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「夜熊さん、どうだったんだ?」
すっかり憔悴して意気消沈した俺たちが、無言のままラウンジに入ってくると、英介が食い気味にそう尋ねてきた。しかし、そこには期待を寄せている感じがしない。俺たちの表情を見て、聞かずとも予測はついていたのだろう。それでも聞かずにはいられない。そんな様子だった。
疲弊した俺たちは、わざわざその事実を告げることさえ億劫になっていた。
ただ、伏し目がちに力なく首を左右に振るだけだった。
「そんな……」
口元を押さえる片郷。湯木や結や晶も息を呑んだのがわかった。ただ一人、西之葉は表情一つ変えない――もとい、マスクのおかげで表情が全くわからない。しかし、見た目から動揺しているようには見えなかった。
「嘆いている暇はありません。とにかく、まずは事件の調査をするのが先決です」
挟丘が周囲だけでなく、自らを鼓舞するように力強く言う。
内心では未だにショックを吹っ切ることができていなかったが、俺もそれに倣って続いた。
「そうですね。まず、毒がテトロドトキシンだったことは間違いないと思います。問題はそれがいつ、どこに混入されたかですね」
「でも、それを一体どうやって調べたらいいんだろう。だってここには、警察の鑑識とかが使う特殊な装置だの道具だのなんて、ないんでしょう、自頭さん?」
「申し訳ございませんが……」
轟から向けられた視線に、頼りない返事を返す自頭。しかし毒があるかどうかだけなら、何もそんな特殊な機械を使う必要もない。
「毒が入っているかどうかは、あの水槽を使えばいいでしょう」
俺が指差したのは、バーカウンターの傍に置かれた水槽だった。
中には色とりどりの熱帯魚が、今俺たちが置かれている状況など知る由もなくゆったりと遊泳している。
「水槽……でございますか」
訝し気な顔を見せる自頭に、俺は説明した。
「ええ、夜熊さんが使っていた食器を、この中に入れてみるんです。まだ毒が付着していれば、中の魚に異変が現れるはずですから。……魚には悪いですが」
「で、ですが……」
おそらく黒峰の私物なのだろう。自頭は自分の一存でそれを許可できずに困惑している。
「いえ、こういう状況ですから」
「仕方のないことですわ」
煮え切らない態度の自頭の代わりに、結たちがそう言ってくれた。
「夜熊さんの使ってた食器は、誰も触ってないな?」
「ああ、お前に言われてちゃんとずっと見てたからな」
俺の問いに、英介がきっぱりとそう断言した。
「じゃあ、まずはこのカップからやってみましょう」
ハンカチを取り出し、布越しに慎重に、直前まで夜熊が飲んでいたコーヒーカップを手に取った。まだコーヒーが僅かに底にこびりついている。
それを、ゆっくりと水の中に入れていく。その状態のまま暫く待っていたのだが、中の魚はまるでお構いなしだ。突如天から現れた巨大な障害物をいとも容易く躱して泳ぎ続けている。
「変わりないですね」
「う~ん、そうなると、カップではないという事ですね。じゃあ、次にこの箸を……」
カップを取り出して、今度は夜熊が朝食に使用していた箸を手に取ろうとしたとき、
「あっ、見てください」
「魚が――」
水槽に向き直ると、ばたばたと身体全体をくねらせる熱帯魚。口をぱくぱくとさせているその姿が、夜熊の苦しみ悶えていた姿とリンクして、心苦しい思いにさせられた。
やがてその全てが力なく水面に浮かび上がってきた。もう微動だにしていない。
それを見て、俺は確信を持った。
「となると、やはり毒はコーヒーに含まれていたんですね」
「やはり……と言うと、もしかして末田さんは、ある程度予測がついていたということですか?」
挟丘に問われ、俺は頷きを返した。
「まあ、あの原稿に描かれていたのは、コーヒーカップを持った夜熊さんの姿でしたからね。おそらくそうではないかと思っていました。それに、朝食で使った箸や皿については、バイキング形式なだけあって自分で勝手に取るようになっていましたから、そこに毒を仕込むのはちょっと難しいと思いましたし」
「成程、確か夜熊さんは、砂糖やミルクなどは入れずに飲んでいましたね」
「ええ、スプーンが使われた形跡もないですから、毒はコーヒー自体か、コーヒーカップに塗布されていたか、そのいずれかでしょう」
殆ど挟丘と俺だけで話が進んでいってしまい、他の面々を置いてけぼりにしているような気がしていたが、やっとそこで轟が意見を述べた。
「コーヒー自体ってことはないんじゃないかい。もしそうだったら、おんなじポットから注がれたコーヒーを飲んでいた俺たちにだって、症状が出てるはずだろう」
「そうとは限らないと思います。例えば、あらかじめポットの口に毒を塗り付けておけば、毒は最初に注いだ人のコーヒーにだけ混ざって流れ落ち、後の人には普通のコーヒーが注がれるという寸法になります」
西之葉が珍しく饒舌である。彼女のトリックはどこかの推理小説で見たような記憶がある。しかし、今回はそれに当てはまらない。
「でも確か……、夜熊さんが最初にコーヒーを注がれたわけではなかったように思いますけど」
「そうですよ。最初に注がれたのは俺です。でも、なんともありませんよ」
と、轟が自分の身体を見せびらかすように手を広げた。
「では、こういうのはどうでしょう」
今度は西之葉に負けじと挟丘が自説を披露し始めた。
「コーヒーには最初から毒が入っていたけれど、砂糖やミルクにはその解毒剤が入っていたんです。砂糖やミルクを入れた人だけが中和されて助かるんです」
これもどこかで読んだことがある。だが、それもまた今回は該当しない。
「それは違いますよ。俺もブラックで飲んでましたし、何よりテトロドトキシンには解毒剤がありませんから、中和するのは無理です」
そう俺が否定すると、挟丘は説明には納得しつつも不満そうに引き下がった。
「確かに、その通りですね。しかしこうなると、ポットの中のコーヒーに毒が入っていたとは考えづらいですね。毒が付いていたのはコーヒーカップの可能性が高いかもしれません」
「ちょ、ちょっと待ってください」
水を差すように割って入ってきたのは新時だった。
「さっきから聞いていれば、毒はコーヒーかコーヒーカップに混入されていたんですよね? だったら、犯人はすぐにわかるじゃないですか」
厭な予感がした。しかもそれはすぐに的中した。
「自頭さん、あなたでしょう」
「は? わ、私が……ですか?」
新時に指摘された自頭は、きょとんとしている。年齢と共に刻まれた皺を湛えた厳めしい顔つきが、間の抜けた表情になる。
「そうとしか考えられないでしょう。惚けても無駄ですよ。夜熊さんはコーヒーカップが目の前に運ばれたときから、ずっとその傍にいました。そのカップに隙を見て他の誰かが毒を入れるなんて不可能でしょうに。でも、自頭さんだけは別です。彼はカップを夜熊さんの前に置き、そこにコーヒーを注ぎました。毒入りのカップを夜熊さんに渡せたのは、彼しかありえないではないですか」
新時がまたこのモードに入ってしまった。こうなるともう止まらない。破竹の勢いで捲し立てる新時に、自頭もたじたじである。
「そ、そんな……、わ、私はただ、旦那様の仰せのとおりに、皆様に食後のコーヒーを――」
「それですよ。自頭さんは黒峰先生に長年仕えてきた執事です。黒峰先生の共犯者として、先生に言われた通り夜熊さんに毒を盛ったんじゃないですか?」
「ち、違います。そのような恐ろしいことなど、旦那様に仰られたからとて、私は絶対に致しません!」
「どうですかね。信用したくても、状況が状況ですからね」
「そんな……」
自頭は完全に新時に言い負かされている。肩身を狭くして、困り果ててしまっていた。
仕方がないので、助け舟を出すことにする。
「待ってください新時さん、自頭さんが犯人と言うのは、あまりに安直すぎやしませんか?」
「どうしてです。安直も何も、そうとしか思えないじゃないですか」
ムッとした表情で邪魔するなと言いたげな新時。
面倒なことになってしまったが、一つ一つ説得していくことにしよう。
「まず、自頭さんが犯人だとすれば、どうして真っ先に疑いのかかるこんな方法を取ったのかという事が気になります。コーヒーの給仕係が自頭さんだというのは、決まっていたことなんでしょう?」
「はい、朝食後のコーヒーと昼食後の紅茶に関しては、全て私が取り仕切ることになっておりました」
自頭が即座に答える。
「だったら、こんなところで毒を盛ったりしたら、自分に疑いがかかるなんてすぐにわかることじゃないですか。せめてコーヒーを淹れるか、コーヒーを注ぐか、カップを配るか、これらの行動のうちのどれかは片郷さんに任せて、彼女にも嫌疑をかける余地を残しておくのが普通です。さらに言うと、疑われない様にするなら、それこそ部屋のドアノブに毒針を仕込んでおくとか、他にも方法はいくらでもあるはずです。なのに、敢えてこの方法を取る必要性がわかりません」
「そ、それは……」
俺の言っていることが理解できたのか、新時は急に自信が揺らいで言い淀む。
「それと、もしも自頭さんが黒峰さんの共犯者なら、夜熊さんに毒を盛った後に、まだこうして俺たちの前にいるのはおかしいと思うんです」
「ど、どうして?」
「だって、この方法だと真っ先に疑いが向くのは当然でしょう? それなのにこの場に留まるのは、危険すぎるじゃないですか。それだったら、第一の殺人以降姿を潜ませている黒峰さんに匿ってもらったほうがよっぽど安全でしょう。こんな閉鎖空間で、犯人だと確定されてしまったら、私刑が行われても不思議じゃないんですから」
「確かに……。でもそうなると、犯人は一体どうやって夜熊さんに毒を盛ったんだろう?」
英介が首を捻る。
そこだ。自頭が犯人でないなら、どんな方法で夜熊に毒コーヒーを飲ませられるのか。
「カップにあらかじめ毒が塗ってあったとしたらどうでしょうか。自頭さん、その可能性はありますか?」
そう訊いてみると、自頭はすんなり頷いた。
「充分にあったと思います。カップは必ず洗浄してから戸棚にしまいますので、わざわざ使う際にもう一度洗うことは致しませんから」
しかし納得のいっていない挟丘が反論する。
「でも夜熊さんのコーヒーカップに彼以外で触れたのは、自頭さん只一人です。カップを配るのもコーヒーを注いだのも彼一人のみです。そうなると、カップにあらかじめ毒が塗ってあったとしても、確実に夜熊さんの手元にそのカップが渡るかわかりません。いずれにせよ、到底無理な話じゃないですか」
「つまりこれって、あれですよね。ミステリーでよくある……ふ、不完全犯罪ってやつですね」
「それを言うなら不可能犯罪ね」
片郷の天然ボケに即座に湯木が突っ込みを入れた。
呆れて肩を竦めた挟丘が、そのやり取りは完全にスルーして挑むように尋ねてきた。
「……で、どうなんです、末田さん。さっきの新時さんの図書室騒ぎみたいに、さくっとわからないものですか?」
「正直言うと、まったく……」
またしても自分の不甲斐なさを実感させられた。
雉音に続いて、夜熊が殺された。夜熊に至っては、俺の目の前でだ。
その仇討がしたくとも、トリックさえ未だにわからないのだ。正直、夜熊の一件がまだ尾を引いていて、いっぱいいっぱいの有様だ。頭の中でまだ考えをまとめられていない。
もう少し冷静になって、それから一つ一つ考えていった方がいいだろう。
「となると、今断言できるのは、これからは食事も各自自己責任で準備するべきだということぐらいでしょうね」
挟丘のその言葉に、全員が賛成を示して、この場は一旦お開きとなった。
既に正午を回っていたが、あんな毒殺があったあとで誰も昼食にしようというものはおらず、殆どがすぐに自室に戻っていった。




