見えざる恐怖
人外の関与が懸念される山中の連続怪死事件を解決するため揖斐、黒谷を目指して山に入った池鯉鮒衆の雲二郎と栄吉、庸司の三人は道に迷ってしまった。
はぐれた栄吉は、何者かの呼び声に答えた直後に絶命、あまりに穏やかなその死に顔に、人外の仕業であると雲二郎は確信した。
そして再び謎の呼び声。
「おおい…おおい…」
声は明らかに、雲二郎と庸司の二人に向けられている。
「あいつが…あいつが栄吉を…」
雲二郎はぐっと眉間に皺をよせ、スッと立ち上がった。
「おお…」
謎の呼び声に答えようとした雲二郎の背後で、庸司がハッと思い出したように青ざめた。
「ダメだっ」
すぐさま慌てたように雲二郎の口を塞ぐ。
「ダメだっ。答えちゃダメなんだっ」
「な、なんだ庸司っ?」
「とにかく答えちゃダメっ。判ったよ雲さん」
身を隠すように座り込んだ二人。庸司は声を険しい表情で語った。
「思い出したんですよ。あいつは一声呼び。妖怪、一声呼び」
「な、なんだそりゃ。訊いた事ないぞ」
「今思い出したんです。俺の実家はこの山の麓の刃物商なんですが、猟師やら案内人やら山の連中が出入りしてて。彼らが言うんです。『一声呼び』には絶対返事をするな、と」
「山の妖怪、一声呼び、か…で、一体どんな?」
「姿を見た者はいないんですが、とにかく『おおい』と人を呼び寄せて返事をした者を襲うんだそうで、山の連中は必ず『おおい、おおい』と二声続けて呼び合うんです。それが流儀だ、と」
雲二郎は「わかった」と頷いた。そっと立ち上がり、今も彼らを呼び続ける声を目指して忍び足で近づいていく。
決して呼び掛けには答えない。
敵は様々な声色を使い分けてくる。「おおい」「おおおいっ」「ほういっ」男の声、女の声、子供の声、時に叫ぶように、時に笑いながら、あるいは泣きながら。
「ちっ、まるで九官鳥みてえな野郎だな、一声呼び」
声色は様々なれど、聞こえる方向は一点。次第に声は大きくなる。
「近づいてきたな…」
間近に聞こえる「おおい」の声。
「すぐ近くだ…」
息をひそめる雲二郎と庸司。
にわかに甲高い笑い声が聞こえた。目と鼻の先。
「うひっひひひ」
ピタリと声は止んだ。笑い声も、呼び声も、消えた。
代わりに、またあの冷たい風が吹き込んできた。凍り付くような静寂を包むように、うっすらと霧がかかる。
「妖気、妖気だ…」
二人が身構える。
突然、落ち葉を舞い上げて地面から何者かが一斉に飛びかかってきた。考えるまでもなく反射的に雲二郎は刀を、庸司は槍を突き出していた。
「ちっ。また、だ…」
今度は野兎。
一斉に穴から飛び出した野兎たちは、雲二郎たちの刃の犠牲になった何匹かをあっさりと見捨て、驚きに目を飛び出させながら耳に痛い鳴き声を残して逃散していった。
「ん?」
続けて庸司の足元の落ち葉がガサガサと音を立てはじめた。
「今度は何だ…んっ、うあっ、あっ」
大量のマムシ。
冬ごもりに入ろうかという時期なのに、やたら動きが速い。毒液を吐き散らしながら庸司の身体に巻き付いて登ろうとする。かなりの数だ。
「なんだよ一体これ」
足の踏み場も無いほどに、一面のマムシ。斬っても斬ってもキリが無い。庸司を執拗に狙っている。
「たまらんっ、助けてくれ」
逃げ出す庸司、追うマムシたち。
「うっ、来るか…」
雲二郎もマムシの標的に。
シュルシュルと鱗が擦れる音が近づいてくる。大きく飛んで襲いかかってくるものも。
「やり切れん、こりゃ」
雲二郎は腰元の道具袋から丁字と龍脳を取り出し火を点けた。濛々と白煙が舞い上がる。蛇の類は刺激臭を極端に嫌う。この二つの香は特にキツイ匂いを出すため撃退には効果的だ。
「むやみな殺生も避けたいものだしな」
みるみるうちにマムシたちは姿を消した。
狙い通りの妙案にホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、香の白煙が収まった頃、雲二郎は予期せぬ事態に汗を噴き出させていた。
「どこだ、どこに行ったんだ…庸司」
マムシに気を取られている間にはぐれてしまった。あちこち見回しても誰もいない。静寂がまるで雲二郎を嘲笑しているようにさえ感じた。
「どうせその辺にいるんだろ、庸司…」
あちこち歩いてみたものの、山は物音ひとつしない。日も落ちかけた深い山中、静寂は孤独感に拍車をかける。
「庸司…」
「お前。ひとりぼっち、だな…」
どこからともなく声がした。いや、声が聞こえたように感じただけかもしれない。
ひゅう、と風が吹き抜ける。あの、冷たい風だ。
(風の音がそう聞こえさせたのか…)
いや、違う。確かに聞こえる。むしろ雲二郎の心に直接語り掛けているような声。内側から心臓を握られた気分になる。
「…誰だっ」
「ふふふ、お前はひとりぼっち…」
足元から鳥肌が立つ。
さらに謎の声は、まるで雲二郎の耳元で囁くように。
「もう、帰れない。帰れないぞ…」
背筋が凍るような悪寒。ブルブルっと体が自然に震えた。
日も落ちかけて、森が薄暗さを増す中、自身の鼓動だけがやけに大きく感じる。
「おおいっ」
また何か聞こえる。今度は別の声。
右の林からハッキリと叫んでいる。
「おおい、大丈夫かあっ」
雲二郎の顔に安堵の色。
ふうっとため息をひとつ。
「庸司…そっちにいたのか。安心したよ」
すぐに、今度は左の林から声が。
「雲さんかい? そこにいるのかい、雲さん」
明らかに庸司の声。
(ん? 右からも、左からも…?)
雲二郎が首をひねる。
もう一度、右の林からも声。「おおい」と。
すぐさま左の林から返答が。こちらは明らかに庸司の声。
「おおい…」
雲二郎は青ざめた。
「右の声は、もしや…」
「ぎゃああああっ」
二度、耳が痛くなるような絶叫が左の林から。そして再び、凍り付くような静寂。
「今の叫びは…庸司」
「うひひひ」
謎の笑い声だけが残った。
間違いない。一声呼びに返事をしてしまった庸司は、栄吉同様に殺られた。
「庸司まで…」
唇を噛む雲二郎。本当にひとりぼっちになってしまった。
辺りは深い霧に包まれ見通しはどんどん悪くなる。強くなる風に木々は激しく騒めく。
視覚も聴覚も遮らてゆく中、孤独感が募る。
あの声が、語りかけてくる
「怖いか。怖いだろう…」
つづく




