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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第一章 泥まみれの英雄と魔術の芽生え
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第12話 枯れた水路と小さな奇跡

 夏になっても、雨は降らなかった。

 最初は庭の土が乾くだけだった。やがて井戸の水を使う量が決められ、村から届く野菜も小さくなった。

 父さまの机には、見たことのない数の報告書が積まれていた。


 ゴードン爺さんとヴォルクに連れられて村へ行くと、水路の底が見えていた。

 以前、足を滑らせそうになった場所は固い泥になり、細かなひびが入っている。


「坊ちゃん、ここへ水を戻せませんか」


 村の男が帽子を脱いで言った。

 僕は水路を見下ろした。

 火を整えることはできる。わずかな水を曲げることもできる。でも、そこには動かす水そのものがなかった。


「川から、もっと引くのは?」

「下流の村にも使う分があります」


 爺さんが答える。


「なら、地面の下は?」


 ヴォルクが土をひとつまみ取り、指でほぐした。


「あるかもしれん。ただ、どこにどれだけあるか調べないと、掘っても無駄になる」


 僕は少しだけ悔しかった。

 前にこの村の水路を見たとき、魔術で何とかしたいと思った。でもゴードン爺さんに止められて、水を使う人のことを考えた。今度も、よく調べずに力を使うのはやめようと決めていた。


「僕、何か調べる手伝いができる?」


 ゴードン爺さんは村の地図を取り出した。


「昔、水が染み出していた場所がいくつかあります。まずはそこを見て回りましょう」

「僕も行く」


 村の男が加わり、四人で畑の縁を歩いた。

 土を掘る人がいて、僕はその湿り具合を触って比べた。乾ききった場所と、少し冷たく感じる場所がある。


 でも、冷たいからといって水があるとは限らないとヴォルクに言われた。

 昼まで調べても、はっきりした答えは出なかった。

 集会所へ戻ると、村長が水の入った小さな桶を差し出してくれた。


「遠くまで歩かせて、申し訳ありません」


 僕は桶に口をつけかけ、そばにいた子どもを見た。

 その子は僕より小さく、乾いた唇を舐めていた。


「先に飲んでいいよ」


 子どもは母親の顔を見た。母親は迷ってから、僕に頭を下げた。

 僕は何だか恥ずかしくなった。

 水を探しに来たのに、飲む水さえ足りないことを忘れかけていた。

 屋敷へ戻り、父さまに報告した。


「まだ水を戻せるか分からない」


 父さまの顔が曇る。


「でも、もう少し調べたい。爺さんと先生と、村の人たちにも手伝ってもらって」

「何が必要だ?」


 その問いに、僕はすぐ答えられなかった。


「……明日までに聞いてくる」


 父さまはしばらく僕を見つめ、それから頷いた。


「では、ゴードンに道具と人員をまとめさせよう」


 僕は頭を下げた。

 水を見つけるまでは、まだ長い道のりがある。それでも、次にすることは一つ分かった。


 ◇


 翌朝、ゴードン爺さんは古い図面を広げた。

 紙の端は擦り切れ、いくつかの文字が消えかけている。


「ここに、昔使っていた湧き水の取り入れ口があったようです」


 爺さんが指差したのは、今の水路から少し離れた山裾の岩場だった。


「川から引いてたんじゃないの?」

「ええ。山側の岩盤から出る湧き水を、別の細い溝で水路へ足していた記録があります。昔の大雨で斜面が崩れて埋まり、修理する金も人手もないまま忘れられていたようです」


 僕は図面を覗いた。川の本流とは別のところから、曲がりくねった細い線が水路へ向かって伸びている。


「川の水じゃないなら、下流の村の分は減らない?」

「はい。もし土の下でまだ湧き水が生きているなら、どこへも使われずに砂利の底へ逃げている水ですからな」


 村へ着くと、昨日会った子どもが桶を持って歩いていた。僕を見ると足を止め、遠慮がちに頭を下げる。

 僕も頭を下げた。


 大人たちが山裾の崩れた土砂を掘り始めると、その子は少し離れたところに座り、じっと見ていた。

 最初に出てきたのは石ばかりだった。

 次は固い土。その下に湿った砂があった。


「ここだけ少し冷たい」


 僕が指先を土へ押し当てると、ヴォルクが隣にしゃがんだ。


「魔術で分かることは?」

「……何か動いてる気がする。でも、すごく小さい」

「無理に引き寄せるな。どこから来てどこへ抜けているか、まず確かめろ」


 僕は目を閉じた。

 胸の奥の温かさと、土の下の冷たさ。二つが重ならないように、ゆっくり意識を向ける。

 川のある方角ではなく、山側の固い岩の奥から、冷たい細い流れが砂利の層へしみ出している気がした。崩れた石に塞がれて表へ出られず、そのまま深い地面の底へ逃げていく水の道だ。


「こっち。あの岩の下から出て、砂の下へ落ちてる」


 爺さんは僕が指差したところに棒を立て、男たちへ掘る位置を伝えた。

 しばらくして、一人が声を上げた。


「湿ってるぞ!」


 崩れた石と砂を取り除くと、岩の割れ目から澄んだ水がじわりと湧き出した。

 最初は泥を濡らすだけだったものが、塞いでいた石をどかすうちに、少しずつ確かな細い筋になった。

 ヴォルクが水に触れ、川の方角を見比べて頷いた。


「川から染み込んだ水じゃない。山側の湧き水だな。これまで砂利の底へ逃げていた分だから、ここを開いても川の流量には響かん」


 爺さんはすぐに水を汲ませ、どれくらいの速さで溜まるかを確かめた。


「これなら下流の村の取り分を減らさずに、下の畑へ水を回せます」

「やった!」


 僕が立ち上がると、足が痺れてよろけた。

 ヴォルクが肩を支える。


「まだ終わってない。水を通す道がいる」

「うん」


 男たちは木の樋を運び、石を積み直した。僕も石を渡したが、重いものは持たせてもらえなかった。

 日が傾くころ、細い水が溝へ落ちた。

 村人の一人が膝をつき、掌を濡らした。


「本当に流れてる」


 その声を聞いて、僕は嬉しくなった。


「もう大丈夫?」


 ゴードン爺さんは首を振る。


「畑全部には足りません。それに、この水もいつまで続くか調べる必要があります」


 僕は少しがっかりした。

 でも、昨日は空っぽだった溝を、今日は水が流れている。

 その違いが僕には大きかった。

 帰りの荷車では、皆が疲れていた。ヴォルクは珍しく黙り、爺さんは帳面へ数字を書き込んでいた。


「僕、役に立てた?」


 小さな声で聞くと、爺さんは顔を上げた。


「ええ。坊ちゃんが流れを感じ取らなければ、あそこは掘らなかったでしょう」

「でも、樋を作ったのは僕じゃない」

「それも大切なことですな」


 爺さんは笑った。


「水は一人では運べません」


 屋敷へ戻ると、兄さんが荷車の荷下ろしを手伝っていた。


「どうだった?」


 僕は今日あったことを最初から話した。

 兄さんは石の積み方について何度も質問し、最後に言った。


「じゃあ、直ったら俺も見に行きたいな」

「もちろん!」


 僕はすぐ答えた。

 水路に流れたのは小さな水だったけれど、その日は胸がいっぱいだった。

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