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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第三章 破滅の吹雪と凡人の歩み
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第28話 失われた才能

 寝台を離れてよいと言われた日、僕は真っ先に勉強部屋へ行った。

 机の上には二つの燭台が残っている。片方の蝋燭は短く、もう片方はほとんど使っていない。

 ヴォルクの帳面もあった。


『十呼吸、安定』


 自分の名前の下に書かれた文字を見て、僕は少し笑った。

 ほんの数日前までは、そんなことができたのだ。

 僕はいつもと同じように椅子を引いた。

 背筋を伸ばす。息を吸う。吐く。炎を見る。

 マナの流れは、やっぱりどこにもなかった。


「もう一回」


 声に出すと、少しだけ落ち着く気がした。

 何度繰り返しても、燭台の火は変わらない。

 最後には、自分が何を探しているのか分からなくなった。


 熱が出たから魔術を失ったのだろうか。それとも、魔術を失ったから三日も眠ったのだろうか。

 雪の夜について思い出せるのは、細い光と、胸の内側がふいに静かになった感覚だけだった。病気でこうなったのか、それとも別のことが起きたのか、僕には分からなかった。


 兄さんは僕のことを尋ねているらしい。でもなかなか姿を見せなかった。前なら真っ先にからかいに来たはずなのに、どうしてだろう。

 扉が開き、ヴォルクが入ってきた。


「ここにいたか」

「先生、ちょっと見て」


 僕はもう一度、椅子に座り直した。

 先生は止めなかった。

 僕が何度も息を整えるのを、ずっと見ていた。


「……できない」


 やがてそう言うと、ヴォルクは机の燭台を消した。


「今日は終わりだ」

「まだできる」

「身体が震えてる」


 僕は自分の手を見た。指先が小さく揺れていた。


「先生、僕、何を間違えたの?」


 ヴォルクはすぐに答えなかった。


「今は分からない。原因を調べている」

「調べたら、元に戻る?」

「それも、まだ言えない」


 先生が嘘をつかない人だと知っていた。

 だからこそ、その答えが怖かった。

 夕食には、兄さんの席も空いていた。

 母さまは僕にスープを勧めたが、味がよく分からなかった。


「兄さんは?」

「部屋で休んでいるわ」

「会って話したい」


 母さまはスプーンを置いた。


「もう少し、待って」


 僕は首を振った。


「僕は、いつもみたいに兄さんと話したいだけなんだ」



 その日の夜、廊下で誰かが歩く音がした。

 あの夜のことを思い出そうとすると、雪の音と曖昧な光だけが浮かぶ。何が起きたのか分からないのが怖かった。

 それでも、誰かが部屋を覗くと、兄さんではないかと期待してしまう。


 心配してくれているのか、もう僕を見るのが嫌になったのか。答えがないまま二つの気持ちがぶつかって、息が苦しくなった。

 僕は扉を開けた。

 誰もいなかった。

 以前なら、兄さんがそこに立っていて、眠れないのかと尋ねてくれたはずだった。


 ◇


 ヴォルクは本を何冊も借りてきた。

 先生はまず、僕が寝込んでいた三日間の発熱の記録を確かめた。熱が原因なのか、魔力の異常が先だったのか。医師の記録だけでは判然としなかった。


「じゃあ、どうしてこうなったの?」

「分からない。同じ症例の記録が見つからない」


 ヴォルクは医師や屋敷の者にも話を聞いていたが、誰も僕が倒れた瞬間をはっきり説明できなかった。

 僕は先生にも、分からないことがあるのだと知った。


 古い治癒術の記録、魔力を使いすぎた兵士の報告書、帝都で発行された学術書。

 僕は最初、先生が本を開くたびに期待した。

 どこかに、僕と同じ状態から治った人がいるのかもしれない。


「この頁は?」


 僕が尋ねると、先生は首を振った。


「マナの流れが弱くなった例だ。お前とは違う」

「じゃあ、こっちは?」

「身体の病気が原因だ。これも違う」


 机の上に、調べ終えた本が積まれていく。

 僕は本の高さばかり気にするようになった。

 ある日、先生が外へ出た隙に、僕は紙へ火の調律の手順を書いた。


 呼吸。姿勢。炎の揺れ。

 一つずつ確かめながら、昔のように手を伸ばす。

 何も起きなかった。

 悔しくなって机を叩くと、燭台が倒れそうになった。


 僕は慌てて手で押さえた。

 火はつけていなかった。

 それなのに怖くて、しばらく動けなかった。

 戻ってきたヴォルクは、紙を見ても叱らなかった。


「アルヴィス、俺が調べているのは、何が起きたかだ」

「元に戻す方法じゃないの?」

「それも探してる。だが、起きたことを知らずに、治す術は選べない」

「いつ分かる?」


 先生はゆっくり息を吐いた。


「分からん」


 またその答えだった。


「先生でも分からないんだ」

「ああ」


 ヴォルクは目をそらさなかった。


「分からないものを、分かると言いたくない」


 僕は泣きたくなった。

 でも、先生が嘘をついてくれなかったことは、少しだけ嬉しかった。

 帰る前、先生は新しい帳面を一冊くれた。


「魔術の練習には使わなくていい」

「何を書くの?」

「今日分かったこと。分からなかったこと。それから、思いついたこと」


 僕は表紙を開いた。

 最初の頁には何も書かれていなかった。

 その白さが、少し怖かった。

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