第29話 巨獣
緑淵丸の内部から這い出してきたものは、ずるりずるりと甲板にのぼり、やがて濃紺の空と鉄色の海を背景にして、ゆっくりとその肉体をもたげた。
全長数十メートルに及ぶ巨体は不定形なようでいて、明らかにそれと分かる頭部や肢を備えていた。表面では人間の腕に似た偽足や、ひと抱えほどもある眼球、ぱっくりと開いた口、その中にある不揃いな歯列などが、絶えず生成され、混ぜあわされ、また内部に取り込まれるということを繰り返していた。
現れたのは僕が想像したこともない怪物だった。一見してショゴスに似ていたが、さらに大きく、恐ろしく、悪意に満ちていた。しかし種々のおぞましい要素を差し引いて、冷静に輪郭を見てみれば、それは猫だった。猫の形をしていた。そしておそらくは、シャビスカの姿なのだった。
「夏音さん、あと何発残ってます?」
「弾倉一コ分。そっちは?」
「……いま入ってる六発と、ポケットに一発だけ」
もしあの肉体がショゴスと類似のものならば、ロベリアも同じように効果を発揮するだろう。しかしどう見積もっても数十トンはあろうかという巨体に、せいぜい数グラムの化学物質を撃ち込んだところで、どれほどのダメージを与えられるのか?
「どうする? 所長。ムカつくけど逃げるか?」
「多分、逃がしてはくれないだろうね」
「こんなものが赤煉瓦城塞に侵入したら大変なことになります」
ロゼッタが言った。
「私たちが倒すしかありません。倒すしか――」
シャビスカが〈檻〉全体に響くような、嵐にも似た声で吠え、沈んでいく緑淵丸から陸にあがった。その顔面と肩から直径一メートルほどの眼球がいくつも生成され、僕たちの方を睨みつける。
そして明確な敵意とともに、重機のような片肢がゆっくりと振りあげられ――地面に叩きつけられた。
轟音と衝撃が〈檻〉がババヤガ公園を震撼させる。
最初のパンチを躱すのはそう難しくなかった。しかしたった一発でアスファルトは砕け、木々は叩き潰され、三人と四匹は散り散りになってしまった。これでは敵の攻撃を避けるというよりも、天災から身を守っているようなものだ。
「省吾、逃げろ! 狙われてんぞ!」
夏音さんの声が、シャビスカの咆哮でかき消される。その頭がぐりぐりと奇怪にねじれ、僕を覗き込んだ。
もはや理性が残っているとも思えないが、注意がこちらに向いているのは確かだった。儀式の完遂を防ぐという意味でも、姫花を守るという意味でも、追いつかれるわけにはいかなかった。
僕は姫花を背負いながら、海と森に挟まれた細い道路を赤煉瓦城塞の方向へと走った。明確な目的があったわけではない。そちらにしか逃げられなかったのだ。
うしろからはシャビスカが、公園の木々をへし折りながら追いかけてくる。
「そのまま走って! 振り向いちゃダメよ!」
「僕たちが食いとめる。きょうだいを守れ!」
足元でジェニィとピートの声がしたかと思うと、強烈な力場があたりに渦巻いて、太い丸太同士がぶつかるような激しい音がした。きょうだいが念動力で瓦礫を操り、シャビスカの前進を押しとどめているようだった。
「ギャンッ」
しかしすぐに二匹分の悲鳴が、海の方へ遠ざかって行った。力任せに振り抜かれた巨大な前肢が、きょうだいをまとめて吹き飛ばしたのだ。
「オオオオオオォォォォ……!」
鼓膜どころか全身を震わせるような咆哮が再び迫る。
人ひとりを背負った状態で、そう長く走れるものではない。しかし勝てる見込みがない以上、逃げるしかないのだ。
…………。
それでいいのか?
僕がちらりとうしろを振り返ったとき、シャビスカの肩に乗り、自らを捉えようと伸ばされる偽足を躱しながら、なんとか致命的な部位に食らいつこうとする所長の姿があった。
「安心しろ。忘れてなどいないさ、シャビスカ」
ラシードを脅したときとはまた違う、怒りと悔恨の混ざったような声がかすかに聞こえた。それはシャビスカへの呼びかけや挑発というよりも、所長自身の覚悟や決意の宣言であるように聞こえた。
「ぼくはミルカの笑顔を忘れていない。彼女の優しさを忘れていない。交わした言葉を忘れていない。けれど、彼女はぼくを忘れてしまったんだ。お前のせいだ。お前たちのせいだ。ぼくはもうあんな思いはしたくないんだ。だから何度でも邪魔してやろう。何度でも――」
僕が前方に向き直り、またよろよろと逃げはじめたときに、シャビスカの咆哮に苦痛の響きが混じった。所長の爪か牙が、脆弱な部位を傷つけたに違いなかった。
しかし、それきりだった。太い木々を小枝のようにへし折る叩きつけが地面を揺るがしたかと思うと、所長の気配はすっかり消えてしまった。
「ああ、ネメオス所長……」
悲鳴に近い声をあげながら走り寄ってきたのはロゼッタだった。夏音さんがシャビスカの身体をかいくぐりながらやってくるのもちらりと見える。
「わ、私の判断ミスです。省吾さんはこのまま城塞に向かってください。そこで救援を求めて、どうにかしてシャビスカを止めるのです」
勝てる見込みがない以上、逃げるしかない。
「省吾、死ぬ気で走れ!」
なら、なんでみんなは戦っているのか。なんで僕だけが逃げているのか。
もちろん姫花がいるからだ。彼女を守ることこそが僕の使命であり、〈檻〉にやってきた目的だからだ。
それでも。
「ロゼッタさん。姫花を頼めますか」
「なにをするつもりです?」
僕は肩で息をしながら姫花を地面におろし、トーラスを抜いた。
「とにかく、お願いします。僕がやられたら、なんとかして城塞まで運んでやってください」
「省吾さん、あなたは――」
僕はロゼッタがなにか言うのも顧みず、顔をあげてシャビスカに対峙した。ジェニィ、ピート、それに所長の攻撃は、多少なりともその巨体に損傷を与えていたらしく、全身の動きがわずかに鈍くなっているように見えた。あるいはそもそも、長く活動できるような存在ではないのかもしれない。
夏音さんがシャビスカを追い越し、足止めのために向き直る。僕は彼女に肩を並べ、トーラスで狙いをつけた。
「おい、どういうつもりだ」
「分かりません」
「仕方ないヤツだな、お前は」
夏音さんの態度は、僕がこうすると分かっていたようでもあった。
「狙うなら目ん玉だ。あそこは多少痛いらしい」
これ以上一歩も進ませまいとして、僕と夏音さんは銃を撃ち続けた。シャビスカの肩にある目を潰し、腕に生成された目を潰し、泡立つように浮かんできた顔面の目を潰した。
しかしやはり、殺し切ることはできなかった。すぐにトーラスの撃鉄がカチリと音をたて、弾丸がなくなったことを告げた。
「こっちも打ち止めだ。あとはもう、キックでもするしかないな」
シャビスカの動きは確かに鈍っているが、傷は絶えず別の組織で埋められていく。
ロゼッタが姫花を逃がしてくれるにしても、いま少しの足止めが必要だ。いざとなったら本当にキックしてでも注意を引くしかない。たとえあっけなく叩き潰されたとしても、彼女らがこの場を離れられる時間が稼げればそれで構わない。
僕が半ば諦めの境地に達していたとき、赤煉瓦城塞の方向から、ヘッドライトの光とともに、こちらへと向かってくるエンジン音があった。
夏音さんとともに振り返ると、それは白い軽トラック――ヤナギ堂の早乙女さんが運転する軽トラックだった。
「いた! いた! 夏音ちゃんいたぞ! まだ生きてるか?」
その荷台にいるのは、水色の髪を振り乱しながら叫ぶ凛風だ。
「なにしに来たんだ凛風! 戻れ! 死にてえのか!」
軽トラックが急ブレーキをかけ、僕たちのすぐうしろで――ロゼッタと姫花を危うく轢きかけて――止まった。
「なにって夏音ちゃん、ワタシは――」
突然現れた軽トラックは、明らかにシャビスカの注意を引いた。ドロドロと形を失いつつある前肢が、僕と夏音さんを掠めて伸ばされ、がっしりと車体を掴んだ。
「うわぁぁ」
早乙女さんの叫び声が聞こえる。僕はほとんどシャビスカに覆いかぶさられるようになっていて、彼がどうなったのか確かめることができなかった。
しかし辛うじて脱出に成功したらしい凛風が、数メートル先に倒れているのが見えた。荷台から飛びおりる際にひどく足を痛めたようで、うずくまったまま動けなくなっている。彼女のもとへ駆けつける途中、近くで軽トラックがぐしゃぐしゃと握りつぶされる音がした。
「凛風さん、大丈夫ですか、動けますか」
「省吾、これ、使え」
凛風は額からも大量の血を流しながら、腕に抱え込んでいたものを差し出す。
ライフルをひと周り大きくしたような銃身。そこに挿しこまれたペン先のような形の弾頭。僕はこの種の兵器を、大雑把に作られたアクション映画や、紛争のドキュメンタリーで見たことがあった。
「ロケットランチャー? こんなものどこから……」
「本当は騎士団に卸すつもりだったヤツだ。弾頭はロベリアと同じものだから、きっと……」
「喋らないでください。分かりましたから」
「省吾ならやれる。早乙女サンほどじゃないけど、お前もチンコのでっかい男だ」
僕がそれを受け取り、肩に担ぎあげたとき、頭のすぐ上から声が聞こえた。
「見つけた」
声を発したものの正体は、シャビスカの体表に形成された人間の口だった。それは黒い唇と、不自然なほどに白い歯と、無数の眼球に覆われた舌から成る、悪夢のような器官だった。
気づけば、数十トンの巨体が僕にのしかかろうとしていた。慌ててトリガを指で探るが、間に合わない。
潰される、と思った瞬間、誰かが勢いよくぶつかってきた、シャビスカの下から弾き出された僕の視界を掠めたのは、夏音さんのカラフルなジャンパーだ。
直後、僕の目の前で、シャビスカの身体がすべてを呑み込んだ。
「ダメだ! 夏音さんッ、夏音さん――」
打撲の痛みを耐えながら、僕は叫んだ。それでも敏捷な彼女のこと、間一髪で難を逃れたのではないか。かすかな期待を込めて周囲を見回したが、一帯にはシャビスカの肉体がボコボコと蠢いているだけで、夏音さんの姿も凛風の姿もなかった。
ロケットランチャーはどこだ? 慌てて探すと、少し離れた場所に転がっていた。僕は這いずるようにしてそれを拾おうとしたが、あと数十センチというときに、僕の足首を強力に掴むものがあった。
「うっ……」
冷たく、ぬるりとした感触。脳裏に浮かぶのは、桟橋でショゴスに挽き潰されてしまった権藤さんの最期だ。
いや、まだだ。まだ終わりではない。僕は必死に身体を伸ばし、ロケットランチャーに触れた。指先の力でそれを手繰り寄せ、銃身を掴む。
ふくらはぎまで這い寄ってきた黒い偽足が、メキメキと足首の骨を粉砕するのが分かった。僕は激痛に歯を食いしばりながら、身体を反転させてロケットランチャーを担ぐ。
シャビスカの頭らしき部位はまだ輪郭を保っており、縦横に開いたいくつもの裂け目から、怒声とも笑い声ともつかない音をまき散らしていた。僕は備えつけられた照準器で狙いを定め、折れた足が妙な方向に曲がるのも構わず、無理やりに姿勢を安定させる。
そして大きく一度息を吐いてから、トリガを引いた。




