思い
さくらは夢を見た。暗いトンネルの中を一人彷徨うさくらが映し出されている。迫る来る、何者かの恐怖に怯えながら裸足のままでトンネルの出口を求め、走り去って行くさくらの姿を遠巻きにさくらは自分で眺めているのである。
逃げるように出口を求め、走り去るさくらの後方からは地面が崩れ落ち、今にもさくらを飲み込もうとしている。必死で逃げるさくらの前方に、暗黒世界からの出口と思われる小さく虹色に輝く光が飛び込んでくる。
『さくら…… 早くこっちへ来るんだ!! 早く! 早く!!』
『コウ…… コウなの?』
その光の先から呼ぶ声は、紛れもなくコウの声である。さくらは必死にコウが呼ぶ声の先である、出口へと思われる光に向かって全力で走った。
『さくら 早く!! もっと早く走るんだ!! もっと早く!!』
『コウ…… もぅ、これ以上早くなんて無理だよ…… これ以上早く走れないよ……』
さくらがコウにそう言った瞬間、背面から崩れ去った地面はそのままさくらを暗黒の世界へと引きずり込むように、さくらを飲み込んでしまったのである。
『さっ…… さくらーー…… !!』
『キャーー!! コウーー!!』
その瞬間、さくらは眠りから目が覚め、ベッドから飛び起きるように身体を起こしたのである。
「はぁ…… 夢かぁ~…… 嫌な夢……」
さくらにとって悪夢に思えたのだろうか…… さくらは全身が汗ビッショリとなったせいなのか喉はカラカラの状態に乾いていた。そして枕に敷かれたコウの写真を手に、喉の渇きを潤すため、水分を補給しにリビングへと足を運ばせた。
『私があんまりにも泣き虫だから、コウったら私に意地悪してるんでしょ?』
さくらはコウの写真にうっすらと笑みを浮かべながらそう言った。夢の中ではあったがさくらの聞いた声は紛れもなくコウの声である。元気だった頃のコウの声と何一つ変わりのないコウの声そのものであった。
『ねぇ、コウ…… 私、元気にこれから頑張っていこうって思うんだ。なのに、あんな脅かすような夢の中なんかに出てこないでよ…… 意地悪なんだから…… もっと楽しく私を癒してくれるような夢の中なら、私、歓迎しちゃうけど、さっきみたいな夢の中に出てきて、私を脅かせたりなんかしちゃうとコウの事、嫌いになっちゃっても知らないぞ……』
さくらはコウの写真に向かってそう言いながらコップに一杯注がれたスポーツドリンクに口をやり、そのままコウの遺影が置かれた仏間へ焼香を捧げにいった。
《きょうのコウってとっても意地悪、やっとの思いで逢えたのに、姿を見せずに声だけで私を脅かしたりなんかして……》
さくらはコウが息を引き取ってから、毎日、日記を書きはじめていた。日記を書く事によって、さくらは心の中でコウは生きている、いつも自分と一緒に居るんだとその様に自分の胸に言い聞かしていたのである。
日記を書く事、それは、さくらにとって本当に辛い作業であろう。本来ならあの日から始まる日記の内容は、毎日の楽しい新婚生活の中での出来事が書き記されていた事だろう。毎日、一緒に生活するコウとの出来事、笑ったり、時には痴話喧嘩などもあってコウの事を愚痴ったり、そういった毎日のありきたりな新婚生活の日常とも言える出来事が書き記されていたであろう。
さくらがあの日から一冊のノートに記されていた日記の内容は、現在進行形のコウとの出来事でなく、全て過去形のコウとの出来事、思い出ばかりであった。
書けば、書くほど辛くなるのはわかっている。日記というものは過去を振り返る為、いつの日か必ず読み返されるものである。そのいつの日か、さくらが今の日記を振り返る時がくれば必ず悲しい心境になるであろう。さくらは自分でもそれは理解しているものの、今の複雑な心境の中で、必ずこの日記だけはコウと共に生きてきた証を記す為に書き続けていこうと心に決心していたのである。
日記を書き始めた最初の頃のページは、書かれた万年筆の文字が涙でにじみ、殆ど読むに難しいページさえもある。だが、だんだんと月日が経過する毎に、にじむ万年筆の文字も少なくさえなっていくのである。
それは、過ぎ行く時の経過と共に、さくらがコウの死を、だんだん現実として受け止めることの出来た証でもあった。
『コウ、あした一緒に映画に行かない? ほら、母さんが言ってたじゃない、近所のスーパーの福引で映画のチケット当てたって言ってたじゃない…… 一緒に映画にいこうよ。じゃあ、明日一緒に行こうね!! 私、お洒落していくから約束だよ。』
さくらはコウの写真に軽くキスをして、そのままコウの笑顔が映る写真を胸にあてた。今のさくらは決して一人じゃない、自分はひとりぼっちなんかじゃない。さくらはそう自分に言い聞かせ、再びコウの写真を枕の下に敷き、窓から見える一番大きく輝くお星さまに手を合わせ、再び、ベッドの中で眠りに就いた。