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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第二部 凡人の再起/第五章 黒衣の兄と白樺監視所の撤退戦
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第51話 国境からの二通

 北の増援隊が去ってからも、西谷補給所は落ち着かなかった。

 石門砦から届く伝令が増え、荷を積み終える前に行き先を変える命令が来ることもあった。倉庫の壁には、書き直した予定表が何枚も重なっている。


 その朝、オルドの机へ二通の手紙が届いた。

 一通は国境監視隊から。北の聖皇国の兵が境界の川を越え、小さな衝突が起きたという。

 報告書の末尾には、見張り隊の戦死九人、負傷二十一人とあった。敵の損害は不明。


 僕は「小さな衝突」という言葉をもう一度見た。九人の家族にとって、それは決して小さな出来事ではない。

 ただ、戦線全体ではまだ、一か所の渡河戦にすぎなかった。

 もう一通は川辺の村長からだった。


『住民を移すよう命じられました。しかし、歩けない者を運ぶ荷車が足りません』


 僕は手紙を見て、顔を上げた。


「避難にも荷車がいるんですね」

「いるとも」


 オルドは地図を広げた。


「兵に武器を送る道と、村人が逃げる道はここで重なる」


 僕が覗くと、川に架かった狭い橋へ、何本もの道が集まっていた。


「そこで止まったら、どっちも動けない」

「だから、先に通すものを決めるんだ」


 オルドは副官へ問い合わせる手紙を書いた。

 僕の考えだけで、どちらを先にするか決めてはいけないのだ。

 ミラは村の人口を調べた。

 村長の手紙には家の数しかない。子どもの数も、怪我をして歩けない人の数も分からなかった。


「何台必要か、まだ計算できません」


 僕が言うと、ミラは頷いた。


「質問を書こう。伝令に持っていってもらう」


 僕は紙へ項目を並べた。自力で歩けない人。家畜。大きな荷物を運べる者。

 その途中で、一つ書き足した。


『村へ迎えに行くと、誰が知らせてあるか』


 準備した荷車が着いても、住民が知らなければ時間を失う。

 夕方、避難用の荷車二台を優先させる命令が届いた。

 僕らは倉庫へ走った。

 積むのは食糧だけではない。毛布、灯り、雨よけの布、幼い子どもに使う小さな寝具。


 誰かが家を離れるためには、こんなにも物が必要なのだ。

 僕は木札へ村の名前を書いた。

 その字が、普段の出荷先を書くときより重く感じた。


 ◇


 翌朝、避難用の荷車を連れて村へ向かった。

 護衛は六人。御者はロウともう一人。僕は避難する人数と荷の記録係として同行した。

 橋の手前で、村の鐘が鳴るのが聞こえた。


 広場へ着くと、布に包まれた荷物が山になっていた。眠そうな子ども、鍋を抱えた人、山羊の縄を握る老人。

 皆が一斉に荷車を見る。


「二台だけですか」


 村長が言った。


「歩ける人には、歩いていただきます」


 護衛の兵が答える。


「荷車は病人と幼い子どもを優先します」


 村長は頷いたが、肩を落とした。

 僕は名簿を受け取り、一人ずつ荷車へ案内した。

 ところが、家から出ようとしない老人がいた。


「畑を置いていけるか」


 僕には何も言えなかった。

 僕が育ててきた畑ではない。何十年ここで暮らしたのかも知らない。

 護衛の兵が老人の前へしゃがんだ。


「命を守るために離れてください。畑が残ったら、また耕せます」

「残らなかったら?」


 老人の問いに、兵は答えなかった。

 簡単な慰めを言わなかったことだけは、僕にも分かった。

 昼過ぎ、長い列が橋へ向かって動き始めた。


 子どもが転んで列が止まり、家畜が鳴くたびに誰かが振り返る。僕は最後尾で人数を確かめ、遅れた家族を待った。

 橋の手前では、軍の荷車が反対から来ていた。

 狭い橋で擦れ違うことはできない。

 御者が怒鳴りかけたとき、護衛の兵が命令書を見せた。


「避難列が先だ」


 軍の荷車は道を空けた。

 決めておいてよかった、と僕は思った。

 夕方、安全な中継地へ着いた。


 全員が安心したわけではない。

 家へ戻りたがる人もいたし、何も言わず石段へ座り込む人もいた。

 僕は数え終えた紙へ書いた。


『到着、七十三人』


 それだけの数字なのに、顔が一人ずつ浮かんだ。

 名簿を村長へ渡すと、彼は深く頭を下げた。


「ありがとう」


 僕は何も返せなかった。

 この人たちを家へ帰す仕事は、まだ誰にもできていない。

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