エピローグ 檻の外にて
「本当に行っちゃうんだね」
僕たち兄妹が借りているアパートの小さなダイニングで、姫花が名残惜しそうに呟いた。それを聞く僕は、数の多くない私物をボストンバッグに詰め、ほかに持っていった方がよい生活用品はないか、チェックしているところだった。
ババヤガ公園でシャビスカを殺してから、既に四日が経っている。
あの場にいた人間や猫の中で、もっとも重い傷を受けたのは僕だった。所長が自らの異能で治療してくれたおかげで、凛風は一日、夏音さんは二日で元気になった。僕は折れた足が元通りになり、普通に歩けるようになるまで三日かかった。ジェニィ、ピート、それから早乙女さんは、春先の海に落下してひどく凍えたものの、比較的軽傷の部類だった。
シャビスカがババヤガ公園で暴れまわっていたときに、なぜ凛風たちが現れたのか。僕は自分たちの命を救った行動の理由が知りたくて、身辺が落ち着いたあと、彼女らに話を聞いた。
僕たちが緑淵丸から脱出したとき、凛風と早乙女さんは赤煉瓦城塞の敷地内にいた。急遽生じた需要のため、在庫として保管していた銃器や弾薬を引き渡していたのだ。その中には対ショゴス用に開発されたロベリアも、それと同種の弾頭が装填された例のロケットランチャーも含まれていた。
ショゴスと融合――バステト秘典の力だろう、とロゼッタは分析した――し、異形となったシャビスカが身の毛もよだつ咆哮をあげたとき、彼女らは城塞の敷地内からその巨体を目にし、飛び交う伝令の言葉から、僕や夏音さんが危機にあることを直感した。
そして凛風は引き渡しかけたロケットランチャーを騎士団員の手からもぎ取り、早乙女さんの尻を蹴飛ばし、軽トラックの荷台に乗って駆けつけたのだ。
彼女らの判断によって、僕や姫花や夏音さんは辛うじて命を拾った。もしロケットランチャーが届いていなかったらどうなっていたかは、想像もしたくない。
「寂しくなるね」
「うん、でも、決めたことだから」
姫花の言葉に、僕はそう答えた。彼女には、僕が〈檻〉に入ってからのすべてを話していた。包み隠さず、すべてを。
「僕は人を殺したんだよ。それも一人じゃない。偶然そうなったわけでもない。だからこのまま普通に暮らしていくのは、難しいと思う」
「でも、それは私を助けるためで、相手も鉄砲持ってたんでしょ? 兄ちゃんは悪くないよ。〈檻〉の中のことだしさ、警察だってなんにも言わないと思うし……」
僕はアパートを出て、〈檻〉で生活する。このことはすでに何度か話しあい、結論を出していた。永遠に社会へ背を向けるわけでもないし、姫花の学費や生活費も送る。僕はこれまで勤めていた金属加工会社に退職届を出し、ネメオス所長に相談して、改めてちゃんとした職員として雇ってもらうことにしていた。
姫花は反対した。これまで僕たち兄妹がどれくらい強く結びついてきたかを考えれば、当然のことだった。それでも僕は意思を曲げなかった。二十二年の人生で、波風を立てないようできる限りの我慢をしてきた人生で、ほとんどはじめてのわがままだった。
「法律的な話とか、一般的な道徳の議論は置いとくとして、これば僕の中の問題なんだよ、姫花。僕は人を殺したし、猫も殺した。その出来事を自分の中で消化できるまで、外の世界からは距離を置きたいんだ」
多分、これは説明したところで、ほかの人には理解できない種類の感情なのだろうと思う。
「もちろん、ネガティブな気持ちだけじゃない。今回、ずっと昔に母さんが過ごしたことのある場所で、あれやこれやの変わったことを体験したのは、僕の人生にとってなにかしら意味のあることだったと思うんだ。少なくとも、ただの嫌な出来事として忘れるのはもったいないような気がする。その意味を考えるためにも、もう少し〈檻〉で過ごしてみたい」
「でも、危ないところだし、変なものもいっぱいあるし……」
姫花の意見はごくごく当たり前のものだ。彼女は拉致されて以降、無名の女王内に囚われ、教団の監視下に置かれていたのだから、〈檻〉におけるよい部分を見る機会もなければ、善意の存在に出会うこともなかった。
肉体的に傷つけられることがなかったとはいえ、解放後の姫花はひどく怯えていた。いまは多少落ちついたが、本当ならばもうしばらく、僕が一緒にいた方がいいのは間違いなかった。しかしいったん普通の生活に戻れば、僕は自分の気持ちが〈檻〉から離れてしまうことも分かっていた。
僕はボストンバッグのファスナーを占めてダイニングに戻り、テーブルをはさんで姫花と対面する。
「大丈夫だよ。中でちゃんと暮らしてる人もいるし、親切な人も猫もいる」
「あの鉄砲持ってた人、夏音さんっていうんだっけ?」
「うん」
「綺麗な人だったよね。兄ちゃん、もしかしてさ……」
「お前なあ。何度も言ってるけど大変だったんだからな。浮ついてる余裕なんてあるわけないだろ」
「ふふっ」
僕にはそれがほんの軽口だと分かっていたが、うわべだけでも、本気で受け取っているように呆れてみせた。姫花にしたって、兄がよく分からない場所によく分からない理由で去ってしまうと考えるよりは、偶然出会った美女に惚れ込んで、らしくない行為に出ているのだと解釈する方が、きっと安心できるに違いない。
「一応、ヤナギ堂の電話番号と、事務所までの地図は冷蔵庫に貼っておいたから」
「事務所に住み込みなんだ?」
「まあね」
そもそも〈檻〉に賃貸物件などというものは存在しないし、事務所の部屋が空いているのだから、あえて職場と住居を分けるメリットはない。所長の勧めもあり、僕は〈檻〉滞在中に使わせてもらっていた空き部屋を、そのまま貸してもらう予定になっていた。
「夏音さんも、クソをちゃんとトイレでするなら住んでも構わない、って」
僕の下品な引用がツボにはまったのか、姫花は口元を押さえてしばらくにやにやと笑っていた。なにが面白かったのか尋ねてみると、彼女どこか諦めのついたような、さっぱりとした口調で言った。
「それって、猫ちゃんみたいだね」




