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まだ、夜熊はまだ、助かるかもしれない。
一縷の望みを残したまま、俺と姉妹はエレベーターでラウンジに向かった。
時間にして僅か数十秒。いつもならすぐ着いたと思える距離。だが今は、エレベーターの下降速度が急激に遅くなってしまったように長く感じた。まるでこのまま、延々と地獄の底まで下りていってしまうのではないかと言うほどに、長時間箱の中に乗っていたように思えた。
到着して扉が開くと同時に、俺は駈け出していた。
周りの視線などお構いなしに、ラウンジを真一文字に横切って、狭い廊下に突入する。鏡のある角を折れて、夜熊の部屋に文字通り飛び込んだ。
「どうですか、夜熊さんの様子は?」
ちょっと走っただけなのに、もう息が切れてしまった。日頃短距離でさえ走ることなど滅多にないが、それでもこれほど体力がないとは。情けなさを覚えつつも、ベッドの傍で夜熊に張り付いていた自頭と挟丘に尋ねた。
しかし、彼らは黙ったままだ。
それはそうだ。何もしないでよくなるはずがない。
だが、ベッドで横たわる夜熊の腹は、まだ上下に動いている。目も焦点は合っていないが開いている。瞬きもしている。希望はまだあった。
「色々調べてみたんですが、どうやら夜熊さんは、テトロドトキシンに中ったようです」
「テ、テト……?」
聞き馴染みのない言葉に、自頭が困惑する。白い眉毛を寄せて、怪訝な表情だ。
反対に、挟丘のほうはそれなりに知識があったようだ。
「テトロドトキシンと言うと、あのふぐ毒の成分ですね」
「ええ、そうです――」
俺は言いながら、持ってきた本のそのページを、ベッドの上に開いて置いた。
「見てください。テトロドトキシンは神経毒で、摂取してから早くてもおよそ二十分ほどで症状が現れ出します。致死量は成人男性でも数ミリグラムと非常に毒性が強い。その上、現在でも解毒剤が存在していない毒物です」
「で、では、夜熊様は……」
「いえ、待ってください。確かに毒性は強いんですが、ここ――」
早合点して結論付けようとする自頭を片手で制して、そのページのある一行をなぞった。
「素早く胃を洗浄するか、そうでなくとも、とにかく人工呼吸をすることで助かる可能性が高いとあります」
それでも自頭の顔は晴れない。
「ですが、館内に医療道具は、救急箱かAEDしかございません。とてもそんな、胃を洗う道具などは……。あったとて、私にはできません」
「俺にも胃洗浄なんて無理ですよ。とにかく人工呼吸するしかありませんね。新時さんや轟さんにも手伝ってもらって、交代でやりましょう。そうすれば、まだ夜熊さんは助かるかもしれません」
「そうですね。そうしましょう」
挟丘と共にラウンジに戻って新時と轟に協力を頼んでみると、思いのほかすんなりと承諾してもらえて、すぐに夜熊の救命活動に入ることができた。
だがこれまでその場の流れで偉そうに指示してきたものの、人工呼吸など保健の授業でやったのが最後だ。それだって、まさか本物の人間とやるはずもなく、ただの人形相手。
いざ夜熊と相対すると、尻込みしてしまっている自分がいることに気付く。
これから俺は、この人の生死に関わることに手を出すことになるのだ。
それを考えると手が震える。
それでも、習った内容を小声で諳んじながら、夜熊の首を擡げて気道を確保し、人工呼吸を施し始めた。
*
予想外に体力を使うもので、数分で順番に交代しながら何とか夜熊の生を繋げていく。
だが、異変は起こった。
「夜熊さん! 夜熊さん!」
唐突に挟丘の声が荒々しくなった。必死に夜熊に声をかけている。
その声に、休憩していた俺や轟も目の色を変えてベッドに駆け寄った。
「どうかしたんですか」
「夜熊さんが、目を開けてくれないんです」
「そんな……夜熊さん! 夜熊さん、聞こえますか!」
俺も大声張って呼びかけてみたが、一切の反応がなかった。
慌てて口元に耳を寄せてみるが、完全に呼吸が止まっている。その上――、
「脈が止まっています」
夜熊の首筋に指を当てていた挟丘が、血の気の引いた顔でそう告げた。
まずい、早く何とかしないと。
「自頭さん、AEDはあるんですよね。急いでそれをここに!」
「は、はい、かしこまりました」
風貌に似合わず俊敏な動きで部屋を飛び出していく自頭。だがここで彼の帰りをただ待っているわけにもいかない。
俺はすかさず心臓マッサージを始めた。
「目を開けてください! ほら、しっかりしてくださいよ!」
必死になって心臓を俺の手で動かし続ける。だが、夜熊の顔は皺ひとつ動かない。
全力で血液を送り続けるが、体力の限界は嫌でも訪れる。
だ、誰か……、代わりを……。
しかし、振り返っても皆既に唇を噛んだまま、項垂れてしまっている。
「末田さん……、もう……」
新時の消え入りそうな声。だが俺はそれで、はいそうですねと応じるわけにはいかない。俺が今ここで腕の動きを止めてしまったら、完全に夜熊は戻ってこれなくなるのだ。
「諦めるのは早いです。まだ何とかなるかもしれない」
もちろん、どこにもそんな根拠なんてない。もしかしたら、万が一にも、夜熊がまた目を開いてくれるかもしれない。俺を動かしていたのは、そんな吹けば消し飛びそうな淡い期待、願い、祈りだった。
「お、お待たせいたしました」
いつもとは違い、扉を荒々しく開けてやっと自頭がAEDを持ってきた。礼を言うのも失念して、かっぱらうようにそれを受け取ると急いで起動させる。
場違いなほどにのらりくらりと喋り始める音声に苛々させられながらも、その指示通りに夜熊に電極を貼り付けた。
――ピイイイ、バンッ。
充電終了の合図と同時にボタンを押すと、夜熊の身体が弾かれたようにベッドの上で跳ねた。スプリングが軋む。だが、そんな電流を浴びてもなお、彼の目は覚めない。深い眠りに就いてしまったように。
もう一度、もう一度だ。
――ピイイイ、バンッ。
――ピイイイ、バンッ。
繰り返される充電と放出。しかし、エネルギーをどれだけ費やしても、夜熊を此岸に引き戻せない。AEDの音とベッドのスプリングが軋む音だけが、虚しく室内に響くだけだった。
「末田さん……、もう、止めましょう」
挟丘が肩を掴んで止めに入った。
「でも……」
「それ以上は、夜熊さんが可哀想ですよ。もう、安らかに眠らせてあげましょう」
反論しかけた俺に、挟丘が静かに首を横に振る。
そうかもしれない。今の俺は、現実を受け入れられずに、無為に夜熊を痛めつけているだけなのかもしれない。
何かに憑かれていた様に張っていた全身の力が、すうと霧散した。AEDから指が離れる。
彼の亡骸を前にして、呆然と立ち尽くすばかりの俺。
己の無力さを呪った。
もっと早く、毒を特定できていたら。いや、そもそも俺が事前に毒の知識を持っていたら。
夜熊は助かったかもしれないのだ。
たらればを言っても仕方がない。目の前にあるこれが現実だ。
理性はそれを理解しているが、感情が受け入れられていない。
悔しさに両手が震えた。目頭が熱くなる。
「末田さん、ラウンジに戻ろう」
挟丘が肩に手をかけた。
静かに頷きを返し、俺は袖で目元に滲んだものを拭った。だが、腹の中に横たわったどっしりとした重みのような感情までは払拭できなかった。




