第38回 (最終回)周泰、その後
周泰は、武昌太守としての役目を果たしていた。
そして、時代が少しずつ、動き出した。
曹操は「魏王」を名乗り、それに対抗するかのように、劉備が「漢中王」を名乗った。劉備は関羽に「節鉞」を与え、荊州の全ての事を関羽に一任した。
すると関羽は、曹操領である襄陽と樊城に同時攻撃を仕掛けた。曹操は「于禁」と「龐徳」を応援に派遣したが、大雨で漢水が反乱し、曹操軍は水浸しとなり、身動きが取れなくなった。
宿将と言ってもいい于禁は降伏し、仕えてそれほど間もない龐徳は義を貫いて戦死した。曹操軍の惨敗である。
曹操は関羽を恐れ、許都の遷都まで真剣に考えたが、ここで「司馬懿」が進言をする。
「関羽が強大になるのは、孫権も歓迎しないでしょう。ここは、孫呉をこちらに取り込むべき、動く時です。」
孫権は大いに迷ったが、結局、曹操の申し出を受け入れ、関羽を裏切り、その背後を突いたのである。
既に亡くなった魯粛の後継者である呂蒙の活躍により、公安と江陵は一夜にして陥落し、関羽軍は完全に孤立してしまった。
そして「麦城」に籠るも、援軍の当てもなく、脱出したところを孫呉の兵に捕らえられ、とうとう斬られた。
この戦いにおいて、周泰は前線に出動することなく、荊州北部の封鎖や兵站の維持につとめていた。こういった「日陰」の仕事をしっかりできるのが周泰の素晴らしいところである。
しかし、周泰の体に異変が生じつつあった。この頃から、少しずつ、体調を崩すことが多くなったのである。
この翌年、曹操が亡くなった。享年六六歳であった。
とうとう、時代を大いに動かした巨星の一つが堕ちたのである。
関羽を失った劉備は、孫呉にその怒りの矛先を向ける。
西暦二二二年、「夷陵の戦い」である。
この時呂蒙は既に亡くなっており、その後継者「陸遜」が大都督として、この戦を制した。
この戦いの時も、周泰の体調不良は治らなかったが、引き続き、国境の警備、兵站などの任務を行った。
曹操の後を継いだ曹丕は、すでに漢の最後の皇帝献帝から禅譲を受けて、文帝となっていた。文帝は、すぐに孫呉に攻め込んできたが、ここは孫呉が踏みとどまり、守り通した。
そして西暦二二三年。もう一つの巨星が堕ちた。
夷陵の敗戦後、重病であった劉備が亡くなった。享年、六三歳であった。
同年、周泰の体調不良は、ここに極まった。
「もう長くはない」
孫権に、報せが入った。
いてもたってもいられなくなった孫権は、周泰を見舞うことにした。孫権が言う。
「腕の良い医者を今集めている。今しばし、頑張れ。」
「・・・ありがとうございます。しかし、自分の体は自分が一番わかるもの。私の命は間もなくです。」
「何を言うか!そなたは、私の盾であろう。」
「その役目は、今や立派に義封殿がつとめておりましょう。」
「私が心を許し、話が出来たのはお前だけだ、幼平。私をおいて先に逝くではない!」
「私も、出来る事ならお側でお仕えしたいのですが・・・。」
「それならそうせよ!武昌太守は今日でおしまいだ。明日より、我が近侍として働くがよいぞ。」
「・・・。ありがたき幸せでございます。この様な方にお仕えできたことが、わが生涯、最大の喜びです。」
「まだ、働いてもらわねば困るぞ、幼平!」
「・・・。」
「幼平!」
「・・・。」
「幼平!幼平!」
孫権がいくら呼びかけても、周泰はもう返事をすることは無かった。孫策の時代より、長く仕えてきた忠義の名臣、周泰の命の炎は消えたのである。享年五一歳であった。
■おわりに
周泰は、孫呉の武将の中では一番好きなので書きました。
本当は、もう少し長い予定でしたが、時代の転換点の経過を示して、静かに消えゆくように亡くなる方が私の思う周泰像には合っていると思いましたので、これにて終わりとさせて頂きます。
最後までお読みいただいた方、本当にありがとうございます、心より感謝いたします。
涼風 隼人
■参考文献
・歴史群像シリーズ⑰三国志上巻⑱三国志下巻(学研)
・世界史劇場 正史三國志 神野正史(ベル出版)
・地図でスッと頭に入る三国志 渡邉義浩(昭文社)
・「三国志」の政治と思想 渡邉義浩(講談社選書メチエ)
・正史 三国志1~8 陳寿・今鷹真・井波律子・小南一郎
(ちくま学芸文庫)
■参考情報(インターネット掲載情報)
・ウイキペディア
・三国志人物伝
・今日も三国志日和
・もっと知りたい!三国志
・後漢と三国
・歴史の史実研究所
・歴史の読み物
・歴史人
・三国志(演技)のあらすじと登場人物から三国志の魅力と人気を探る
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