第19話〈忘れ潮〉
その瞬間、パズルを組み立てていて最後のピースがはまったような心地がした。
ああ。記憶がもう完璧なまでに整い終わったみたいだ。全てに整合性がとられている。俺の「言語史」のテキストを追う旅の全容もはっきりと思い出した。
俺は新しく生まれ変わったたような清々しい気さえする。
どうやら中佐の信号は正しく、意識の分離はたしかに俺の中で起こっていたらしく、『アーカイブ・ゾー』の館長が二人になった瞬間があったらしい。その分裂は主に「言語史」の学習を巡って生じた。従来の考え方を引き継いだ一人は「言語史」を拒絶し館内放送でも一切思索には協力しない旨を表明した、もう一方の新しく生まれた一人は「言語史」の学習を奨励し従来禁止されていた最深部のアクセスを解禁した。この時点で方針は相反するが、お互いの力が拮抗し攻めぎあっていたので、促進も妨害も最小限に抑えられた。
やがて分離していた二人は結合した。それは俺が望んでいた通りに行われた。しかし、その結合の瞬間そしてその前後、いくつかの記憶が失われた。これは意識医療においても時々、観測される現象で、年齢に関わらず、劇的な思考の転換が起こる前後にそのショックで「セキュリティ」が働いて余分な記憶が次々とはじきだされてしまう、「記憶の蒸発現象」というものだ。この現象により、結合を本震として基準を定めるなら、前震としてあの十年前の記憶の一連の消去が行われ、余震において現在④において多くの記憶が取捨選択される大改革が起きていることに説明がつく。これによって多大な記憶が失われたことにはなるが。そしてこの現象の趣旨として、単に整合性をとるための作業である、ということが挙げられる。従来の視点でしか説明のつかない記憶やその他記憶に関連する情報がクリップされ抜け落ち、忘却が実行されるのである。俺は忘却を担う機関として『焼却炉』を用いているが、この現象は「焼却候補棚」の仮想書庫に事前に並べられていたと仮定されることで例外的に焼却の要件は満たされたこととなった。書庫に置いて一か月経たなければ焼却の対象とはならないというのは一瞬でも、一か月前に書庫に置かれてさえいれば有効であるというルールの裏をついたわけだ。そのため、これがスムーズに実行された。
だが、「ヘイメン」という人物の謎を残している。
この「ヘイメン」は整合性をもってバランスをとるのをどうしても妨害している。
フィルム〈タイトル:ヘイメンとの最高の思い出〉は意味深に履歴まとめの最後に位置し、焼却は時間から見て本震の最後もしくは余震の端緒に消失した記憶である。そして勿論、焼却の実行者は俺である。俺しかこの『アーカイブ・ゾー』にはいないんだから。ハンドや中佐がその権限を仮に持つとしても⑧に縛られているのだからありえないし。
だがこの絶妙な時間帯に消えていることから意識の分離と結合にやはり何らかの関係があるんじゃないだろうか。俺が自ら動いていることになにか違和感がないだろうか。
焼却される前に俺が⑥でそのフィルムを見ていた事実も解き明かされなかった。
「ヘイメン」は重要なピースなのか?
――……あれ、その一方でそんな「ヘイメン」もそこまで重要ではないのでは、という気持ちも芽生えてきた。そうだ。ピースはもう全て揃い、パズルは完成しているのだ。整合性のバランスも適切にとられている。
たった今、ぼくは全てを思い出したし、ほとんどの事象に説明がいくようになった。「ヘイメン」はイレギュラーな存在であり、整合性に付け入れる隙はない。どことも噛み合わないピースである。
パズルを構成する一部になりえないのなら、ぼくの思想にそこまで影響をもたらしたわけではない。
それに浅はかだった。第一、ルミネシアン教育学校に行って、「ヘイメン」の素性が知れたとて、何かいいことがあるのか?仮に「ヘイメン」とやらに会えたとして、なぜ俺は君を忘れてしまったんだろう。その答えも今となっちゃわからない。だから一緒に考えてくれないか?、と禅問答でもやるっていうのか?自分で消す道を選んだってのに?
もうこれから生きていくうえで必要な全てを思い出した今、「ヘイメン」について調べることは何の意味を持つというのか。「ヘイメン」について知ろうとして、知識を蓄えていくとして、それはかえって記憶体系全体を揺るがすような弊害をもたらすのではないか?
もう思い出さない方がいい。
「ヘイメン」は過去のものでかつてここにあったものに過ぎない。
そして、おそらくだが俺がこの手で消したものだ。必要な取捨選択の結果である。最高の思い出だろうとなんだろうとこの『アーカイブ・ゾー』に「ヘイメン」を記録する余裕は無かったのだ。何でも「忘れる」ってことは悲しいけど、その悲しみを覚悟したうえで動いたのだ。痛みを選んだのだ。
あえて信号化してみよう。そうすれば踏ん切りがつくに違いない。
〈「ヘイメン」という人、たしかにここにその人に関する情報はあったんだろうけれど、もう今となっちゃ必要はな……〉
ぎゅっと送信官が麻縄で締め付けられるような心地がした。それと同時にぼくの心も締め付けられる。
必要ない?「ヘイメン」が?
そんなこと送信官が裂けても発信することはできない。
本能が拒否している。本能が許してくれない。
血の気がさーっと引いていく。そこからどっと鉄砲水のようにやってくる喪失感。
――そうだ、失ってしまったんだ。
錯覚ではない。やっぱりどことなく、喪失感がある。
最近は随分とぼんやりと生きていると感じることが多い。どこにその水源があるかはわからないが、喪失感のようなものが無性に湧き上がってくる。
今日はその傾向が強い。今までと比にならないほどのそんなマイナスな感覚がぼくを襲っている。
「ヘイメン」なのだろうか?この喪失感の正体は。
「ヘイメン」を失ったことはやっぱりぼくにとって辛いことなのだろうか?
「ヘイメン」はもしや、この分離と結合になんらかの作用をもたらしたのか?
〈……もう、やめだ〉
そうだ、もう余計な詮索はよそう。堂々巡りにもなってるし。もう「ヘイメン」のことはいいんだ。「ヘイメン」は必要にしろ、切り捨てる勇気を持たなくちゃいけない。偶然、その痕跡は残っていたとはいえ、完全なる消去を一度、望んだ「ヘイメン」に関する一切の情報。
ただでさえ、今、こんなに辛いのだ、苦しいのだ。俺がこの手であのフィルムを燃やしたときはもっと辛かったに、苦しかったに違いない。⑧で目を覚ましたとき、俺の目から涙が零れ落ちたのはそれをわかりやすく教えてくれている。
俺は「ヘイメン」を意図的に殺したのだ。俺の中から徹底的にそれを排除したのだ。
その理由はおそらく俺が前に進むためなんじゃないかと思う。勝手な推察だけれど。
きっと俺は過去に区切りをつけたのだ。そして現実へと目を向けたのだ。
過去に何らかのしがらみがあったに違いない。きっと後悔しても後悔しても解決できないような。だから強硬手段をとった。
「ヘイメン」に関する情報を全て切り捨てることによって俺は自分が新しく誕生し、大いなる一歩を踏み出すことを望んだのだ。
そうに違いない。
それなら俺がそんな苦渋の決断を下した俺を認めてやらないでどうする?
思わぬ形で「ヘイメン」をもう一度、思い起こしてしまったわけだがその状態をうじうじと維持とするのはフィルムを燃やすことに決めた俺の意思に適うものではない。
「ヘイメン」はもはやほとんど形状をとどめていないような記憶だ。
「ヘイメン」、「ヘイメン」、「ヘイメン」。抵抗さえしなければ、こうやって何度も繰り返しその名前を呼ぶのをやめれば、いずれ忘れてしまうことだろう。
喪失感だってその根源らしきものが消えるのだ。根っこを失った花は直に枯れるように、この忌々しい感覚も時間を置けば消えてしまうことだろう。
そうだ。それがいい。
もう一度、燃やしてしまう。あの記録を。
それが終わったら、しばらく何も考えず、ロビーのくつろぎスペースにあるソファにでも座っていよう。
俺はいそいそとソファに向かって歩いて、そっと向かって右に腰を下ろした。
俺が指を弾くと、カウンターから年代物のオイルライターが飛んできた。
俺は〈タイトル:ヘイメンとの最高の思い出〉とだけ書かれた、「焼却履歴まとめ」の最後の頁を破ると、天に掲げ、それの端に火をつけた。
するとその途端、ひゅうと風が吹いて、その燃え上がる頁を攫っていった。空中で天に昇りながらじりじりと燃え尽きていく。
俺は膝を抱える。ゆっくりと目を閉じた。
――今度こそ、お別れだな。
それからの数秒は俺が人生で体感した最も長い時間だった。
実際は30秒にも満たない。
それでも永遠にさえ感じられた。
風が吹いている。じわじわと目を開けると夜だった。
俺は海の上を飛んでいた。空に瞬くニ、三個の星の明かりを頼りに優雅に空を飛んでいた。
乗り込んでいるのは飛行艇だった。前方にはもうひとり乗れる席がたしかにあったがそこには誰も座っていない。
ああ、今までいくつもの海を旅してきたなあ。
「生命のはじまりの海」、「空の海」、「砂の海」、「灰の海」、「星の海」、「符号の海」。
今飛んでいるのは何の海の上だろうか。
この海は「あの島へつづく海」だろうか。
どこだとしてもなんだか素敵な海だ。
すると、ほら見ろ。発した通りだ。島が見えてきた。
丁度、あの島には着陸できそうな浜辺がある。
――よし、いくぞ。
俺の乗っている飛行艇はぐいっと体を逸らすと浜辺へ一直線に向かう。
少し海面にタイヤを這わせながら、砂浜をえぐるように着陸する。
ゴーグルをとり、ヘルメットを脱いで、座席に置いて、砂浜に降り立つ。
ぶらぶらと探索していると、何か砂浜に符号が書いてあるのを見つけた。
確認しようと近づくと、波がその符号を攫っていった。〈へ〉まで読めたけどあとは読み逃した。
残念だなあと思いながらよいしょっとぼくは砂浜に腰を下ろした。
夜明けが近いみたいだった。水平線がきらきらと宝石のように輝いている。
なんだか俺はこの世界にひとり取り残されてしまったような気がした。空が高すぎるのかもしれないし、眼前の海が広すぎるのかもしれないし、なにより自分の身体が小さすぎるのかもしれない。
ともかく俺はちっぽけでひとりだった。
丁度、満潮時にたまってそのまま、置いて行かれた海の水、忘れ潮のような、ずっと一緒だった海から切り離されてしまったような切ない感じがする。
気が付くと俺は記憶の淵に座っていた。それも体育座りで。
遠方に目を凝らす。すらりとした体躯、栗色の髪の人物の後ろ姿が見える。もう誰かはわからない。心当たりもない。そのひとが今ゆっくりと着実に「忘れ路」を歩いていく。
俺は我が目にその姿を焼き付けんとばかりに立ち上がった。咄嗟に忘れたくないと思ったからである。
そのままその人は振り返ることなく、地平線の彼方に消えた。
パッと目の前が暗転した。
俺は生きていることを忘れ、死をもまだ知らない、生まれてくる前のような気分だった。
整合性がとられていく。エラーのピースは粉々に消えて、改めてパズルが完成したような心地がした。
なぜだかはわからないけれど、俺の左目からこぼれた涙が頬を伝って、唇のあたりで分かって、ひとつは流れ落ち、ひとつは少し口に入った。
涙は海水みたいに塩辛かった。
――あれ、俺、なんで泣いて……?
涙を人差し指で拭うと同時に目を見開いた。
俺はさっきまで誰のことを必死に探していたのかもわからなくなった。
これで金輪際、思い出すこともない。新たなスタートが切れる。
これでよかったのだ、と自分に発信して聞かせる。
――ん?……そもそも何かを探していたのだろうか?
膝を抱えていた腕をほどき、ぽんと無気力に手を隣に投げ出すと右側に確かな温もりを感じた。丁度、先刻まで日が指していた床が日が暮れた後もまだ仄かに温かいような。
それが徐々に消えていった。
胸には見えないけどぽっかりとドーナツみたいに丸い穴が開いた気がして、どんな素敵な柄のもので塞ごうとしても塞がらない気がした。喪失感は想定よりも癒えてはこない。だがひとまず様子を見ることにした。決断を後悔したくなかった。
ソファから勢いつけて立ち上がると、ぱらぱらと上から何か灰色の雪のようなものが降って来て目の前に落ちた。つまんでそれを拾ってみる。ほんの少しだが煤の臭いの中に懐かしい臭いがしたけどきっと気のせいだ。
――なんだ?天井の拭き忘れだろうか?
まあいいか、とぱっぱとアバターの下半身で手を払っておく。ちょっぴりついてしまったかもしれないが特段、気にはしなかった。
「言語史」のテキストをカウンターで貸し出し処理をした。何となくこの空間にいるのは嫌だった。
勉強ならテキストさえあれば、わざわざここでやる必要なんてない。
俺は『アーカイブ・ゾー』を正面玄関から退出することにした。テキストは勿論、忘れずに携帯している。図書館に来た趣旨である。
正面玄関に手を添える。あとはぐっとこれを押し込むだけで出られる。
その瞬間、〈館内放送〉が響いた。この放送は全てのフロアに流れている。
〈本日も『アーカイブ・ゾー』をご利用いただきありがとうございます。本日、当館は定期テスト前日ということで「一夜漬け」コースが設定されておりますため終日開館予定です。苦手科目として「言語史」の学習を徹底支援する、特別講座がフロア⑤のプレゼンテーション室で開講する予定です〉
放送に構わず、俺はぐっと扉を押し込む。
〈なお、当講座は第四改訂版となります。前版の「言語史」の学術的見解は二分されたが、やがて一つに集束した、という展開からさらに発展的に、原点的な思想家たちはなぜ完全に忘れられてしまったか、という観点も……〉
ちょっぴり続いて聞こえたが地響きがして正面玄関が締まって放送は尻切れトンボになった。振り返ると当初は巨大な試練のように映ったこの大きな玄関も今となっちゃ普通の扉に見えた。
俺は現実で目を開いた。青い光が煌々と自室全体を照らしている。コーヒーを一杯、あおいだ。
時計を見ると時刻は20:05か。夜明けならまだ約8時間ほどあるな。
俺は再び目を閉じる。
俺は頭の中ですっと「言語史」のテキストを取り出すとそれを開いた。
第19話〈忘れ潮〉おわり/エピローグにつづく
次回、完結




