長屋の日常
初夏の日差しがまぶしい朝。草履をつっかけて長屋の表に出た吉花は、風呂敷包みを抱えた辰姫と鉢合わせた。
「おはようございます、お辰さん。運ぶの手伝いましょうか?」
「おはよ、吉花。仕事休み?」
あいさつをすれば、朝が弱い辰姫にしては珍しく元気な答えが返ってくる。
「はい。きょうはお休みをいただいてます」
「用事ある?」
「いいえ、特には」
吉花の返事に辰姫はにぱっと笑った。
かと思うと、辰姫は腕の荷物を吉花にどさりと渡してくる。
とっさに受け止めた風呂敷包みは、見た目の大きさのわりに重さはない。なんだろう、と吉花はこてりと首をかしげた。
「あそぶ!」
辰姫の元気な声に吉花が目をぱちくりさせたとき。
「黄場、それでわかるやつなんざ居やしねえぞ」
呆れたような声とともに姿を現したのは、赤塚だ。その後ろには水内の姿もある。
「あなたは親しい相手ほど、ことばを減らす傾向がありますね。おそらく、わかってくれるだろうという信頼とこのひとならば許してくれるという甘えがそうさせるのでしょう。かく言う僕も古参の眼鏡使用者に商品の説明をする際に、つい説明を怠ってしまうことがありますから、今後気をつけていきたいものです」
さわやかな顔に似合わない江戸風の眼鏡–––ツルがひもでできた顔に密着する型の丸眼鏡–––を装着した水内のくちは、今日も朝からよく回る。
赤塚はそのことばの多さに辟易とした顔をするが、言われた当人の辰姫はまったく気にするそぶりもなく吉花の背を押して長屋の前に置かれた縁台に連れて行く。
「吉花、あけて」
辰姫が縁台をぱしぱしと叩くので、吉花はふたたび首をかしげた。
そこへ、後ろから手が伸びてきて、吉花の腕の荷物がひょいと持ち上げられる。
「だーかーら、ことばが足りねえって言ってんだろ。わからいでか」
取り上げた荷物を縁台に赤塚は、辰姫にぶつぶつ言いながら風呂敷をほどいていく。
風呂敷が広げられると、中からはいろいろなものがごちゃりと姿を現した。
「わあ! 凧に羽子板、独楽もある! おもちゃの詰め合わせですか?」
吉花の視線がとらえたのは、雑多なもののなかにまぎれた見覚えのあるおもちゃだ。
思わず声をはずませた吉花に応えたのは、大家の家から出てきたヨルだった。
「昨今でこそ凧と呼ばれるが、江戸のころには『いかのぼり』と呼ばれていたそうな」
「たこじゃなくて、いかですか……?」
目をぱちぱちとさせる吉花の前に、風呂敷から凧、もとい『いかのぼり』がかざされた。
つまんでいるのは、ヨルの後ろからぺたぺたと草履を鳴らしてやってきた大家の田谷だ。
「形がいかっぽいでしょ?」
「たしかに……」
言われて見れば、紙と竹ひごで作られた本体の下部にひらひらが付いている姿は、いかに見えなくもない。
どうしていかだったのが、いまではたこなのだろう。吉花が抱いた疑問をくちにする前に、ヨルがおもちゃのひとつを手に取った。
「それを言うならば、羽子板は元は厄払いのためのもの」
「鞠も、縁起物」
吉花の横に立った辰姫が、華やかな和柄のボールを指差す。
そのまま、やれこれは双六だ、やれあやとりの紐だとわいわいがやがや盛り上がっていた一同だが、吉花はふと首をかしげた。
「こんなにたくさんのおもちゃ、どうしたんですか?」
辰姫だけなら遊ぶために持ってきた、と言われてもうなずけるが、それぞれに仕事を持っているはずの長屋の面子が勢ぞろいしている。そのうえ基本的に家から出てこない田谷までいるとなると、何か事情がありそうだ。
そう思って問いかけた吉花に、田谷が面倒くさそうにおもちゃをつつきながら話し出した。
「それがさあ、吉花ちゃん。このところ妖怪騒ぎがないからってさあ。この町で流行りそうな江戸の遊びを考えろなんて、観光協会から渡されたんだよ。こんなの大家の仕事じゃないと思わない?」
「うーん、でも田谷さんはかっこいいですから。田谷さんが楽しそうに遊んでたら、町のみんなや観光客さんたちもやってみたくなるかもしれません!」
出来れば家でごろごろしていたい田谷の意図を汲まずに、吉花はぎゅっと握りこぶしを作る。
すると、田谷はうれしそうに髪をかきあげた。
「そう? 俺ってば着物も似合うし、古き良きおもちゃとの相性も良いのかなあ? どれがいちばん、似合うと思う?」
褒められて表情を変えた田谷に誘いをかけたのは辰姫だ。
「姉様人形でままごと!」
「いいえ、ここはあやとり一択でしょう」
そう言いながら水内は、眼鏡をずり上げる仕草をする。紐で固定しているからずり落ちはしないのに、くせになっているらしい。
室内遊びを提案するふたりに異を唱えたのは赤塚だ。
「せっかくお天道さまが張り切ってんだ。外で遊ぼうぜぃ。鞠を蹴とばせる広場なんざ、どこかに無かったっけな」
「広場ならばいかのぼりもできよう」
凧を抱えたヨルがうなずいたとき。
「あ、これなら家のなかで体も動かせますよ」
吉花がつまみあげたのは、紙風船。
華やかな色合いに懐かしさを覚えていると。
「残念ながら、紙風船は江戸にはないんだよ」
表通りにつながる木戸をくぐって、葉月がやってきた。
「葉月さん! 紙風船って、昔からのおもちゃじゃないんですか?」
ぱっと顔を輝かせた吉花がふしぎそうに言うのに、葉月はうなずいた。
「歴史はあるけれど、できたのは明治らしいよ。誰かが間違えて入れてしまったんだね。言っておかなきゃな」
吉花の手から紙風船を取り上げた葉月は、代わりにちいさな陶器と短く切られた植物の茎を吉花に持たせた。
「これは……?」
「しゃぼん玉だよ。吉花さんに似合う気がして」
言いながら、葉月は吉花に吹いてみるよう促す。素直に茎をくわえた吉花は、空に浮かんだしゃぼんの玉に歓声をあげた。
「わあ! 江戸時代にもしゃぼん玉、あったんですね」
「サボン売りってね、もうすこし暑くなってくると売り歩くようになるよ」
「玉屋〜、玉屋〜って言うのが聞こえたら、そいつがしゃぼん売りだな」
葉月のことばに赤塚が付け足す。
空を飛んでいくしゃぼん玉を見上げていた辰姫は、顔を戻すなり吉花の手を取った。
「吉花! いっしょにしゃぼん」
けれど皆まで言わせずに、辰姫の横に移動したヨルが辰姫の手をはずし吉花から遠ざける。
「おうおう、野暮なことするんじゃねえや。たまにゃあ二人っきりにしてやろうじゃねえか」
「あなたには僕が、あやとりで出来る眼鏡という素晴らしい技を教えて差し上げます」
「ほらほらぁ、いまのうちに行ってらっしゃい。ごゆっくり〜」
赤塚と水内の援護を受け、田谷に見送られた葉月は吉花の手を取り表通りに歩き出した。
「あの、葉月さん? みなさんが来てないみたいなんですけど」
おろおろと振り返りながら歩く吉花の手を引きながら、葉月はにっこりと笑う。
「たまには、俺とふたりで遊んでほしいな」
「ふたりで……?」
「そう、逢引しましょう」
笑顔のままつげられたことばに、吉花は声もなく真っ赤になった。
葉月がときおりぶつけてくる直接的な表現に、吉花はまだまだ慣れていない。
けれど、顔を赤くしたままおずおずと葉月の手に指を伸ばす。
それを見逃さず捕まえた葉月とふたり、吉花はさわやかな風が吹く通りに繰り出していくのだった。