正法眼蔵随聞記 第二巻
正法眼蔵随聞記 第二巻
侍者 懐奘 編
第三十章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
修行者は、まず、心さえ調整して悪を降伏させれば、身を捨てる事も、世俗を捨てる事も、簡単なのである。
ただし、言葉にしろ、振る舞いにしろ、人目を思って、「この事は悪事なので、他人も『悪い』と思うであろう」と考えてしまって、行わず、自分は「何々をする者こそ『仏法者である』と他人は見るであろう」と考えてしまって、折りに触れて、「善行をしよう」としてしまうのも、なお、世俗の感情なのである。
だからと言って、思い通りに、自分の心に身を任せて悪事をするのは、全くの悪人なのである。
結局、悪い心を忘れ、自身の身を忘れて、ただ、全く、仏法のためだけに、(善行を)行うべきなのである。
出来事が向かって来るごとに従って、用心するべきなのである。
初心者の修行者は、まず、世俗の感情であっても、人情であっても、悪事を犯すのを心で制止し、善行を身で行うのが、心身を捨てる事なのである。
第三十一章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
故人である僧正であった栄西が建仁寺にいた時、一人の貧しい人が来て、次のように、話した。
「私の家は貧しくて、(食糧が無くて)料理の火による煙が絶えてしまって、数日間に及んでしまっています。
夫婦と子息、三人共に、餓死しそうなのです。
慈悲で、これを救ってください」
その時、寺の中には、全く、衣服、食糧、財産などが無かった。
栄西は、思いを巡らしたが、良い考えが尽きてしまった。
その時、薬師如来の仏像を造ろうとして、後光の材料として打ち延ばした銅が少し有った。
栄西は、その銅を手に取って、自ら打って折って束ねて丸めて、その貧しい人に与えて、次のように、話した。
「これを食べ物に換えて、飢えを塞ぎなさい」
その(貧しい)俗世の人は、喜んで、退出した。
その時、弟子などは、栄西を非難して、次のように、話した。
「それは、仏像の後光(の材料)です。
それを俗世の人に与えてしまいました。
仏の物を私的に流用してしまった罪に成ってしまいます。
どうなのでしょうか?」
栄西 僧正は、次のように、話した。
「まことに、その通りです。
ただし、仏の心について考えると、仏は、身の肉や手足を裂いて生者達に施しました。
現に餓死しそうな生者達には、たとえ、仏の全体を与えても、仏の心に適うであろう」
栄西は、また、次のように、話した。
「私、栄西は、この罪によって地獄などに堕ちてしまうとしても、ただ、生者達の飢えを救おう」
(道元は、次のように、話した。)
「先人の達人の心の丈を、今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、思うべきである。
忘れるなかれ」
第三十二章
また、ある時、栄西 僧正の弟子の僧などが、次のように、話した。
「今の建仁寺は、河原に近いです。
後世に水難が有るかもしれません」
栄西 僧正は、次のように、話した。
「私、栄西は、寺の後世の消失について考えません。
西のインドの祇園精舎も、基礎だけが残留しています。
けれども、寺院を建立した功徳は失われません。
また、当時の、一年間や半年間の仏道修行の功徳は莫大なのです」
(道元は、次のように、話した。)
今、この話について考えると、寺院の建立は、実に、一生の一大事なので、未来の果てをも兼ね合わせて、「難が無いようにしよう」と思うが、そのような心中でも、また、この話のような道理を留めている心の丈を実に思うべきである。
第三十三章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
唐の太宗の時、魏徴は、太宗に、次のように、報告した。
「農民などが、太宗の悪口を言う事が有ります」
太宗は、次のように、話した。
「自分に思いやりが有って、他人に悪口を言われたら、心配するべきではない。
思いやりが無くて、他人に、ほめられたら、心配するべきである」
(道元は、次のように、話した。)
俗世の人でもなお、このようなのである。
僧は、最も、このような心が有るべきである。
慈悲が有って、悟りを求める心が有って、愚かな他人に悪口を言われるのは、苦しくないであろう。
悟りを求める心が無くて、他人に「悟りを求める心が有る」と思われようとするのは、よくよく、慎むべきである。
第三十四章
道元は、また、僧達に示して、次のように、話した。
隋の文帝は、次のように、話した。
「密かに、『徳行』、『善行』を修行して、満ち足りるのを待つ」
(道元は、次のように、話した。)
この言葉の意味は、「『道徳』、『善行』を修行して、満ち足りるのを待って、民を慈しむ」という物なのである。
僧が、この心に及ばなければ、最も用心するべきなのである。
ただ、内密に修行すれば、自然に道徳が外に表れて、他人に知られる事を期待せず望まずに、ただ、専念して仏教に従い、祖師達の教えである仏道に従っていけば、他人も自ずと道徳に帰るのである。
ここで、未だ学ぶべき物が有る人である僧の誤りが出て来る様子とは、他人に敬われ、財宝が出て来るのをもって、「道徳が表れている」と自らも思ってしまうし、他人も思ってしまうのである。
しかし、これは、「『天魔波旬』、『仏敵』が憑依している」と心に知って、最も、思いはかるべきである。
仏教の中では、これは、「『魔』、『仏敵』による仕業である」と言うのである。
インド、中国、日本という三国の前例で、「財宝に富み、愚かな人からの帰依と敬礼をもって道徳とするべきである」という事を未だ聞いた事が無い。
悟りを求める心が有る者とは、昔から、インド、中国、日本という三国の全てで、貧しくて、(修行で)身を苦しめ、一切の世俗の事を省略して、慈悲が有り、悟りを求める心が有る者を、「真実の修行者」と言うのである。
「徳が表れる」とは、財宝に豊かに成り、捧げものを誇るのを言う訳ではない。
徳が明らかになるのに、三重が有るのである。
まずは、その人が、「自分の務めを修行しているのである」と(他人に)知られるのである。
次に、その人が修行している自分の務めを慕う者が出て来るのである。
最後には、その慕う者が、自分の務めを同じく学び、同じく修行するのである。
これらを「道徳が表れる」と言うのである。
第三十五章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
仏道を学び修行する人は、「世俗の人の感情を捨てる」べきなのである。
「世俗の人の感情を捨てる」とは、仏法に従って修行する事なのである。
世俗の人は、多くが、小乗根性で、善悪をわきまえ、是非を区別して、「是」、「善」を取り、「非」、「悪」を捨てるのは皆、小乗根性なのである。
ただ、まず、世俗の感情を捨てて、仏道に入門するべきである。
仏道に入門するには、自分の心で善悪を区別して「善い」と思ったり「悪い」と思ったりする事を捨てて、「自身は善いであろう」、「自分の心は何々であろう」と思う心を捨てて、善であれ、悪であれ、仏や祖師達の言葉や日常の所作に従っていくのである。
自分が心で「善い」と思ったり、世俗の人が「善い」と思ったりする事は、必ずしも、善くないのである。
であれば、人目も忘れて、自分の心をも捨てて、仏教に従っていくのである。
「身も苦しく、心も心配しても、自分の心身を全く捨てる物なのである」と思って、苦しくても、心配しそうな事でも、仏や祖師達や先人の高徳の僧の日常の所作であれば、行うべきなのである。
「この事は善い事であるし、仏道にも適うであろう」と思って行いたくても、もし、仏や祖師達の日常の所作に無い事は、行うべきではない。
このような事は、必ず、仏法をも良く心得る時にも有るのである。
自分の心でも、また、本より、習って来ている仏法についての思いはかりを捨てて、ただ、今、見ている所である祖師達の言葉や日常の所作へ、次第に、心を移していくのである。
このようにすれば、智慧も進歩し、悟りも開けるのである。
本より、学んでいる所である禅宗以外の文字の功績も、捨てるべき道理が有れば、捨てて、今の正しい道理によって見るべきなのである。
仏法を学ぶのは、本より、俗世を出て離れて、真理を会得するためなのである。
「自分が学んでいる所の多年の功績を積んでいるのに、どうして、たやすく捨てるであろうか? いいえ!」と、なお心で深く思う心を「生死に繋ぎ縛る心」と言うのである。
よくよく、思いはかるべきである。
第三十六章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
故人である建仁寺の栄西 僧正の伝記を、顕兼 中納言 入道は書かれたのであるが。
その時、辞退する言葉として、次のように、話した。
「儒学者に書かせるべきです。
なぜなら、儒学者は、本より、身を忘れて、幼い時から大人に成るまで、学問を根本としています。
そのため、書き出した物に誤りが無いのである。
ただの人は、自身の出仕や、大衆と交わる事を根本として、片手間で、学問をするので、自然と、立派な人がいても、文筆の道でも誤りが出て来るのです」
この話について考えると、昔の人は、仏教外の経典の学問も、身を忘れて学んでいたのである。
第三十七章
道元は、また、次のように、話した。
故人である公胤 僧正は、次のように、話した。
「悟りを求める心とは、『一念三千の』、『一瞬の思いに全てのものが備わっている』仏法などを胸の中に学び入れて保持しているのを『悟りを求める心』と言うのである。
何となく、笠を首に懸けて迷い歩くのは、『天狗のような魔、仏敵と繋がっている行い』と言うのである」
第三十八章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
故人である、ある僧正は、
「僧達の各々が用いている所の衣服や食糧などの物を、『私が与えている』と思うなかれ。
皆、これらは、諸々の天人が捧げてくれている所の物なのである。
私は、取り次いで、他人に与えているだけなのである。
また、各々、一生の寿命に応じた分け前を十分に備えているのである。
奔走するなかれ。
私による恩と思うなかれ」と話して、常に、勧めていた。
この言葉は、第一の美しい善い言葉と思われるのである。
第三十九章
また、宋の時代の中国の宏智 禅師の会の下である天童山の寺では、寺の共有物は、千人の用途分なのである。
であれば、寺の堂の中は七百人分、寺の堂の外は三百人分で、千人分に見積もっている寺の共有物であるのに、善い長老が住んでいるため、諸方の僧達が雲のように集まって、寺の堂の中は千人に成ったのである。
その他に、五、六百人いたのである。
「知事」を務めている僧である人が、宏智 禅師に、次のように、話して訴えた。
「寺の共有物は、千人の分しかありません。
僧達が多く集まって、用途に不足しています。
道理を曲げて、僧を追放しましょう」
宏智 禅師は、次のように、話した。
「人々には皆、分け前が有る。
あなたが、あずかり知る事ではない。
なげくなかれ」
(道元は、次のように、話した。)
今、この話について考えると、人々には皆、生まれた時に得ている衣服や食糧の分け前が有るのである。
思っても出て来ないし、求めなくても来るのである。
在俗の人ですらなお、運に任せて、主人への忠実を思い、親孝行を学ぶのである。
まして、どうして、出家者である僧は、全く、仏道以外の世俗の事を管理しようとするであろうか? いいえ!
釈迦牟尼仏が僧に残して付属してくれている幸福の分け前が有るし、諸々の天人から、捧げものを受けるのに相応しい僧への、衣服や食糧が有るし、また、先天の生まれた時に得ている寿命に応じた分け前が有るのである。
求めず、思わなくても、運に任せても、寿命に応じた分け前が有るのである。
たとえ走り求めて宝を持っても、死が突然に来た時、どうするのか?
そのため、未だ学ぶべき物が有る人である僧は、ただ、仏道以外の世俗の事を心に留めず、専念して仏道を学び修行するべきなのである。
第四十章
また、ある人が、次のように、話した。
「末法の世、辺境の土地で仏法を盛んにするには、静かな場所を構えて、衣服や食糧などの、世俗の人からの支援によって心配が無く、衣服や食糧を十分に備えて仏法を修行すれば、他者への利益も広大に成るであろう」
今、この言葉について考えると、そうではない。
それについては、形有るものに自我が執着している、諸々の人々が集まって学んでも、その中からは、一人も、悟りを求める事を思い立って心する人は出て来ないであろう。
利益を貪る事に執着し、財産への欲望にふけって、たとえ、千万人が集まっても、一人も、悟りを求める事を思い立って心する人がいない事よりもなお、劣るであろう。
地獄などへ堕ちてしまう悪業による原因ばかり自ら積んでしまい、仏法の心の状態が無いからなのである。
もし、清貧で、労苦して、あるいは、乞食し、あるいは、果実などを食べて、常に飢えながら仏道を学んで修行して、これを聞いて、もし、一人でも、来て、仏道を学び修行しようと思う人がいる事こそ、真実の悟りを求める心が有る者であるし、仏法が盛んに成るであろう、と思われる。
労苦や清貧によって一人も後続者がいない事と、衣服と食糧が豊かで諸々の人が集まっても仏法が無い事は、ただ、「八両と半斤」、「似ている」のである。
第四十一章
道元は、また、次のように、話した。
今の世の人は、多くが、像を造ったり、塔を建てたり等する事を仏法が盛んに成っていると思っている。
これも、また、正しくないのである。
たとえ、建物を高く立派にしたり、「大観玉」を磨いたり、黄金を延べたりしても、これらによって真理を会得した者はいないであろう。
ただ、在家信者の財宝を仏の世界に入れて善行を行わせ幸福の分け前と成るのである。
また、小さい原因で大きい結果を感じる事が有っても、僧が、これらの事を営むのは、仏法が盛んに成っている訳ではないのである。
たとえ、草による庵や樹の下でも、仏法の一句について思いはかったり、一時、坐禅を行ったりする事こそ、真実の、仏法が盛んに成っている事なのである。
今、寺の僧堂を建てようとして、寄付をも募って、随分、営む事は、必ずしも、「仏法が盛んに成っている」とは思わない。
「ただ、当時、仏道を学び修行する人もいなくて、いたずらに無駄に月日を送る時間が、ただ、有るよりは」と思って、「迷っている人達と縁を結ぶ事にも成れ」と思って、また、当時、仏道を学び修行する僧達の坐禅の道場のためなのであり、また、そう思って始めた事が成就しなくても恨まないのである。
ただ、柱を一本でも立てて置いたら、将来も、そのように思って計画したが成就しなかったのを見ても苦しくない、と思うのである。
第四十二章
また、ある人が、次のように、勧めて話した。
「仏法を盛んにするために、関東に向かうべきである」
道元は、次のように、答えた。
正しくない。
もし、仏法への志が有れば、山や川や大河や海を渡っても、来て、学ぶべきである。
そのような志が無い人の所に行って勧めても、聞き入れるかは、不確かなのである。
ただ、自分への支援のために、他人をだますであろうか? いいえ!
また、財宝を貪るためであろうか? いいえ!
それらは、身の苦しみと成ってしまうので、「どうでも良い」と思われるのである。
第四十三章
道元は、また、次のように、話した。
仏道を学び修行する人は、禅宗以外の書籍を読んだり、仏教外の経典などを学んだりするべきではない。
見るのであれば、祖師達の語録などを見るべきである。
その他は、しばらく、さし置くべきである。
近代の禅僧は、頌という詩を作り、仏法の言葉を書こうとするために、文筆などを好んでしまう。
これは、善くないのである。
頌という詩を作らなくても、心に思っている事を書き出したり、文筆が整わなくても仏法について書いたりするべきなのである。
これらが悪いと見ないほどの、悟りを求める心が無い人は、良く文筆を整えて、素晴らしい秀でた言葉であっても、ただ、言葉だけを弄んで、真理を会得できないであろう。
私、道元は、幼少の時から、好んで学んでいた事なので、今も、何かというと、仏教外の経典の美しい善い言葉を思案してしまい、「文選」なども見てしまうのを、「無駄な事である」と知っているので、全く捨てるべきである理由を思うのである。
第四十四章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
私、道元が、宋の時代の中国にいた時、禅院で古代の先人の語録を見ていた際、真理を心得ている者である、西川の、ある僧が、私、道元に、次のように、質問した。
「語録を見て、何の役に立つのか?」
道元は、次のように、答えた。
「古代の先人の日常の所作を知る事ができます」
その僧は、次のように、話した。
「何の役に立つのか?」
道元は、次のように、話した。
「故郷に帰って他人を教化できます」
その僧は、次のように、話した。
「何の役に立つのか?」
道元は、次のように、話した。
「利益を生者達にもたらす事ができます」
その僧は、次のように、話した。
「結局、何の役に立つのか?」
私、道元は、後に、この事の道理を思案すると、語録や、「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」などを見て、古代の先人の日常の所作を知って、あるいは、迷っている者のために説いて聴かせる事、これらは皆、自身の修行や、他者を教化するためには、結局、何の役にも立たないのである。
坐禅に打ち込むのに専念して一大事をあきらめれば、後には、一文字も知らなくても、他者に(仏の知見を)開示するのに、用い尽くす事ができないほどに成る。
そのため、その僧は「結局、何の役に立つのか?」と話したのである。
私、道元は、これは「真実の道理なのである」と思って、その後、語録などを見る事をやめて、坐禅に打ち込むのに専念して、一大事を明らめる事ができ得た。
第四十五章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
真実の内密の「徳行」、「善行」が無いのに、他人に敬礼されるなかれ。
この国の人々は、真実の内密の善行を知らず、外面によって他人を敬礼するので、悟りを求める心が無い、未だ学ぶべき物が有る人は、地獄などに引き落とされて、「魔」、「仏敵」の眷属と成ってしまうのである。
他人に敬礼されるのは、簡単な事なのである。
身を捨て世俗に背く様子によるのは、外面だけの仮初なのである。
ただ、何となく、世間の人の様にして、内心を整えていくのが、真実の、悟りを求める心が有る者なのである。
そのため、古代の先人は、次のように、話したのである。
「内は空しくして、外は従う」
この言葉の意味は、内心は自我に執着する心を無くして、外面は他に従っていく事なのである。
自身、自分の心と言う事を全く忘れて、仏法に入門して、仏法の掟に任せて修行していけば、内外、共に、善く成るのであるし、今も後も、善く成るのである。
仏法の中に集中できずに身を捨て、「世俗を捨てる」と言って捨てるべきではない事を捨てるのは、善くないのである。
この国土の仏法者のうち、悟りを求める心が有る者を自称する人の中にも、「身を捨てる」と言って、「他人は、どうにでも見ても良い」と思って、理由も無く身を悪く振る舞い、あるいは、また、「世俗に執着しない」と言って、雨に濡れながら歩いて行く等するのは、内外、共に、無益であるのに、世間の人々は、これらの人々を「高貴な人であるかなぁ。世俗に執着しない」等と思ってしまうのである。
心中で仏による制度を守って、戒律に則っていて、自身の修行も、他人の教化も、仏による制度に任せて修行する人を、かえって逆に、「名声や利益を貪っている」と言って、人々は気にもかけないのである。
しかし、そのような人が、かえって逆に、自身のために成るし、仏教に従っている事に成るし、内外の「徳行」、「善行」も成就するのである。
第四十六章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
仏道を学び修行する人は、世間の人々に、智者や、物知りと知られても何の役にも立たないのである。
真実に仏道を探求する人が、一人でもいる時は、自分が知っている仏や祖師達の仏法を説くべきである。
たとえ、自分を殺そうとした人でも、真実の真理を聴こうとして、誠実な心によって質問したら、怨む心を忘れて、その人のために説くべきなのである。
その他、禅宗以外や、密教以外や、密教、及び、仏教内外の経典や書籍などの事を知っている様子をしても、全く何の役にも立たないのである。
ある人が来て、これらのような事を質問しても、「知らない」と答えて、一切、苦しくないのである。
それなのに、「物を知らないのは悪い」と自身も他人も思ってしまい、「愚かな人である」と自ら思ってしまう事を傷んでしまって、物を知ろうとしてしまって、広く仏教内外の経典を学んでしまって、あまつさえ、「世間、世俗の事をも知ろう」と思ってしまって、諸々の世俗の事を好んで学んでしまって、あるいは、他人に自分は知っている様子を見せるのは、極めて誤った事なのである。
仏道を学び修行するためには真実に何の役にも立たないのである。
知っているのを知らない様子をするのも難しく、わざとらしいので、かえって逆に、冷たい様子に成ってしまって、悪いのである。
本から知らなければ、苦しまないのである。
私、道元は、幼少の時は、仏教外の経典などを好んで学んでしまった。
後、宋の時代の中国に入国して、仏法を伝えてもらうまで、仏教内外の書籍を開き、方言にも通じたのは、大切な用事のため、また、世間のためにも、尋常ではない事なのである。
世俗の人々なども「尋常ではない事である」と思ったし、あれこれの用事のためであったが、今、つくづく思うと、仏道を学び修行する事の障害であったのである。
ただ、仏教の経典を見ても、文に見えている所の道理を次第に心得ていけば、その道理を会得できるであろう。
それなのに、まず、文章を見てしまい、対句や韻声なども見てしまい、「善い」とか「悪い」と心に思ってしまった後に、道理を心得ていたのである。
そのため、知らないで、初めから、道理を心得ていけば、善かったのである。
仏法の言葉などを書くにも、文章の規則に則って書こうとしてしまったり、韻声を間違えてしまったら(書くのを)妨げられてしまったり等するのは、知っている罪なのである。
言葉や文章は、どうでも良く、思うままの道理を徐々に書けば、後世の人々も「文は悪い」と思っても、道理が聞こえさえする事が、真理のためには大切なのである。
他の学問や知識も、このようなのである。
次のように、伝え聞いた事が有る。
故人である、高野の空阿弥陀仏は、本は、密教以外や、密教の、知識が有る高徳の僧であった。
世俗から逃れた後、念仏の門に入った後、真言宗の法師がいて、来て、密教の仏法について質問したら、空阿弥陀仏は、「皆、忘れてしまいました。一文字も覚えていません」と話して、答えなかったのである。
これこそ、悟りを求める心の手本と成るべきである。
少々は、覚えていたであろう!
けれども、何の役にも立たない事は言わないのである。
「念仏に専念する日々は、そのようにこそ、有るべきである」と思われるのである。
今の学者も、このような心が有るべきである。
たとえ、本、禅宗以外の学問や知識などが有っても、皆、忘れてしまうのは、善い事なのである。
まして、今、学んでしまう事は、ゆめゆめ、有るべきではない。
自分の宗派の語録などですらなお、真実の学に参入する仏道修行者は、見るべきではない。
その他は、これにより、知るであろう。
第四十七章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
今、この国の人々は、多分、あるいは、所作について、あるいは、言葉について、善悪や是非を、世俗の人々の見聞している知識を考慮してしまって、「この事を行うと他人は悪く思うであろう」とか「この事は他人は善く思うであろう」と思ってしまって、今後までも執着してしまうのである。
これは、全く、善くないのである。
世間の人々は、必ずしも、善を知る事ができない。
「他人が、どう思っても良い。狂人と言いたければ言えば良い」と思って、自分の心で仏道に則している事を行い、仏法に則していなければ行わないで、一生を過ごせば、世間の人々が、どう思っても、苦しくないであろう。
世俗から逃れるとは、世俗の人々の感情を心に気にかけない事なのである。
ただ、仏や祖師達の日常の所作や、菩薩の慈悲を学んで、諸々の天人や護法善神が目に見えなくても明らかに照らす所の言動による罪を懺悔して、仏による制度に任せて修行していけば、一切、苦しくないであろう。
だからと言って、また、「他人が『悪い』と思ったり話したりしても苦しくない」と言って、自由奔放で邪悪に成って悪事を行って他人に恥じ入らないのは、善くないのである。
ただ、人目に基づかず、全く仏法に基づいて修行するべきなのである。
仏法の中では、また、そのような自由奔放な邪悪さや無恥を制止しているのである。
第四十八章
道元は、また、次のように、話した。
世俗の礼儀でも、他人から見えない所、あるいは、暗い部屋の中でも、衣服などを着替える時も、また、座ったり、横に成ったりする時にも、自由奔放に邪悪に、陰部などを隠さず無礼であるのを、「天の神に恥じ入っていないし、鬼などの霊的存在に恥じ入っていない」と注意するのである。
ただ、他人が見ている時と同じく、隠すべき場所を隠し、恥じ入るべき事を恥じ入るのである。
仏法の中でも、また、戒律は、そのように成っているのである。
であれば、仏道修行者は、内外を論じず、明暗を選ばず、仏による制度を心に留めて、「他人から見えない、知られない」と言って、悪事を行うべきではない。
第四十九章
未だ学ぶべき物が有る人である、ある僧が、ある日、道元に、次のように、質問した。
私は、なお、仏道を学び修行する事を心にかけて、年月を経て来ましたが、未だに、反省して自身の罪を悟る境地にもいません。
古代の先人は、多くが、「真理の会得は、聡明さや利発さによらず、智慧や明敏さを用いない」と話しています。
であれば、「『自身は、下等な才能、劣悪な器なので』と言って卑下するべきではない」と話しているように聞こえます。
もしかして、前例や、心に留めるべき用心の様子が有るのでしょうか?
どうなのでしょうか?
道元は、示して、次のように、話した。
その通りです。有ります。
智慧や高等な才能を用いず、利発さや聡明さによらないのが、真実の仏道を学び修行する事なのである。
しかし、誤って、「見る目が無い人や、聞く耳を持たない人や、愚かな人のように成れ」と勧めるのは、善くないのである。
仏道を学び修行するには、全く、多聞による博識や高等な才能を用いないので、「下等な才能や、劣悪な器である」と言って嫌うべきではない。
真実の、仏道を学び修行する事は、簡単な事なのである。
けれども、宋の時代の中国の寺院でも、ある師の会の下の数百人や千人の中に、真実の、真理を会得した人、仏法を会得した人は、わずかに、一人か二人なのである。
そのため、前例や用心も有るのである。
今、これについて思案すると、志の有無なのである。
真実の志を起こして、随分に、学に参入する人は、真理を会得する。
「その用心の様子では、何事に専念して、何の修行を急ぐべきである」と言うのは、次のような事なのである。
まず、心から求める志が切であるべきなのである。
例えば、「貴重な宝を盗もう」と思ったり、「強敵を討伐しよう」と思ったり、「高い色形のものに出会おう」と思ったりする心が有る人は、歩いたり立ち止まったり座ったり横に成ったりする時に、折りに触れて、種々の出来事が代わる代わる来ても、それに従いながら、隙を探し求め、心に気にかけるのである。
このような心が、とても切である者は、思いを遂げる。
このように、真理を探求する志が切であれば、あるいは、坐禅に打ち込むのに専念している時、あるいは、古代の先人の「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」に立ち向かっている時、もしくは、善知識を持つ人々に逢っている時、真実の志によって修行している時、高くても的を射るであろうし、深くても釣り上げるであろう。
これほどの心が起きていないのに、仏道による一つの思いで生死の輪廻転生を切る一大事をどうして成就できるであろうか? いいえ!
もし、このような心が有る人は、下等な智慧や劣悪な才能を問わず、愚者や悪人を論じず、必ず、悟りを得る事ができるであろう。
また、このような志を起こすには、切に、世間の、この世のものの常の変化を思うべきなのである。
このような事は、仮初の、全てのものの観察などで、するべき事ではない。
また、有り得ない事を捏造して、思うべき事ではない。
真実に、眼前の道理なのである。
他人からの教え、仏教の経典の文、真理を証する道理を待つべきではない。
朝に生まれても夕方には死に、昨日、見た人が今日は亡くなっている事は、眼前を遮っているし、耳に近く聞く。
これは、他者の上で、見聞きする事なのである。
自身に引き当てて道理を思うと、たとえ、七十歳や八十歳まで寿命を期待できても、終には、死んでしまう道理によって死んでしまう。
その間の、心配、楽しみ、恩愛、怨敵などを思って解けば、「どうにでも過ぎてしまえ」と思うであろう。
ただ、仏道を信じて、涅槃の真の快楽を求めるべきである。
まして、年長の人や、大人の人や、人生を半ばまで過ぎている人は、余命が、いくばくも無ければ、仏道を学び修行する事を緩めるべきであろうか? いいえ!
この道理も、なお、述べた事が有る事なのである。
真実には、今日、今の時こそ、このように、世間の事も、仏道の事も、思いなさい。
今夜や、明日から、どのような重病を負ってしまって、東西をわきまえない重い苦しみを受ける身と成ってしまったり、また、どのような鬼神の怨みによる害を受けて急死してしまったり、どのような賊による災難に遭ってしまったり、怨敵が出て来て殺害されて命を奪われてしまったりする事が有るかもしれないのである。
実に、不確かなのである。
そのため、これほどに、無駄な世俗で、極めて不確かな死期を「いついつまで命を永らえよう」として、種々の生活の手段を思案して、あまつさえ、他人に対して悪事を企んだり思ったりして、いたずらに無駄に、時間を過ごしてしまう事は、極めて愚かな事なのである。
このような道理が真実であるので、仏も、これを生者達のために説き、祖師達による大衆への説法や仏法の言葉でも、この道理のみを説いたのである。
今の、堂に上っての説法や、さらなる利益を請い願われた時の説法などでも、「この世のものの常の変化は迅速である。生死は一大事なのである」と話すのである。
かえすがえすも、この道理を心に忘れず、ただ、「今日、今の時だけ」と思って、時間を失くさず、仏道を学び修行する事に心を入れるべきなのである。
そうした後は、真実に、簡単なのである。
性質の上等や下等や、才能の利発や愚鈍は、全く、論じないのである。
第五十章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
人々の多くが世俗から逃れない事は、自身を貪るのに似ているし、自身の事を思っていないのである。
遠い未来までの考慮が無いのである。
また、善知識を持つ人々に出会っていないせいなのである。
たとえ、利益を貪る事を思っても、永遠の快楽の利益を得て天人や竜からの捧げものを得る事を願い、名声を思っても、仏や祖師という名声を得て古代の先人の高徳の僧という名声を得れば、後世の賢者も、それを聞いて、慕うであろう。
第五十一章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
「朝に真理を聞けたら、夕方に死んでも、善いのである」
今、仏道を学び修行する人も、この心が有るべきなのである。
極めて長い年月、多数の生の間、何回か、いたずらに無駄に、生まれ、いたずらに無駄に、死んで、稀に、人の身を受けて、たまたま、仏法に出会った時、この身を仏土へ渡さなければ、いずれの生で、この身を仏土へ渡すのか?
たとえ、身を惜しんで保持しても、叶わない。
終には捨てて行く命を、一日でも一時でも仏法のために捨てれば、永劫の快楽の原因と成る。
後の事や、明日の生活の手段を思って、捨てるべき世俗を捨てず、修行するべき仏道を修行しないで、いたずらに無駄に、日夜、過ごすのは、くやむ事なのである。
ただ、思い切って、「明日の生活の手段が無ければ、飢え死んでしまえ。凍え死んでしまえ。今日、一日でも仏道を聞いて仏の心に従って死のう」と思う心を、まず、起こすべきなのである。
そうする時に、仏道を修行する事ができ得るのは、確かなのである。
このような心が無ければ、世俗に背き仏道を学ぶ様でもなお、後退してしまって、夏や冬の衣服などの事を下心に気にかけてしまって、明日もなお来年の命を活かす事を思ってしまって、仏法を学んでしまっては、幾万の劫、幾千の生、学んでも、叶えられると思えない。
また、そういう人も、いるであろう。
しかし、知られている、そのような心は、仏や祖師達の教えには無い、と思われる。
第五十二章
道元は、「夜話」で、次のように、話した。
未だ学ぶべき物が有る人である僧は、必ず、(肉体が)死んでしまう事を思うべきである道理は、もちろんなのである。
たとえ、その事を思わなくても、しばらく、まず、「時間をいたずらに無駄に過ごさない」と思って、何の役にも立たない事をして、いたずらに無駄に時間を過ごさず、意味が有る事をして時間を過ごすべきなのである。
その行うべき事の中でも、「一切の事のうち、どれが大切であるのか?」と言うと、「仏や祖師達の日常の所作以外は皆、何の役にも立たない」と知るべきである。
第五十三章
懐奘が、ある時、次のように、質問した。
僧の日常の所作で、古い破損した僧衣などを縫って補修して捨てなければ、物を貪って惜しむのに似てしまいます。
また、古い物を捨てて、新しい物を用いてしまえば、新しい物を貪って求めてしまう心が有る事に成ってしまいます。
両方共に、罪が有ります。
結局、どのように、用心するべきでしょうか?
道元は、次のように、答えた。
貪って古い物を惜しんだり、新しい物を求めたりする二つの心を離れれば、両方共に、過失は無いであろう。
ただし、破損した古い物を縫って永らえさせて、新しい物を貪らないのは、より善いであろうかなぁ。
第五十四章
懐奘が、道元による「夜話」のついでに、次のように質問した。
父母の恩に報いるなどの事は、するべきでしょうか?
道元は、示して、次のように、話した。
親孝行は最もするべき事なのである。
けれども、その親孝行には、在家信者と、出家者で別なのである。
在家信者は、「孝経」などの説を守って、親が生きている時も仕え、親が死んだ時も祭って仕えるべきである事は、世俗の人々は皆、知っている。
出家者は、(泣く泣く)恩を捨てて、「無為」、「消滅しない不変の絶対の真理」に入るので、出家者の作法では、恩に報いるのに、一人には限らず、一切の生者達を等しく「父母のように恩が深い」と思って、行っている善行を「法界」、「世界」に巡らせるのである。
別れておきながら、今の生の一生だけの父母だけに限ってしまえば、「無為の道」、「消滅しない不変の絶対の真理」に背いてしまう。
日々の仏道修行や、時々の学への参入で、ただ、仏道に従っていけば、それを真実の親孝行の手段とするのである。
忌日の追善、中陰の作善などは皆、在家信者が用いる事なのである。
ただし、僧は、父母の恩が深い事を、真実のように、知るべきである。
また、他の一切の生者達も、また、この父母のように恩が深い事を知るべきである。
別れておきながら、一日を占有させて特別に善行を修行したり、別れておきながら、一人だけを区別して功徳を譲ったりするのは、仏の心ではないかなぁ。
戒の経の父母や兄弟の死亡の日の文は、一時的に、在家信者に受けさせているかなぁ。
宋の時代の中国の寺の僧達には、師匠の忌日には儀式が有ったが、「父母の忌日には修行した」という記述は見られないのである。
第五十五章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
人の利発さや愚鈍さと言うのは、志が到らない時の事なのである。
世間の人が馬から落ちる時、未だ地面につかない間に、種々の思いが起きる。
身を損なったり命を失ったりするほどの一大事が出て来た時は、誰でも、才能や思いを巡らせるのである。
その時は、利発な才能の人も、愚鈍な才能の人も、同じく、物を思い、正義を思案するのである。
であれば、「今夜、死ぬかもしれないし、明日、死ぬかもしれない」と思って、嘆かわしい事に出会ったように思って、切に励まして、志を進めたら、悟りを得られるのである。
処世の智慧が聡明であるよりも、愚鈍な才能でも切なる志を起こす人のほうが、速やかに、悟りを得るのである。
釈迦牟尼仏が存命時の、周梨槃特は、一つの詩を読む事も難しかったが、根性が切であったので、一夏で、証を取った。
ただ、今だけ、自身の命は存在するのである。
「死ぬよりも先に、悟りを得よう」と切に思って仏法を学べば、皆、悟りを得るのである。
第五十六章
道元は、ある夜、僧達に示して、次のように、話した。
宋の時代の中国の禅院で、麦や米などを揃えて、悪い物を避け、善い物を取って飯などにする事が有った。
ある禅師が、「たとえ、私の頭を裂き破る事、七分割にしても、米を揃えるなかれ」という詩を作って、それを戒めた。
この言葉の意味は、僧は、食事などで整えて食べるなかれ、ただ、有るのに従って良ければ美味しく食べ、悪い物を嫌わずに食べるべきなのである、という事なのである。
ただ、在家信者からの布施や、清浄な寺の共有物によって、飢えを除き、命を支えて、仏道修行するだけなのである。
「味によって善悪を選ぶなかれ」と話しているのである。
今、私、道元の会の下の僧達も、この心が有るべきなのである。
第五十七章
ある人が、次のように、質問した。
未だ学ぶべき物が有る人である僧が、もし、「自身が仏法なのである。外に向かって求めるなかれ」と聞いて、深く、この言葉を信じて、従来の修行や参入していた学を捨てて、本性に任せて善業や悪業をして一生を過ごしたとしたら、このような見解は、どうなのでしょうか?
道元は、示して、次のように、話した。
未だ学ぶべき物が有る人である僧が、もし、「自身が仏法なのである。外に向かって求めるなかれ」と言って、修行を捨てて、学を捨てれば、「この捨てる行為によって(外に)求めている部分が有る」と聞こえるし、これは(外に)求めているのである。
ただ、「修行や学は、本より、仏法なのである」と証して、求める事無く、世俗の事や悪業などは、自分の心がしたくても、せず、仏道修行の怠惰を嫌って、顧みず、この修行によって一つの事だけに専念して修行して、仏道を成就しても結果を得ても自分の心から求める事無くして修行する事こそ、「外に向かって求めるなかれ」と言う道理に適うであろう。
南嶽の懐譲が瓦を磨いて鏡としようとしたのも、馬祖道一が仏に成る事を求めていたのを戒めたのである。
坐禅を制止した訳ではないのである。
坐禅は、仏に成るための修行なのである。
坐禅は、行為ではないのである。
自身の正体なのである。
この他に別に、仏法を求めるべき物は無いのである。
第五十八章
道元は、ある日、さらなる利益を請われたついでに、次のように、話した。
近代の僧侶は、多くが、「世俗に従うべきである」と話してしまう。
今、思うに、その通りではない。
世間の賢者ですらなお、民俗に従うのを「汚れている事」と言うし、屈原のような人は、「世俗の人々は挙って皆、酔っている。私、屈原は独り目覚めている」と言って、民俗に従わず、終には、滄浪で死没した。
(※
屈原が死んだ場所は滄浪ではない。
屈原には滄浪を歌った詩が有り、道元は、それと勘違いしてしまった。
)
まして、仏法は、ことごとく皆、世俗とは違うのである。
俗世の人々は髪を飾るが、僧は髪を剃る。
俗世の人々は多く食べるが、僧は一食だけ食べる。
皆、違うのである。
しかし、後に、(僧は、)かえって逆に、大いなる安楽の人と成るのである。
そのため、僧は、一切、世俗に背いているのである。
第五十九章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
治世の法では、上は天子から、下は庶民に到るまで、各々、皆、官位に居る者は、その務めを修行する。
相応しい人ではないのに官位に居るのを「天を乱す事」と言う。
政治の道理が天の神の心に適う時は、世は清らかに澄み、国民は安楽なのである。
そのため、皇帝は、真夜中の午前零時に起きて、治世の時間とした。
簡単ではない事なのである。
仏法も、ただ、職の違い、業の違いだけなのである。
国王が自ら思いはかって、政治の道理をはかり、先例を考え、道理が有る臣下を求めて、政治が天の神の心に適う時、これを治世と言うのである。
もし、これを怠れば、天の神に背いてしまうし、世が乱れて国民が苦しむのである。
その国王以下、諸々の役人、庶民には皆、各々の司る所の業が有る。
それに従う者を「人」と言うのである。
それに背く者は、天の神の事を乱すので、天の神からの刑罰を受けてしまうのである。
そのため、仏法の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、「世俗を離れ、家を出たから」と言って、いたずらに無駄に「身を安楽にしよう」と思う事は、片時も有るべきではない。
初めは、利益が有るのに似ているけれども、後には、大いに害が有るのである。
出家者の作法に従って、完全に、その務めを治め、その業を修行するべきなのである。
世間の治世では、先例や道理を考えて求めるが、先人の聖人や、先人の達人からの確かに伝えられている例が無ければ、自ら、その時の例に従う事も有るが、仏の子である仏の弟子である僧は、確かな先例や教えの文は明らかなのである。
また、伝えられて来ている善知識は現在も有るのである。
自分には思いはかりが有る。
歩いたり立ち止まったり座ったり横に成ったりする中において、一々、先例を思い、先人の達道者に従って、修行すると、真理を会得できる!
俗世の人は「天の神の心に適おう」と思い、僧は「仏の心に適おう」と思う。
修行が同じでも、得られる結果が優れていて、悟りという一つの物を得れば永遠に失わないし悟りの功徳を永遠に得られるのである。
このように大いに安楽であるため、一生、幻のような、この身を苦しめて、仏の心に従うかどうかは、ただ、修行者の心次第なのである。
「集中せずに身を苦しめない事をしなさい」と仏教では勧める事が無いのである。
戒律や所作に従っていけば、自然に、身も安楽に成るし、所作も普通に人目にも安楽に成るので、ただ、今、考え出した、自我に執着した狭い物の見方による身の安楽を捨てて、完全に仏による制度に従うべきなのである。
第六十章
道元は、また、次のように、話した。
私、道元が、宋の時代の中国の天童山の禅院にいた時、第五十祖の如浄は、宵には、午後十時四十八分まで坐禅し、午前一時から午前三時の間に起きて坐禅した。
私、道元は、如浄と共に、寺の僧堂の中で坐禅した。
一夜も怠らなかった。
その間、僧達の多くが眠ってしまった。
如浄は、巡って、眠ってしまっている僧を、あるいは、拳で打ち、あるいは、履物を脱いで打ち、辱め、勧めて、眠りから目覚めさせた。
僧達が、それでもなお眠ってしまう時は、如浄は、寺の照堂に行って鐘を打ち、行者を呼んでロウソクを灯すなどして、すぐに、次のように、僧達に説法した。
寺の僧堂の中に集まって居て、いたずらに無駄に、眠ってしまって、何の役に立つのか?
であれば、どうして、出家して寺に入ったのか?
見ないのか?
世間の帝王や役人のうち、誰が、身を安楽にしているのか?
君主は王道を治め、臣下は忠節を尽くし、庶民は田を開き鍬を取るが、誰が、安楽にして世を過ごしているというのか?
これを逃れて寺に入って、空しく時間を過ごして、結局、何の役に立つのか?
「生死は一大事なのである。この世のものの常の変化は迅速なのである」と禅宗以外も、禅宗も、同じく、勧めている。
今日の夕方や、明日の朝、どのような死を受けたり、どのような病を受けたりするのか分からない!
しばらく、存命している間に、仏法を修行せず、眠ってしまって横に成って空しく時間を過ごすのは、最も愚かなのである。
そのようなので、仏法は衰えて行くのである。
諸方で仏法が盛んであった時は、寺では皆、坐禅に専念していたのである。
近代、諸方で坐禅を勧めないので、仏法は衰えて行くのである。
このような道理によって、如浄が、僧達に勧めて坐禅させたのを、私、道元は、まのあたりにして見たのである。
今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、如浄の家風を思うべきである。
また、ある時、そばに仕えている者などが、「寺の僧堂内の僧達は、眠り疲れて、あるいは、病気が起こってしまい後退する心も起こしてしまうでしょう。これは、坐禅が長いためかもしれません。坐禅の時間を縮められたら、どうでしょうか?」と話したら、如浄は、次のように、話した。
そうではない。
悟りを求める心が無い者が、仮初に寺の僧堂に居れば、半時でもなお、片時でもなお、眠ってしまうであろう。
悟りを求める心が有って、修行の志が有る僧は、長ければ長いほど、いよいよ、喜び、修行するのである。
私、如浄が若かりし時、諸方の長老を見てまわっていたら、ある長老は、次のように、話していた。
「以前は、眠ってしまう僧を、拳が欠けてしまうほど打ったが、今は老いてしまって力が弱く成ってしまって、強く打つ事ができ得ないので、善い僧も出来てこないのである」
諸方の長老も坐禅を緩く勧めてしまうので、仏法は衰えているのである。
私、如浄は、いよいよ、打つべきなのである。
第六十一章
道元は、また、次のように、話した。
真理を会得するのは、心によって得るのか? 身によって得るのか?
禅宗以外などでも、「心身は唯一普遍絶対」と言って、身によって得るといえどもなお、「心身は唯一普遍絶対だからである」と言う。
であれば、まさしく、身が会得するかは、確かではない。
今、私、道元の家である仏教では、心身が、共に、会得するのである。
その中で、心だけで仏法をはかっている間は、幾万の劫、幾千の生でも、会得できない。
(従来の)心を捨てて、(従来の)知見や理解を捨てる時、会得できるのである。
霊雲志勤が桃の花という色形を見て心を明らめたのも、香厳の智閑が小石が竹に当たった音声を聞いて仏道を悟ったのも、なお、身が会得したのである。
であれば、真理を会得するのは、まさしく、身で会得するのである。
このため、「坐禅に専念するべきである」と思って、勧めているのである。




