エピローグ
496号室の窓枠に両手を組んでのっけて、俺は外を眺めている。
長閑な田園風景だ。ここ農耕都市24区画はかなり離れたところにオカダーレ・スタジアムがある以外、ほとんど牧歌的な景色で占められている。年中、過ごしやすい適度な温度を保ち、穏やかで落ち着いた場所だ。
たまにはこんな場所で草原に寝っ転がりながら、のんびり時間そのものを忘れて過ごしてみるのもいいかもしれない。そうなると否が応にも本来の原始的な時間の捉え方に立ち戻って、普段生きている光の速さの日常は失われ、永遠にその一日が終わらないのでは、その日にたったひとり取り残されるのではないかというのは、さすがに夢想家の血が騒ぎすぎているか。
でもあの少し前の「言語史」のテキスト探しではかなり原始的な時間経過に近かった。ほとんどの瞬間はあっという間だったが、ほんの数十秒に本来の時間が持つ真髄たる流動性を感じた。
曇り空。ど真ん中に浮かんだ丸い雲がそのまま動かない。風も吹いておらず、草木もそのまま静止している。まるで世界そのものが眠っているかのようである。
変化がないことは如何に恐ろしいというのかを如実に示してくれている。
〈顔が鏡に反射して見えてるよ、ゾー。今にもつまんない景色だね、おおばあちゃんって信号を飛ばして来そうな顔だ〉
すると背中にぶすりと信号が突き刺す。振り返るとそこにはニヤリと笑う我が曾祖母ルトがいた。丁度、さっき俺がこのグラーウェル病院の曾祖母の部屋に到着したとき、彼女は検診の時間だったらしく、退室しており入れ違いになっていたのだった。マシーナさんにこの病室で待機するよう告げられていたので今の今まで暇を潰していたわけであった。
〈そうかな?〉
ただ曾祖母がいつも見てる景色がどんなだかを、ぼんやり眺めていただけなのだが、そんなにあの空と同じような曇った、つまらなさそうな顔をしていただろうか。寂しそうな顔をしているね、なんて人から評されたことはなかったから少し戸惑った。
〈ああ、そう送りたげだったよ〉お見通しだぜ、みたいにかけていないのに眼鏡をくいくいと上げるコミカルな仕草を見せる。〈やあ、ゾー〉
〈やあ、おおばあちゃん。俺の顔にはそこまで深い意味はないとは思うんだがね〉俺は悪気はないんだ、と歯を見せながらぎこちなく笑って見せた。〈検診の時間だったんだってね。ごめんね、間が悪くて〉
〈とんでもない。いつでも大歓迎さ。さあ久しぶりに直接、会いに来てくれたんだから、こっちに来て近くで顔見せておくれよ〉
喜色満面とした、気持ちのいい顔をして曾祖母がこちらへ来いと手招きする。
〈ああ〉
俺は短く答えると曾祖母のもとに歩み寄る。椅子が床から出てきてそこに腰かける。ベッドに寝ている曾祖母を見下ろした。なんだか随分と縮んでしまったように思える。
〈気持ち悪いかもしれないけど手、握っといてくれるかい?〉
〈ああ、勿論〉
その返答に安心したように呼応して布団の隙間から差し出された、枯れ木のような曾祖母の手に俺は手を重ねる。手だけでも歴史を物語っている。
つるりと剥がせてしまいそうなど薄くところどころ変色している表皮、くっきりと大河のように浮かび上がる血管、漣のように広がる隙間のない皺。それをすっぽり覆うようにして俺は手を握った。
〈ゾーの手はあったかいね〉
しみじみと曾祖母はこぼす。
〈血通いまくってるからね。おおばあちゃんもあったかいよ〉
世辞ではなく握っていると段々と、曾祖母の身体の深いところからくるでのあろう、熱を感じた。
〈そうかい。ところで、なんで今日はわざわざ、顔を見せに来てくれたんだい?まさかわたしの死期を悟って!?〉
また曾祖母の「死」の冗談である。この人は何回、「死」をネタにすれば飽き足りるのか。
〈縁起でもねえよ〉そう突っ込んでから自然と口角が緩み、俺はほほ笑む。〈ただなんとなくさ。最後のテストも終わったし。久しぶりに28区画を出たかったし〉
〈そうかい。まあ実のところ理由はなんであろうと嬉しいよ〉そう発信して曾祖母は静かに笑った。それからぎらっと目を光らせた。〈テストはうまくいったのかい?〉
俺ははっきりバツが悪そうに頭を掻きながら苦悶の表情を浮かべ
〈いや、微妙。赤点はたぶん回避したけど一夜漬けだったから、きついのなんのって。例の「言語史」だったから〉
とぼけーっとしながら答えた。苦手意識というやつは中々、立ち消えてはくれないものである。
〈おや、一夜漬け?感心しないね。体壊すよ。そんな簡単に「言語史」とやらは理解できるのかい?〉
目をしばたかせると呆れたような響きで曾祖母は訊いてくる。
まったく、表情が豊かな人だ。久々に直接、こう顔を突き合わせて会ったもんだからさぞかしテンションのボルテージがより一層、上がってるな。
――まあ……かくいう俺も上がってるけど。
〈いやいや、ありゃ大変だったよ。自慢じゃないけど苦手科目筆頭の……てか前、ちょこっと話したの覚えてる?「言語史」について〉
それを受けて、ちょっと待ってね、と腕を組んでしばらく頭を捻っていたが、すぐに濡れた干し柿の様な、いかにも申し訳なさそうな表情を浮かべて
〈ごめんよ。すっかり忘れてる〉
〈ああ。いいよ、いいよ。謝んないで〉右手を軽く振って気に留めていないことを強調する。曾祖母はすぐ謝るのだ。〈というか、聞いてよ、おおばあちゃん。まずテキストを取りって帰って来るのに二分もかかったんだぜ!〉
〈おや、二分も?テキストって「言語史」の?〉
〈そうそう。もう大スペクタクルロマンでさ。まあ俺が脳の中の記憶管理施設のかなり距離があるところに置いちゃってたせいなんだけど。もう色んな海という海を旅して、ようやく手に入れたときは感慨も一入だったよ〉
〈そうやって安易に嫌だからって物を遠ざけておくからいざというときに時間をとられるんだよ〉
やれやれ、まったくと呆れたような顔をして曾祖母がそう発信した。
俺は改めて「言語史」への旅路を思い起こしてみる。それから告白するみたいに今までにないくらい慎重に信号の配列を並べ、言葉をつむぎはじめた。なんだか少しセンチメンタルになっていた。
〈……たぶん、思うんだけど。これ以上、嫌いにならないようにあえて距離を作って遠ざけてたと思うんだ。向き合うには時間が必要だったから。前だったら向き合うこともなく逃げてたかも。だけどきっとどこかそれは自分に向き合えてない気がして。苦手なものでも無理しない程度に付き合わなくちゃいけないといつしか思ってね。好きなものだけで覆い隠して目を伏せがちだけど、嫌いなものを含めて俺を作ってるから。そしたら偶然かもしれないけど意外と見えた景色も悪くなかった。嫌いだったし、怖かったし、それが自分の負の部分を映しているとさえ思ってたけど結局、それはただの普通の学問「言語史」でしかなかった〉
少し後付けみたいな理由設定かもしれないが、きっと深層心理的にそれを帰来していた上での行動だったと信じたい。
今でも「言語史」を必修にするのはちょっと疑問があるけど、これも今まで人類が積み上げてきた確かな歴史、ルーツなんだから受け入れるのもいいかなって長年、固執した考え方も変わった。逆に他に不満があったからそっちを中心的に変えるために行動する方向にキャパをさけるという、副産物を得ることができたのは幸運だった。
――そういや太古の昔、六歳ぐらいのマセてた頃に皆に「押しつけの教育」について余計なお世話にも拘らず、「強固反対」と拡散しまくってた気がするな。
ありし日の自分の姿が朧気ながら脳裏に浮かぶ。一度、ぶるりと身震いした。
――ありゃ、恥ずかしかったな、今となっちゃ思想強かったなって。あのときは若かったで全部、おさまればいいんだが。けど、昔からあんだけアツくなれるんだから本気になった俺って良くも悪くもやべえよな。
恥をかかずに一人前になった人間なんていないのだ。胸を張って生きていこうじゃないか。いつかどれかひとつが誇りになるかもしれないから。たくさん恥かきながら生きていこう。正当化が過ぎるかもしれないがこれが俺だ。人は変われるし、変わる。二分前の自己と今の自己は違うんだから。
〈そうかい。ごめんね。頭ごなしに安易にだなんて送って。ゾーなりに考えてたんだね〉
濡れた干し柿かと思ったら今度はしゅんと夏の終わりの向日葵みたいに首を垂れて萎れてしまった。
〈いいよ、おおばあちゃんたらすぐ謝んだから。勝手に中傷的になっちまったのは俺だし〉
慌てて俺がフォローする。
曾祖母はすーっと息を吸って、首から顔を起こしてみせた。握っていた手にぎゅっと力が入る。
〈……でも、でも、わたし、しっかり聞いてたから気づいたよ。どうやらゾーは「言語史」ってフィルターを介して自分を探しに行ってたんだね〉
俺は思わずはっとした。
〈そう……そうだね〉
突発的に信号が送信官から漏れ出す。
俺の「言語史」のテキストを見つけるための旅は、変容して結局はときに最も未知となる自己とはいったい何かを模索する旅をしていたのだ。
やたらと情報量の多い『アーカイブ・ゾー』の様々な風景やそこでのいくつかの出会いに揉まれながら、俺は身体こそ動いてはいなかったけどあの部屋で二分間、たしかに旅をしていたのだ。
目を閉じてるってことは常に俺は自分の瞼の裏に移った情景を見ているということ、つまりは俺は物理的にも精神的にも自分を見つめる旅をしていたのだ。
〈ゾー、悪いけどまだしばらく、わたしの手を握っといてくれるかい?〉
〈お望みとあらばいつまででも喜んで握っとくよ〉
〈はは、ありがとう。ゾーにはいつも助けられてるよ〉
「オ……オレノ……ホ、ホウコソ」
俺は声帯を震わせ、舌を駆使して見よう見まねで喋ってみた。オウムか、文鳥かが鳴いているみたいな変に裏返った気もする。
〈ん?何か言ったかい?〉
〈ううん、なにも〉
あわてて澄ました顔を取り繕う。もっとうまく喋れるようになったら曾祖母とじっくり話すこともできるんだろうか。
そう期待に胸を膨らませながら俺はこのかけがえのない時間を『アーカイブ・ゾー』の記録に焼き付けるべく、そっと目を閉じた。
エピローグおわり/「忘れ潮」完
最後に、
プロローグ~第六話までの編集と全体アドバイスをしてくださった盟友・武頼庵(藤谷 K介)さんに感謝を!
さらに恩師A、友人IやKに感謝を!!
またゾーの曾祖母ルトのモデルとなった実の曾祖母を代表とした家族に感謝を!!!
そしてこのような拙作を最後まで読んでくださった画面の前の読者様に感謝を!!!!
2025・4・25 18:45 黎明




