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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第二章 家の序列と白百合の庭
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第17話 弟の正義、兄の沈黙

 客人たちが帰る前に、もう一度だけ中庭で稽古があった。

 兄さんは同じ少年と向かい合った。

 最初の打ち合いで、相手の木剣が兄さんの肩をかすめた。兄さんはすぐ半歩退き、足を立て直した。

 それを見ていた少年の一人が、昨日と同じことを言った。


「やっぱり、踏み込めないんですね」


 僕は我慢できなかった。


「兄さんは、ちゃんと見てる!」


 声が庭に響いた。

 みんながこちらを向いた。


「さっきだって避けたし、当てられそうだった。弱いわけじゃないよ」


 相手の少年は目を丸くした。


「では、なぜ当てないのですか」

「それは……」


 僕は言葉に詰まった。

 兄さんならきっと理由を知っている。でも僕には説明できない。


「魔術ができるからって、剣も分かるつもりなのか」


 年上の少年が言った。

 僕は熱くなった顔のまま言い返した。


「分からないよ。でも、毎日練習してるのは知ってる!」


 そのとき、兄さんが木剣を下ろした。


「アルヴィス、下がれ」


 声は静かだった。


「でも」

「俺の稽古だ」


 僕は口を閉じた。

 兄さんは相手へ礼をして、残りの時間を続けた。最後まで大きく踏み込むことはなかった。

 客人が帰ると、父さまは僕を呼んだ。


「礼を失したな」

「……はい」

「兄を思う気持ちは分かる。だが、客を侮辱してよい理由にはならん」


 僕は何も言えなかった。

 父さまは叱り終えると、ため息をついた。


「相手を守ろうとして、相手の立場を悪くすることもある。覚えておきなさい」


 僕はその意味を、すぐには分からなかった。

 夜、兄さんの部屋へ行こうとして、扉の前で立ち止まった。

 さっきの兄さんの声を思い出したからだ。


『俺の稽古だ』


 僕は何度も手を上げ、結局、扉を叩かずに戻った。


 ◇


 翌朝、兄さんはいつも通り中庭へ出ていた。

 けれど、僕が近づくと木剣を下ろした。


「昨日はごめんなさい」


 僕が言うと、兄さんは少し驚いた顔をした。


「父さまに叱られたか」

「うん。でも、それだけじゃなくて」


 僕は足元の土を見た。


「兄さんが嫌だったなら、謝りたかった」


 兄さんはすぐには答えなかった。

 遠くで門番が声を掛け合っている。

 兄さんは木剣を立て、柄に両手を置いた。


「嫌だったのは、お前が俺の代わりに怒ったことじゃない」

「じゃあ、何?」

「お前に、俺が助けられる側にいると思わせたことかな」


 僕は首を振った。


「兄さんは僕を何回も助けてくれたよ」

「そうだな」


 兄さんは笑った。

 でも、その笑みはすぐに消えた。


「俺だって、助けてもらってばかりじゃ格好つかないだろ」

「そんなの、気にしなくていいのに」

「お前には、まだ分からないかもしれない」


 僕は少しむっとした。


「子どもだから?」

「俺も子どもだよ」


 兄さんは思いがけず大きな声で笑った。


「今の身体じゃ、できないことも多いしな」


 僕はその言葉を不思議に思った。

 今の身体、という言い方が妙だった。でも、兄さんはすぐに木剣を持ち直した。


「今日は稽古を見てていい?」

「いいよ。ただし、口は出すな」

「分かった」


 僕は中庭の端へ座った。

 兄さんは何度も踏み込んだ。動きは滑らかだったが、あるところで必ず止まり、次の足を慎重に置き直した。

 しばらくして、僕は自分から声を掛けた。


「水を持ってくる?」

「頼む」


 兄さんは僕の方を見ずに答えた。

 あの日から、僕は兄さんの稽古を見ても、すぐに褒めたり励ましたりしないようになった。

 何も言わずに隣にいることだって、少しは役に立つのかもしれないと思ったからだ。

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