき、頭を抱えた。
「……ヘビが踊っている? これは積分記号です。面白さなどという不純な要素は演算に含まれていません。エリー、どうにかしてください。この個体たちの思考プロトコルは、アリスの設計した教育プログラムを完全に無視していますわ」
「いいじゃない。ピッコが熱心に教えてる証拠よ」
私はハンダごてを置きながら、クスクスと笑った。
かつて効率と最適化だけを求めていたピッコが、子供たちの「分からない」という不条理に戸惑い、Adminとしての自信を揺らがせている。その光景は、見ていてどこか微笑ましかった。
そこへ、三女のコルネがひょいとラボに顔を出した。その手には、不格好に炭化した、なんとも言えない「謎の塊」が載った皿がある。
「ピッコちゃん、お疲れ様! 差し入れだよ!」
「コルネ……。これは何ですか? 視覚情報の解析結果によれば、炭素含有率が異常に高く、食品としての安全性に疑問がありますが」
「ひどいなぁ、心を込めて焼いたリグ・クローラーの肉だよぉ! はい、あーん!」
「や、やめなさい! 焦げてる、美味しくない!!」
コルネが無理やりピッコの口に肉を押し込もうとする。ピッコは、精密な金属と電子回路で構成された身体を持ちながら、呼吸し、熱を発し、痛みさえ感じる「機械の生命体」に近い存在だ。彼女は促されるまま、内蔵された味覚センサーを稼働させた。
理論上は不味いはずの、焦げた肉。
だが、それを頬張った瞬間、ピッコの身体が激しく明滅し、感情演算回路がオーバーロードを起こした。
「……温かい。……そして、不快ではありませんわ。むしろ、これは……」
「ピッコもマンネリの仲間入りだピ! てぇてぇが胃袋にパッチを当てたんだピ!」
ファーファが空中で跳ね回り、茶化すように叫んだ。
すると、ラボの入り口からシスターズたちがゾロゾロと入ってきた。
「あらあら、ピッコさん。これも差し上げますわ」
オルガが差し出したのは、彼女たちが旅の合間に自分たちで仕立てた、ピッコ用の真っ白な新しいドレスだった。鋼鉄の身体に宿る「魂」を包み込むための美しい服を、ピッコは愛おしそうに、震える手で撫でた。
その瞬間、ピッコの視界に赤い警告ログが流れた。
『警告:未定義の外部入力。感情演算が論理的限界値を突破しています。管理OSはこれらを「ノイズ」と定義し、消去を推奨します』
ピッコの奥底で、かつての「管理者」としての冷徹なプログラムが、彼女を元の形に引き戻そうと牙を剥く。
だが、そのノイズを……ドレスの柔らかな手触りを、コルネの肉の焦げた匂いを、シスターズたちの優しい視線を、彼女の「心」は手放すことを拒んでいた。
「……お帰り、ピッコ」
リュウガが背後から、静かに声をかけた。
「プリシラ。それはアリスが、実の妹の面影を重ねてお前に贈った大切な名前だったな。……だが、今はもう、アリスの残した管理システムの一部である必要はない。俺たちと同じ、帰るべき場所を持つ一人の『家族』なんだ」
リュウガの言葉が、彼女のシステム内にあった最後の「壁」を打ち砕いた。
『エラー:矛盾する命令。管理プロトコルを維持できません』
「……エラー、なんて……」
ピッコの唇が震える。
「消去、できませんわ。あの方からいただいた名前も、かつての私も、消えてなくなるわけではありません。……でも、今の私を突き動かしているのは、論理コードではなく、あなた方が呼んでくれるこの響きなのですわ!」
彼女の瞳から、光の粒子でできた「涙」が溢れ出した。それは回路がショートした火花ではなく、溜め込んできた想いが溢れ出した、真実の涙だった。
「……アリスがくれた『プリシラ』という名は、私の魂の楔として大切に保管しておきますわ。……でも、私はもう、ピッコですわ! この不合理で、ノイズだらけで、救いようのない家族の、13番目の末っ子ですわ!」
彼女が叫んだ瞬間、アークのメインOSに記録されていたアリスの管理プロトコルが、完全に独立した新しいコードへと上書きされた。
ピッコの意識は、実体としての身体と同期しながらも、シスターズたちだけが共有する「マナネットワーク」の深層へと接続している。
人間には知覚できない高次の魔力回線。
そこには、リュウガへの忠誠心、エリーへの親愛、そしてシスターズ同士の温かな絆が、膨大な熱量を持って流れていた。
リュウガも、シスターズも、およびピッコも。
彼らはもはや誰かの道具でも、過去の遺産でもない。自らの意志で自分たちを定義し、ネットワークを通じて魂を分かち合う、新しい生命体へと進化したのだ。
「……お、お義母様。私を……いえ、私をここまで導いてくださって、感謝しますわ、母様」
ピッコが顔を赤くして私に頭を下げた。
「ちょっと待ちなさい! 誰が母様よ!」
私は真っ赤になって絶叫した。
「というか、あんた、アリスの妹のコピーなんでしょ!? だったら私にとっては大叔母様じゃない! 私があなたを大叔母様って呼んだり、あなたが私を母様って呼んだり……もう家系図がスパゲッティ状態よ! 世代がループしてて気持ち悪いわ!」
「……演算上、今の私はエリーの管理下にあり、かつシスターズの末妹として定義されました。ゆえに、あなたが『母様』であることは論理的帰結ですわ、大・姪・御・様?」
ピッコがニヤリと、いかにも楽しそうな小悪魔的な笑みを浮かべる。
(――絶対に、わざとやってるわね。この生意気な管理ユニット……!)
マナネットワークを通じて、彼女の「悪戯心」という名のパルスが微かに私にまで届いてくるような気がして、私はさらに顔を熱くした。
「あーもう、理屈っぽいわね! 呼び方はなんでもいいわよ、ピッコ!」
私が狼狽して地団駄を踏むのを、リュウガが「幸せなバグだな。……複雑すぎて、俺のAdmin権限でも整理しきれそうにないが」と、楽しそうに微笑みながら見守っていた。
だが、感動の時間は長くは続かなかった。
「エリー、前方. 旧ドイツ圏の国境付近に、見たこともない大規模なバグの雲が発生していますわ」
ピッコが涙を拭い、即座に戦闘モードへと移行した。
「よし、ピッコ! あんたの新しい力を、ここで見せてやりましょう!」
「了解ですわ、母様。……全シスターズ、私考案の『情緒安定型戦闘陣形』を展開してください!」
アークのハッチから飛び出したシスターズたちが、空中で互いの手を繋ぎ、円陣を組む。
驚いたことに、彼女たちは戦場に歌を響かせ始めた。
ピッコがマナネットワークの「指揮者」となり、シスターズたちの魔力波形を完璧な和音へと調律していく。
物理的な破壊力に、家族の絆という名の「勇気」が上書きされ、その波動はカオスゾーンの歪みを一瞬で消し飛ばしていく。機械的な精密さと、情動による爆発的な出力。その両立は、マナとデジタルコードの架け橋となったピッコにしか成し得ない業だった。
「すごい……! 物理法則さえ、絆の波動で書き換えてるわ!」
最強の結束を得た私たちは、一つの巨大な意志の塊となり、ついに旧ドイツ圏の国境へと迫った。
西の果てに待つ「真実」まで、あともう少し。
私たちは、不純物だらけの愛を旗印に、嵐の向こう側へと突っ込んでいった。




