◆1983年9月25日
〈ママ?〉
グレン&グレンダ社の本社ビル最上階で昨日の映像を再視聴していたビッグ・マザーに電話を掛けてきたのは、彼女にとっては意外な人物だった。
〈ごめん、忙しかった?〉
「ノエルちゃん……!」
狼狽えつつ映像を止めたビッグ・マザーはいつもとは打って変わって、緊張と不安が複雑に入り混じった表情を浮かべる。
「ノエルちゃん、わ、私はね……」
何故なら、まるで別人のように弱々しい口調で言葉を紡ごうとする母親は娘に憎まれていると思っていたからだ。ノエルが何を考え、何をしているかの情報は隠居中も逐次入っていた。それは精査するまでもなく、自分に対する悪い感情が根底にあるとしか考えられなかった。だから今回ノエルのために諸々根回しこそ進めはしたが、直接的なやり取りは行っていない。怖かったのだ。
〈ありがとう〉
だが受話器の向こう側から聞こえてきたのは罵声でも怒声でもなく、心からの感謝の言葉。
〈エリーを想う私の気持ちは本物だって、今回改めてわかった〉
「そっか……そっか……!」
続く言葉を聞いた時、ビッグ・マザーの心に温かみが広がった。緊張と不安が押し流されていく。心の中で溶けたものが、涙となって目尻から零れていく。
「駄目なママで、本当にごめ——」
〈私のママは世界一のお母さんだよ〉
ビッグ・マザーが喉の奥からどうにかして気持ちを捻り出す前に、はっきりとノエルはそう言い切った。
〈ママは誰よりも私のことを好きでいてくれるから。私は、そんなママのことが誰よりも好き。ママの気持ちはちゃんと通じてるよ。だからママは、もう自分で自分を苦しめないで〉
更なる言葉も、ノエルの本心からのものだった。そしてこれは『自分も誰かに愛してもらいたい』という、ビッグ・マザーの根底にある欲求を溢れんばかりに満たす水でもあった。
〈誰かを好きになることを、ママはそんなに怖がらなくてもいい〉
「ありがとう」
全く同じ声で全く同じ感謝の言葉を娘に返したビッグ・マザーは、近いうちに直接会おうと約束して通話を終えた後、天井を見上げて大きく息を吐いた。人に対する絶望を今すぐ捨てるのは無理だし、前向きな感情に変えることも恐らくは不可能だろう。
でも、もう一度だけ——ビッグ・マザーは信じてみようと思った。
こんな自分でも愛してくれる人がいるのだ。
そして、こんな自分でも人を愛せるのだから。
◆
「なんだろう……? 話したこと、ある気がする……」
司令センターの執務室で一人事後処理をしていたエーリヒは、ふと手を止めて窓外を見た。机上には、先日撮影されたキャロラインの写真がある。
「凄く仲が良かったような……そんな気もする……」
◆
「ただーいマンボウ」
米国フロント某所にある隠れ家に一人戻ったキャロラインは、まだ残っている右手で部屋の電気を点けた。
「ああ……今日も荘厳な……」
義手は失われたまま。頭に包帯を巻き、頬にもガーゼを貼ったキャロラインの前に現れたのは、信じ難いことに裸で抱き合うエーリヒとノエルの盗撮写真。
それだけではない……。
キャロラインがBFから秘密裏に回収したノエルの肉体の一部が、ホルマリン漬けにされて棚の一角を占拠してもいた。
「無能非才の身、お二人のためならば喜んでお捧げ致します」
キャロライン兵団の団長——それはキャロラインの表の顔に過ぎない。彼女の正体はエーリヒとノエルのためならば、喜んで二人の敵と化す狂信者なのだ。
「幻肢痛が痛む……貴方に奪われた左腕の……」
エーリヒは以前、RPG‐7でキャロラインの左腕を吹き飛ばした。それ以来彼女は幻肢痛に苦しむ度、彼に対する感情の強まりを覚えている。
「ご威光、今回も私には眩し過ぎるものでした……」
一方ノエルはキャロラインにとっての邪神だ。どれだけ破壊されても再生する存在は、天国行きを拒まれた愛おしい上位存在としか思えなかった。
「お二人は成熟したジェファーソン式民主主義の貴重な成功例なのです。どうか私を失望させないで……もしも貴方達がそれぞれ別の相手と交わったら、大罪を逃れることが確実なら……二人共私が殺します」
壁一面に引き伸ばされている盗撮写真の前で跪いたキャロラインは、ビッグ・マザーがわざわざ舞台を用意してまで愛娘に『愛の確認』と『それによる幸福の獲得』を仕組んでいるという情報を独自のルートで掴んだ時、強烈な売り込みを仕掛けて見事役を勝ち取った。
プランA……エーリヒに対する感情を揺さぶる。
プランB……戦闘でエーリヒを襲い、ノエルの本気を引き出す。
今回この二つを滞りなく遂行した団長は端から勝つ気はなかった。勝つための算段すら何一つ立てていなかった。どれだけ手足を切り落としても、何度顔面を破壊してもノエルには大して効果はない。
「役割とはいえ貴方に傷を負わせてしまったこと、深くお詫び申し上げます」
しかし、ここ数日で彼女は両手でも数え切れぬ程に無駄を繰り返した。理由は極めて単純である……戦闘を長引かせてノエルと会話するためには、それこそが最善の方法だったからだ。
『あらゆる分裂的性格を腹の中に持ち歩く』
現代ロシア人はしばしばそんな風に評されるが、キャロラインのグロテスクな内面はそれとは比較にならない。完全に相反する二つの考え、つまり二重思考に基づいて動く狂人なのだ。このことはサディークである部下も知らない。つまり彼女はニード・トゥ・ノウの原則の最悪例なのである。
「お二人は私のことを覚えてらっしゃらない。でも、それで良いのです」
更に言うと、キャロラインはかつての二人と深い親交を持っていた。ノエルが理解できないリクエストの見返りに行っていた、タスクフォース・リガの口座に対する定期的な入金——ビッグ・マザーからの小遣いを丸々転用したもの——をグリャーズヌイ特別区壊滅後に管理していたのは他ならぬ彼女である。
「私など、お二人に比べたらゴキブリも同然の輩なのですから……」
ただエーリヒは復活する時の復元が不完全だったのか、生前に推し進めていた戦争の民営化や歪んだ性癖と共にキャロライン絡みの記憶が欠落、ノエルもまた十五年に及ぶ凍結の中で諸々忘却してしまったらしい。まあそんなことは些細な問題だし、タスクフォース・リガの金には手を付けず今も管理している訳だが。
「もっともっと幸せになってください。私も引き続き努力致します」
やがてビッグ・マザーからの封筒を開けたキャロラインは、厚い報告書の中にエーリヒとノエルが熱い接吻を交わしている写真を確認。改めて任務完了だ。
「さあ!」
だから核物質を扱うかのような丁寧さでそれをファイリングすると、上機嫌で台所に向かい防弾・防爆の特別仕様となっている冷凍庫から氷漬け状態の肉塊を取り出した。
「今日はお祝いよ!」
無論北京農園のフムス宜しく食うために。これは、人間時代の初代エーリヒと戦場で回収したノエルの肉を混ぜて作った特製ハンバーグであった。
終劇




