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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第二章 家の序列と白百合の庭
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第15話 客人と届かない剣

 客人が来る朝、マルタは僕の襟を何度も直した。


「苦しいよ」

「今日は少しだけ辛抱してください」


 廊下にはいつもより多くの足音が響いている。使っていなかった客間に火が入り、玄関には庭の花が飾られた。父さまは朝食の席でも、挨拶を忘れないようにと繰り返した。


 やって来たのは、隣領の騎士家の親子だった。

 父さまたちが客間で話している間、僕と兄さんは二人の少年を庭へ案内することになった。上の子は兄さんと同じくらいの背丈で、腰に飾りのついた剣帯を巻いている。


「レオンハルト様も剣を?」


 少年に尋ねられ、兄さんは頷いた。


「毎朝少しずつ」

「それなら、あとでぜひ」


 兄さんは笑ったが、相手の足元を一瞬見た。きれいな靴の外側だけ、革が擦れていた。

 僕には何を気にしたのか分からなかった。

 午前中、ヴォルクの許しを得て魔術の授業を少し見せた。

 油皿の炎を揃えるだけだったのに、少年たちは大きな声を上げた。


「本当に動いた!」

「そんなに珍しいの?」


 僕が聞くと、兄さんより年上の少年は真面目に答えた。


「うちには火をつけられる者もいません」


 僕は先生の顔を見た。ヴォルクは、調子に乗るなと言いたそうに腕を組んでいる。

 兄さんは少し離れたところで見ていた。僕が目を合わせると、いつも通り親指を立ててくれた。

 昼食のあと、少年たちが中庭で木剣を振りたいと言い出した。


 父さまも見ている。兄さんは自分の木剣を持ち、客の年上の少年と向かい合った。

 二人が構えたとき、兄さんは相手の剣先ではなく、肩と足を見ていた。相手がまだ動いていないのに、兄さんの足がほんの少し横へずれた。

 僕には、次に何が起こるか知っているみたいに見えた。


 少年が勢いよく踏み込んだ。

 兄さんの剣先が動く。相手の横が空いていると、僕にも分かった。

 けれど兄さんはそこで踏み込まず、剣を引いた。

 一拍遅れて少年の木剣がぶつかり、兄さんの剣は地面に落ちた。


「一本!」


 客の家人が声を上げた。

 少年は嬉しそうに胸を張り、それから慌てて頭を下げた。


「失礼しました」

「いや、俺の負けだ」


 兄さんは木剣を拾った。その手つきがあまりに落ち着いていて、僕は不思議だった。

 負けて悔しくないのだろうか。


「魔術は弟君の方が、剣も――」


 年下の少年が言いかけたところで、付き添いの大人が咳払いした。

 僕は思わず一歩前へ出た。


「兄さんは毎日練習してるんだよ」

「知ってますよ」

「さっきだって、途中までは――」

「アルヴィス」


 兄さんに名前を呼ばれた。

 振り向くと、兄さんはほんの少し首を振った。

 僕は口を閉じた。

 兄さんは客の少年にもう一度礼をして、木剣を壁へ立てかけた。


 客人たちが帰るころには、空が赤くなっていた。

 父さまは機嫌よく挨拶を交わしていたが、僕は兄さんの横顔が気になった。


「兄さん、さっき……」

「帰ってからな」


 小さな声でそう言われ、僕は頷いた。

 兄さんの右手は木剣の柄を握ったままだった。


 ◇


 客人を乗せた馬車が見えなくなると、兄さんは中庭へ戻った。

 木剣を構え、土の上に片足で線を引く。


「もう一回やるの?」

「確かめたいことがある」


 兄さんは一歩踏み出し、身体をひねって剣を振った。

 動きは速かった。さっきの少年よりずっと静かで、木剣が風を切る音だけがした。

 でも最後のところで足がついていかず、身体が少し流れた。


「……またか」


 兄さんが小さく言った。


「何を確かめてるの?」

「ここから、もう半歩出られるかどうか」


 兄さんは自分の足元を指した。僕には十分遠くまで踏み込んでいるように見えた。


「さっきもそこへ行こうとした?」


 兄さんは少し黙った。


「見てたのか」

「うん。行けそうだったのに、やめたでしょ」

「……相手も動いてたからな」


 兄さんはそれ以上言わなかった。

 僕は納得できなかったけれど、木剣を握る兄さんの手が白くなっているのを見て、聞き返せなかった。

 兄さんはもう一度踏み込んだ。今度はさっきより遠くへ届いたが、踵が浮いて姿勢を崩した。


「危ないよ」

「分かってる」


 兄さんは剣を下ろした。


「頭では届くと思うのに、身体が遅れる」

「それなら、短く踏み込めばいいのに」

「そうすると、届かない相手もいる」


 兄さんは土の線を消し、新しい線を引いた。

 何度か振るうちに、息が荒くなった。木剣の速さは落ちたのに、兄さんはまだ止めようとしない。


「水、持ってくる」


 僕が言うと、兄さんは短く頷いた。

 台所から水を持って戻ると、兄さんは庭の端に座っていた。

 僕が渡すと、一息で飲み、肩で息をした。


「悔しい?」

「悔しいよ」


 兄さんはすぐに答えた。


「でも、今日の相手に負けたからってだけじゃない」

「どういうこと?」


 兄さんは水の残りを見つめた。


「できるはずだと思ってたことが、できないときがあるんだ」


 僕は魔術の授業で火を大きくしすぎた日のことを思い出した。


「また練習したら?」

「そうだな」


 兄さんは笑った。


「今は、それしかない」


 その言い方が少し変だった。兄さんはいつも、練習すれば昨日より強くなれると言っていたのに。

 僕は兄さんの木剣を拾った。


「これ、持って帰るよ」

「重いぞ」

「知ってる。僕も少しは大きくなったもん」


 両手で抱えると、確かに重かった。

 兄さんは僕を見て、ようやくいつもの顔で笑った。


「じゃあ、頼む」


 屋敷の玄関まで一緒に歩いた。


「ねえ、兄さん。次にあの子が来たら、また勝負する?」

「どうかな」

「僕は兄さんが勝つところも見たい」


 兄さんは少しだけ困ったように笑った。


「そのうちな」


 僕には、それが約束なのかどうか分からなかった。

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