孤独の森
揖斐、黒谷の怪死事件はやはり人外の仕業だった。
討伐に挑んだ池鯉鮒衆に対し、「一声呼び」は巧みに恐怖を掻き立て、姿を見せることなく襲い来る。
栄吉と庸司がすでに犠牲となり、残るは雲二郎ひとり。
暗い森の中で孤独に押しつぶされそうになる中、さらに深い霧が視覚を、木々の騒めきが聴覚を遮る。
声がする…いや、正確には雲二郎の意識に直接語り掛けてくる。
「怖いか…」
怖くないはずが無い。
ただでさえ気味の悪い森の夜、薄ら寒い風が吹く中で道に迷い、得体の知れないモノノケに仲間が二人も殺されたのだから。
よく判っている。
次は自分の番。
にわかに騒めきだした森の木々。
逃げ出そうにもどっちに向かえばいいか、道すら見えない。
「怖いよ。怖くてたまらない…」
目を閉じてそのまま眠ってしまえば、実は何事も無かったかのように平和な朝が来るんじゃないか、などと思ってみたりする。
いや、これ以上の恐怖を与えられ続けるくらいなら、もう助かる見込みが無いのなら、さっさとひと思いに…とさえ考えてしまいそうだ。
「うっ」
急に背中に重くのしかかるような気配。
振り向いた雲二郎は大きな影が迫ってくるのを見た。長い角、大きな口に鋭い牙。覆いかぶさるように襲ってきた。
「うああっ」
弱気な心とは裏腹に、身体は無意識に反応していた。
踏ん張った左足を軸に、刀を抜きながら体躯を右に捻る。
霧の水滴の粒子まで切り裂くように、切っ先の軌跡が円を描いた。
「ぎゃううっ」
ボトリ、と落ちた首。
みずぼらしい野犬の首。
「な、なんだ…さっきは確かに大きな、鬼のような…」
急に辺りの景色が真っ赤に染まった。
四方から縄が飛んできて雲二郎をぐるぐる巻きに。
「う、ううっ」
身動き出来ない雲二郎に向かって、巨大な怪物が迫ってくる。
真っ赤な背景に浮かび上がる大きくて黒い影。ずんぐりした胴体、剛毛に覆われた何本もの手がうねうねと不規則に動き口からダラダラと垂れる涎は触れたものをドロドロに溶かしてしまう。
「何だ、何者だっ」
暗闇に光る四つの眼は雲二郎の身体中を嘗め回すように見ている。大きな口がゆっくりと開いた。その奥からは無数の悲鳴。栄吉の声も、庸司の声も聞こえてくる。
「た、た、助けて…助けてええっ」
たまらず雲二郎は目を閉じて泣き叫んだ。
「……」
フッと胸の上に圧し掛かっていた重みのようなものが、波が引くように消えた。恐る恐る目を開くと、赤いカーテンは消え、元どおりの景色。
「こ、これ…?」
鼻先には小さな地蜘蛛が乗っかっていた。
「げ、幻影か…?」
顔がびしょ濡れなのは霧の水滴のせいではない。もう背中まで冷や汗でびっしょりだ。
「うひっ、ひひひひっ」
背後で笑い声。
「お前かっ」
振り向いた雲二郎に女が近づいてくる。
暗がりの中、両襟はすっかりはだけて胸も露わにフラフラと近づいてくる。両手に何かを持ち、けたたましく笑いながらそれを投げつけて来る。
「ううっ」
巨大なナメクジ。顔面に張り付いて粘液まみれの身体をくねらせる。
「ええいっ」
叩くように振り落としながら、女に迫る。
「お前…お前が妖怪・一声呼びかっ」
抜いた刀が脳天をとらえた、その瞬間パッと光が差したように女の顔が照らされた。
「お…お洋っ」
しかし、振り下ろした刀身は止まらない。
もの寂しげな表情のお洋は雲二郎の刀によって真っ二つに切り裂かれた。粘っこい血液が一面に撒き散らされる。
「そんな、まさかっ」
左右に切り裂かれたお洋の断片が、地面の枯れ葉にまみれながら泣いている。思わず膝を落として抱きかかえた。
「あ、ああっ…なんだ、なんだこれ?」
真っ二つに割れた朽木に抱きついていたことに気付いた。
顔に手にべっとりと付着していたのは、返り血ではなく樹液。
「狂ってる…」
全身が震え出した。
「この森が狂ってるのか…俺が狂ってしまったのか」
見るもの全てが普通じゃない。
雲二郎はたまらず走り出した。どっちでもいい、とにかくここを離れたい。
「ハッ、ハッ」
痛いほどの鼓動は自身の胸を突き破ってしまいそう。
どれだけ走っただろう。ふと明かりが見えた。提灯だ。
「誰かいる…地の人か。あの、すみません。道に迷ってしまって」
「私も道に、迷ってしまっているんです…」
提灯を掲げた女が振り返った。
雲二郎は腰を抜かしたように尻もちをついて声を上げた。
「うあああっ」
また、お洋だ。
目から、鼻から、口や耳からも血を流している。
「私は誰のもの? どこに行けばいいの…?」
近づくお洋、見るとその足は腐って骨だけになっている。
「来るな、来るなっ…」
「私は…あなたの元に行くべきだった」
突然、身体中の穴という穴から大量の血液が噴き出して雲二郎にまとわりついた。
「うぐっ、溺れる、溺れる…」
闇雲に刀を振り回す。
駄々っ子のようにジタバタしているうちにフッとまた気配が消えた。気付くと雲二郎は、小さな湧き水に自ら頭を突っ込んでいた。
「俺は一体どうしちまったんだ…」
眼球までも震え、足のガクガクが止まらない。
「あ、あれ…」
たまあず座り込んだ雲二郎は、見上げた木の枝に西瓜のような果物が幾つもなっているのを見つけた。
「見たことがない…あんな果物は」
みずみずしい光沢、甘い匂いが漂ってくる。
「そうだ…山に来てから何にも食べてないじゃないか。だからこんな変な幻影を見ちまうんだ」
気を取り直して立ち上がり、果実に手を伸ばす。
「あ…あっ」
スッと血の気が引く。
「また、まただ…」
木にぶら下がっているのはすべて、お洋の生首だった。
一つ一つが悲しい目をして雲二郎を見下ろし、やがてそれぞれが喋りだした。
「役立たず…ごくつぶしの雲二郎」
「何をやっても兄貴に敵わない、お荷物」
「雲二郎がドジを踏んだせいで何人も仲間が死んだ…」
思わず耳を塞いだ。
「やめろ、やめろおっ」
しかし言葉は残響のように雲二郎の耳から頭の中へ突き刺さってくる。
「お前は、愛されるに値しない男」
「うあああっ、うあっ。ああっ。あああっ」
自分への責めを振り払うように、ただひたすら刀を振り回した。
「くそっ、くそおっ。こんなものっ」
ボトリ、ボトリ、と一つずつお洋の生首が地面に落ちて転がる。
「ふふふふ…」
笑いながら生首はこげ茶色に変色して腐敗してゆく。その眼窩から、鼻腔から、口腔から無数の蟲が飛び出して雲二郎にまとわりつく。
「何だ今度は、蜂か、虻かっ」
たまらず走って逃げ出した。
霧と騒めきに包まれた黒い森。走っても走っても出口が見えることはない。絶望の中、走り着かれた雲二郎は倒れるように木陰に潜り込んだ。
「もういやだ…こんなの、もうたくさんだ」
また、あの風が吹いてきた。身体の中から冷たく凍らせるような風。
「ふふふふ・・・」
そしてあの声。脳の内側に直接響くような。
「そうだな…もうお終いにしょうか…死ねば、楽になる」
こんなところで誰にも知られないまま、腐敗した骸になってしまうのか。
悔しいけれど、恐怖に足も心もすくんで身動きできない。息をするのだって苦しいくらい。
「うっ、ううっ…」
何故だか、涙があふれてきた。
「ハア、ハア、ハア…」
妙に呼吸は早く浅くなる。
また声が聞こえてきた。
「おおい」
何処に逃げても無駄だというのか。
「おおい」
だが今までの声と違う…聞き覚えがある声。
「おおい、雲二郎」
・・・仙太郎だ、間違いない。この太くて力強くて温かい声は。
「おおいっ、雲っ」
まるで長い間会っていなかったような、懐かしさを感じる。その声の頼もしさにフッと心がほどけるように思えた。
雲二郎は立ち上がり、大声で答えた。
「おおいっ」
ひゅうっ、と冷たい風。
胸の中を全部凍らせて過ぎ去ってゆくような、あの風。
霧の中に人影が浮かび上がった。
「ふふふ、答えたな、お前」
だが、それは仙太郎ではなかった。
「一声で答えたな…」
(この声…聞き覚えのある声だ…)
すぐには思い出せない。だが確かにこの声、前にも聞いた気がする。
「一声で答えたからには雲二郎、もはや命は無い…」
辺りの空気が急激に密度を増したような、息苦しい重さに包まれた。
つづく




