プロローグ
この物語の主人公は、強いてあげるとしたら瀧村日色だと思う。彼の長い人生の物語でもあるし、彼の人生で出会った人たちの、サブエピソードの積み重なりとも言える。
わたし「瀧村もも」は、光栄なことに、この長い物語の、最初の語り部の役割を担うことになった。それは彼が異世界に転移、いや、転生する前の、日本での妻であったから。いや、彼の転生の原因を作ったからかな。そして、彼の一生の重みを最初に知った人物であったからかもしれない。いずれにせよ、今、ここから話を始めようと思う。
もし、長年連れ添った妻が、亡くなろうとする瞬間に「助ける方法があります」と誰かに言われたら、どうしますか?
条件は、数百年に及ぶ長い一生を過ごすことです。異世界にも行ってもらいます。赤ちゃんから、やりなおしてもらいます。生き延びるために、強くなってもらいます。魔物と戦ってもらいます。ダンジョンにも行ってもらいます。他の女性と結婚してもらいます。いっぱい子供を作って遺伝子を残してください。そして…。そして、この星を守ってください。そんなことを言われたら、どうしますか?
わたしは、すぐには飛びつけないかもしない。やった、異世界だせ、チートで英雄だぜ、と喜ぶには、わたし達は歳を取りすぎている。
だって、もう、その時、わたし達の日本での人生は終盤だったのだから。当時、五十七歳。ちょっと逝くには早いけど、早逝という訳ではない。三人の子供たちも無事に巣立ち、可愛がっていた愛犬も天寿を全うして、残っているのは穏やかな老後だけ。そのタイミングだったら、先行き不透明な無茶な条件を呑まずに、最愛の妻を静かに逝かせてあげても良かったのだと思う。わたしは、彼にそうされたとしても、何の恨みもなく逝っただろう。今まで、ありがとう、大好きだったよ。彼にそう言ったと思う。
でも、彼は、いつもの様に、流れに身を任せて、そのオファーを受けてしまった。もちろん、一緒にいた三人の子供たちが、母を助けるために背中を押したということもあっただろう。彼は受けてしまった。長い長い波乱万丈な人生を、人類の存亡を背負う役割を、良く考えもせずに受けてしまった。だから、わたしはいつも彼に言ってきたのよ。よく考えてから行動しなさいって。衝動買いで、ぶら下がり健康器を買ってきた時にも、書きもしないのに十年分書ける分厚い日記帳を買ってきた時にも、上司を殴って会社を辞めてきちゃった時にも。ちゃんと考えてから行動してねと。まあ、でも、しょうがないわ。これが彼だから、これが瀧村日色という人だから。わたしも受け入れるしかない。
わたしが目が覚めた時には、もうこの世界、日本とは異なる世界にいた。日本で倒れて、病院に搬送されて、そこでひいろ君たちは謎の生物、宇宙人なのか異世界人なのかは分からないけど、彼らに会った。ひいろ君が条件を受け入れるのであれば、わたしの命を一時的にだが延命することができる。ただし、日本とは異なる世界に一度は行ってもらわないといけない。そう提案されて、ひいろ君達は受けた。
倒れた時のことは覚えていない。当日の朝は何をしたんだけっけな、それも覚えていない。覚えているのは、目覚める直前に見ていた夢だけだ。そこはすごく幸せな世界だった。人生の最も充実した時を共に過ごした愛犬を撫でながら、大きな河を渡る橋を見つめていた。足首にも満たない長さの草原が続き、澄んだ水が穏やかに流れる川面の上には、水鳥の親子が羽を広げている。大きな橋は水の光を反射して、綺麗に虹色に輝いているように見えた。
「あそこを渡って向こう側に行ったら何があるのかしら?」
そう口にした時に、となりの愛犬がウォン!と大きく吠えた。
「どうしたの?一緒に行こう」
愛犬に言いながら、橋の方向に歩を進める。ウォン!ウォン!とまた吠えた。どうやら行きたくないらしい。向こうに行けば、あなたの大好きな子供たちにも会えるかもよ、と微笑みかけたところで、目が覚めた。
「お目覚めになられましたか。奥さま」
見たことのない老婦人がベッドの横で、微笑みを浮かべて話しかけてきた。
えっと、と部屋全体を見渡して、ここが何処で何が起きたんだっけな、と頭を巡らせた。部屋は十畳はあるだろうか、かなり広い。でも、このベッド以外は何も置いていない。ぐるっと見渡しても何もなかった。その反対側、ベッドの右手の壁には、大きな窓が壁一面にあった。柔らかな太陽光が差し込んでくる。窓だとは思えるのだが、透明度はなく、残念ながら外は見えなかった。
「奥さま、順番に私からご説明いたしますので、そのように心配そうなお顔をなさらないでくださいませ。まずはお身体の様子を確認いたしましょう。どうですか?足、手、身体のどこかに痛みや違和感はございませんか?」
わたしは柔らかな微笑みと口調で語りかけられた。一通り、身体に意識を巡らせる。右足、左足、右手、左手、両手の指、特に違和感も痛みもなく動くようだ。今度は上半身を起こしてみる。特に問題はない。少しずつ、落ち着きを取り戻して、老婦人に答えた。
「ありがとうございます。大丈夫そうです。すみません、お名前を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい、わたくしはフネと申します。奥さまのサポートを担当しております。どうか、フネ、とお呼び頂きたいのと、わたくしのためにも、どうか、ご遠慮なさらずにサポートを受けてくださいませ」
「はい、ありがとうございます、フネさん、わたしの名前は…」
そう返そうとしたところで、手の平をこちらに見せてフネは遮った。
「奥さま、奥さまのお名前が、瀧村ももさんであることも、旦那さまのお名前も、お子様のお名前も、全て存じ上げておりますよ。わたしのことはフネ、と呼び捨てにしてくださいませ。色々と状況を知りたいとお思いですよね。なので、まずはお部屋を出て、リビングまで一緒に行かれませんか?そこで、わたし以外のサポートメンバーをご紹介しつつ、ご説明を聞いていただきたいのです」
わたしは、ベッドから降りてみることにした。着ている服も自分の洋服ではないことに気づいた。黒のTシャツと同色のハーフパンツを履いている。何の素材で出来ているのか、着たことのない、でも着心地が良い、非常に柔らかい生地で出来ている。素足であることに気づいたが、フネもスリッパを履いていないところを見て、そのまま床に足を下ろした。立ち上がったところで、少しよろけた。すかさず、フネが身体を寄せて支えてくれた。
「しばらく寝ていらっしゃったのです。筋肉が落ちない様に、ポッドの中でもケアはしておりましたが、やはり、少しリハビリの様なものをなされた方が宜しいでしょうね。このまま、お支えするのでゆっくりとリビングまで歩いてみましょう」
窓の反対側、広大なスペースをトボトボと支えてもらいながら歩く。でも、ドアらしいものが見当たらないな、と考えていると、正面の壁がスッと開いた。ひいろ君だったら、「にょーん」とか変な擬態語を使いそうだな、と思って、少し笑えてきた。
部屋を出て、かなり大きめの廊下に出た。横幅は2メートルと少しあるだろうか。ひいろ君が寝ていても、まだ余るくらいの大きさだ。先ほどの部屋の斜め前の壁に、ドアらしい枠組みがある。壁にただ四角い枠が描かれているだけだが。振り返って、部屋のドア、今出てきた壁を見てみると、同じようにドアとわかる枠があった。そうよね、どこがドアか分からないと、入る時困るもの、と一人納得する。
大きなドアが描かれているのは、全部で6つ。家族分+フネさんの分かしら。長い廊下を歩くと、大きなダイニングキッチンが右手にあり、左手にはソファーが置いてあるリビングのようなスペースだった。ダイニングテーブルは十人は座れるくらいの立派なもので、奥のキッチンもカウンター付き、作業テーブル付きと飲食店に負けないほどの広さだ。
ソファーに座ると、フネさん以外の人たち、全部で五名が、わたしの前面に並んだ。フネさん以外には老紳士が一人。若い子たちが三人いる。一番左の老紳士が話した。
「奥さま、お目覚めなされたこと、一同非常に嬉しく思っております。私どもはご家族のサポートを担当するスタッフです。どうか、お見知りおきください」
ハジメと名乗る男性が、五名を順番に紹介した。うちは男性の方が多いのに、スタッフは女性の方が多いのね、とどうでも良いことを考えた。
「ご家族がお目覚めになる前に、奥さまに起きたこと、ご家族のご決断、現在の状況を、かいつまんでご説明したいと思います。まず、奥さまに起きたことですが、銀行に行かれた際に、倒れて救急搬送されました。原因は脳卒中。脳幹近くの出血でしたので、手術は出来ず、経過観察という名の死をただ待つだけの状態にありました」
え?とやはり、の両方の思いがよぎった。母の享年を過ぎた時から、母似のわたしは、いつか同じ様な日が来るんだろうな、とは半ば覚悟していた。身の回りを整理して、突然倒れた時でも家族が困らないように準備だけはしていた。箪笥にしまっておいた大事なモノ入れ、銀行通帳とかハンコとか株関連の情報とか、それと一緒に入れておいたお手紙を、ちゃんと、ひいろ君は見つけられたかしら?とボンヤリ考えた。
「奥さま、」
ニコっとイケオジに微笑まれた。
「奥さまは亡くなられておりません。ご家族の思いがあなたを救い、ここまで連れてこられたのです。日色様が病院に着かれてからの様子、私どもとのやり取りを全てご覧頂きます。おそらく、それが最も早く、状況をご理解なされるやり方だと思います。ただし、その前に、日色様がもう、お生まれになられます。どうか新しく生まれ変わった日色様を抱きながら、ゆっくりと確認していただくのが宜しいかと存じます。お子様たちが目覚めるのは、あと二カ月ほど先でございますので」
「生まれる…?」
「はい。日色様は、奥さまを助けるために、幾つかの条件を受諾しました。その一つが、より強い健康な身体を手に入れるために、赤子から再生することです。十カ月の間、ポッドの中で育んでおられました。もう十分、取り出せるのですが、奥さまのお目覚めをお待ちしておりました」
「子供たちは?」
「お子様方は、今の肉体を再生成しただけの処置です。こちらの世界でも滞りなく活動できるように、細胞を全て入れ替えるのと臓器を一つ追加しています。ご心配は不要です。より健康体になって出てくると思っていてもらえれば宜しいかと。赤子として再生した日色様と比べて、多少時間がかかるだけです」
「ごめんなさい。よく分からないわ。でも、とりあえず、その赤ちゃんになった、ひいろ君を取り出しに行けば良いのね?」
「ご理解が早くて助かります」
再び、ニコっとイケオジに微笑まれた。三十代少し手前くらいの若い綺麗な女性が、大事そうに黒い箱を抱えて、リビングルームに入ってきた。これがポッドとか呼んでいたものだろう。テーブルの上にそっと置く。皆がわたしの顔を見るので、わたしがこれを開ける役ということなのだろうか。でも、どうやって開けるのかしら。ポッドの横に触ったところで、蓋が動いた。
ポッドと呼ばれる黒い箱の蓋が少しずつ開いていく。音もせずに開いていった。開くにつれて、赤ん坊の泣き声が大きくなっていぬ。中で泣いている赤ん坊を抱き上げ、つい思わず笑ってしまった。ひいろ君だ。髪や肌の色が少し違っているけど、これは彼だ。間違いない。赤ちゃんなのに、もう彼にしか見えなかった。
「ひいろ君、本当に赤ちゃんになっちゃったのね、わたしママって呼ばれちゃうのかしら」
さすがに三人の子供を育てた母だ。未だ赤ん坊を抱く感覚は忘れていない。わたしが赤ん坊をあやす姿を見て、フネと先ほどの女性が声をかけてきた。
「奥さま、私たちも日色さまを育てることを自身の役割としています。どうか、ご無理をせずに私どもを頼ってくださいませ」
そう言われて、わたしは順番に抱きましょうと、まずは彼をフネに渡した。
「そうね、皆で良い子に育てましょう」
良く分からないけど、ひいろ君が異世界に転生したのなら、わたしが面倒を見ないとね、と自然に思えた。
これが、瀧村日色をめぐる長い物語の、最初の一日目のことである。




