絶景
2
僕はリビングにあるテレビの前に座って、夜のヒーロー特番にくぎ付けになっていた。
視覚を通して映像が伝えてくれる情報は、空想上のことだと鼻で笑われる事件でも、これは現実に起こっていることなんだと教えてくれる。
テレビに映し出されているのは、臨場感溢れるものだった。
倒壊したビル。
舞う砂埃。
地面に出来た巨大なクレーター。
総動員された警察官の緊迫した面持ち。
それらとは相反して、紅き鉄拳グレンというふざけた仮面を顔に被っているヒーロー。
――紅き鉄拳グレン。
高い戦闘力でランク8にまでなった国家公認のヒーローである。
政府からの要請があれば、悪魔を倒しに、どこへでも駆けつけるのが、国家公認のヒーローの仕事だ。警察とはまた別の、ヒーロー課に所属しているので、平たく言うと公務員に近い。かっこよく言えば専門家だろうか。
もう戦闘はすでに終わって、紅き鉄拳グレンがインタビューを受けている。
「今回の悪魔はどうでしたか?」
「雑魚だな」
「仮面を取ってもらえないでしょうか?」
「諸事情によりそれは出来ん」
「傷は痛みますか?」
「もう治った」
「さすがヒーロー!」
「当たり前だ。俺はヒーローだからな! 世界の平和はこの俺、紅き鉄拳グレンが守る!」
自身に親指を立てながら紅き鉄拳グレンは威勢よく発言した。
「言いたいことはそれだけだ!」
まるでプロレスラーのような捨て台詞を吐いた。そして次の瞬間、ヒーローの紅き鉄拳グレンは、コンクリートが捲れる程、強く踏み込んで飛翔した。群衆の頭上を越えて、可憐に去っていく。
群衆は、野次と歓声が同時に飛び交っていた。
野次を飛ばす人たちはどうも理解できない。悪魔から助けてもらったのにも拘わらず、どうして酷い言葉を浴びせるのだろう。確かにビルを壊したのは紅き鉄拳グレンかもしれないが、命を救ってくれたのだから、感謝するのが道理というものだ。
映像は局内のスタジオに切り替わった。
学者やら、妖怪の専門家やら肩書を持つ人たちが、椅子に座っている。
そしてアナウンサーが、口を開いた。
「十一月三日、午後六時二十九分に出現した悪魔は、ワイバーンと呼ばれる飛龍です。これをご覧ください。カメラがとらえた映像です」
画面は再び切り替わる。
CGなどではなく、実際の映像だった。
ドラゴンに似ていたが、見比べてみると重厚感がなく、随分と痩せこけていた。爬虫類のような頭部で、細い腕と同化した薄い膜のような翼によって都会の空を飛んでいる。ヘビのような尻尾には毒があると解説者は言っていた。
なるほど。どうやら、これがワイバーンという怪物らしい。
体長は翼や尻尾を入れると五メートルを超え、人としては大柄なグレンが小さく見えた。
人の手には負えない悪魔だ。
そして、ヒーローの戦闘シーンは圧巻だった。
ワイバーンに噛みつかれるが、そのまま灼熱の炎を拳から発火させ、下に殴り、地面に叩きつけた。呻いているワイバーンをビルに向かって蹴り飛ばし、ワイバーンは淡い光となって消えるが、ビルは崩壊。
休日ということもあり、死者は奇跡的に零だった。
負傷者は数多にいたが、その場に居合わせたヒーロー月夜によって治癒を施されていた。
月夜は青い服装に身を包み、長い黒髪で《永遠の聖処女》と謳われている。
永遠の聖処女月夜。
国家から認められていない非公認ヒーローだ。
公認がプロであれば、非公認はアマチュアということになる。
ランク7のヒーローであり、公認になれば、さらにランクは上がるだろうと言われている。しかし、月夜は「このままがいいです」の一点張りで公認をわざわざ断っているらしい。
仮面をつけているので、その容姿は不明だが、絶世の美少女に違いない。
月夜の周辺は、コンクリートから草花が芽を出し、緑が生い茂っていた。彼女には生命を操る能力があると言われている。
何もかもが非現実的で、僕の好奇心を擽った。
二〇一五年から、世界各地でこのような現象が多発している。どこからともなく悪魔が現われ、人や街を襲うのだ。
ヒーローと呼ばれ、悪魔を退治しているのは、世界に一〇二四人しかいない。
日本には公認十二人、非公認一〇八人、合わせての一二〇人のヒーローがいる。
国家公認のヒーローが十二人しかいないのは、月夜のように非公認ヒーローが断っているのではなく、認定基準がかなり厳しいからだ。自称ヒーローでは決してなり得ない。
一般人はヒーローに憧れ、僕のような弱者であれば尚更、眩しい存在になる。
ヒーローになりたい。
それが、僕の夢だった。
「はい。時間切れ~」
妹はそう言うと、ヒーロー特集はまだ始まったばかりなのに、リモコンを操作してチャンネルを変えた。切り替わったら、音楽番組が丁度始まった。
画面には派手な装飾を身に纏った、カリスマミュージシャンの練磨がアップで映っている。笑うとみせる白く光る歯が、とてもさわやかだ。
萌は、僕の買ってきたプリンを食べていた。黒のマジックで名前だって書いてあるのに、平然と食べている。
「それ、僕のプリンなんだけど」
苦笑いで僕は言った。両刃の刃物のように慎重に扱わなければ、痛い目に遇ってしまう。
「なに? 文句でもあるの?」
「……いや」
「ふん。あんたの所為で、練磨様を五秒間も見逃しちゃったじゃない」
「すいません」
いくらヒーローに憧れていようとも、所詮は夢のような存在で、僕はけっしてヒーローになれない。別に憧れていなくても、カリスマミュージシャン練磨のようにもなれないだろう。クローズアップされるような主人公の器ではないんだ。
テーブルに置いてある今週号のヒーロー雑誌を手に取って、ページを捲った。
「どうしたら能力に目覚めるのですか?」
という記事を目にした。
多くのヒーローはこう答えていた。
「――人生を変えてしまうような運命的な出来事があったから、能力に目覚めたんだ」
そんなの嘘だと思った。読者に希望を持たせるためのリップサービスなのだろう。
理想と現実の区別くらい、馬鹿な僕でもよく分かっていた。
**
近すぎる天井で、よく頭をぶつける。
上半身を起こすだけで、頭にタンコブが出来上がり、二段ベッドの下にいる妹に「うるさい」と蹴り上げられるのは、洗練されたコントのようになっていた。それで上段のベッドが下に落ちてしまえば、最高なのだけれど、あいにく、二段ベッドは頑丈に作られているので、僕だけが痛い目にあうだけだ。
僕と妹の萌は、お互いが思春期に入っても、未だに共同で部屋を使っていた。
高校二年生の盛んな男子と、中学三年生の生娘が同じ部屋で夜を過ごすというのは、いろいろ問題がある。
僕は別にいいのだが、むしろ可愛い妹といれて嬉しいのだが、萌はそうではないらしい。
二つの机と、二段ベッドだけで空間の殆どが埋まって狭苦しい部屋で、身体を捻じらせないと通れない通路は、もはや園嵜家の名物だ。萌の友達は園嵜家に遊びに訪れると、必ずこれをみて大いに笑う。
萌は、不満しか溢さない。「どうしてうちはこんなに狭いのよ!」「キモい」「さっさと失せろ」が口癖で、不満を垂れたって部屋の広さは変わらないのに、一日に何度も言う。
勉強机を処分してしまえばいいという案もあるが、機動性と勉強机を天秤にかけると、勉強机のほうが重い。僕たちがこの窮屈さに慣れてしまっているのだろう。
両親はプライバシーとかを盾にして、各々一部屋を持っている。譲ろうともしない。
こちらが思春期を武器に攻め込むと、二言目には「昔は仲良く二人で使っていたじゃない」と言い、納戸からアルバムを取り出してくる。確かに、幼い頃は楽しくやっていた。アルバムを見ても三人の表情は幸せそうだ。
――が、今現在の写真を撮って、見比べて欲しい。
それで分かるだろうが、僕は死んだ魚の目になってしまったし、萌は部屋の中では二十四時間、顔をしかめている。
なにより、身体と心が成長して、あの頃とは違うのだ。
両親を説得出来ないと確信したのか、萌は「あんたが消えてしまえばいいんだ」と凄まじい目付きで、実の兄である僕を睨んで言った。
僕の名は園嵜了なのだけれど、もうずいぶんと、「あんた」呼ばわりだ。
昔は、「お兄ぃ」と可愛らしく呼んでくれていたのに。
僕と萌は血が繋がっているかも怪しいくらいに、全く似ていない。
萌は兄の僕からみても可愛い。きりっとした目がチャームポイントで、どの角度から見ても彼女の容姿は整っている。茶の混じった黒髪で、ポニーテイルがよく似合っているが、それ以上に、寝る前に髪をおろし、麗しい長髪の姿をみせてくれるのが僕は好きだった。顔をしかめていないで、愛想よくしていれば完璧だろう。秋の普段着は、水色のパーカーと短パン。パジャマはだらしなくなるからという理由で着ない主義らしい。
「萌。そろそろ明かり消すぞ」
僕は上のベッドから顔を出して、萌に言った。
「さっさと消せよ」
萌は手短に、冷たい口調で返答した。これでも優しい返答の部類に入る。かれこれ、このような関係が五年間も続いて、家族のような繋がりはないに等しい。
優しくしてくれとお願いしたところで、さらにきつい言葉が返ってくるのは目に見えていた。
電燈についてある紐を引いて、明かりを消した。
布団の中に潜り込み、目を閉じた。しかし、目を閉じても、明かりの消えた部屋で目を開けても、暗いのは同じなので、ぱちりと目を開いた。普通ならおねんねだが、僕には寝る前にやるべき事がある。
――さあ、日課を始めよう。
寝る前に、ベッドの上でする事といったらあれしかない。
妄想だ。
明日は体育でバスケがあるので、設定をバスケに決めた。場所は学校の体育館。クラスの女子が見ている中、男子は班対抗で試合をする。
リズムのあるドリブルで、次々とクラスの男子を抜き去る。全てが遅く感じる。最後に構えていたバスケ部の峰岸を抜こうとするが、中々隙をみせないので、フェイントを一度、二度混ぜて、峰岸の体勢を崩し、もう僕のシュートを止めることが可能な者はコートにいない。平常心を保ったまま膝を深く沈め、シュートを放つと同時に、ばねのように膝を伸ばす。身体全体で放たれたボールは、一種の芸術のように美しい湾曲を描き、金具に触れることなく、高らかに設置されているゴールに吸い込まれた。その瞬間、ブザーが鳴り、対抗試合は、逆転勝ちで幕を閉じる。峰岸は茫然とし、クラスの女子は歓声を挙げる。今、まさに僕は主人公となっている。
僕は妄想の余韻に浸った。ボールがストンと落ち、ゴールのネットが僅かに揺れるあの光景を思い描いてしまったら、胸の高鳴りが止まらない。
明日の体育が楽しみだ、なんてことを考えながら眠りについた。
しかし、現実はあまくない。
翌日の体育の授業。
僕のいるAチームは圧倒的に負けていた。Aチームにはバスケ部のエース、峰岸がいるのだけれど、相手のBチームは僕に守備をつけず、峰岸に二人もつけていた。峰岸を主体としているAチームは、得点源をなくし、一桁しか点数がとれていない。
一方、Bチームには廻間桂吾がいた。S高の生徒会長であり、類稀な運動神経をかわれ、様々な部活の助人もしている。バスケも例外なく強かった。
僕はノーマークで、コートにいた。
馬鹿にしやがって。目に物見せてやる。やってやる。イメージは出来ているんだ。
だけれど、僕は十往復くらいで、息を切らしていた。バスケを楽しむどころではなく、駆けることが苦痛で仕方なかった。早く時間が過ぎてしまえと願うが、そう願えば願う程、時は遅くなる。身体が思うように動かない。マリオネットのように、糸で操られているみたいだ。
「園嵜!」
「はい?」
朦朧とした意識のまま、声のする方を向くと、ボールが迫っていた。反応するが間に合わず、顔面に直撃する。想像以上にバスケットボールは堅く、唇が切れてしまった。
歓声しているクラスメイト達の爆笑が聞こえてくる。
「何やってんだ!」
峰岸は、怒鳴りながらこぼれたボールを拾いに行くが、相手チームの廻間桂吾に取られてしまう。
峰岸は切り返しが早く、廻間の前に立ち塞がった。
二人は睨み合った。
廻間は不気味にゆっくりとボールを弾ませた。瞬間、小細工などせず歩くようにドリブルをしながら、峰岸を抜き去っていた。
僕には何が起こったのかよく分からなかった。
バスケ部の峰岸が、集中して構えているにも拘わらず、動けなかったのだ。峰岸は、抜かれていることさえ気づかなかったようで、視界から突然のように消えてしまった廻間を探していた。
そして、ネットが揺れる。
クラスの女子の歓声はあがっているんだろうけど、僕の耳には全く入ってこない。息荒く、棒立ちしたまま、空になった。
生まれて初めて妄想上でしかなかったダンクをみたのだ。
ダンクをした廻間の姿は――。
それはまさに、理想の自分だった。
**
体育の授業が終り、皆汗をかいたまま教室に帰って、制服に着替える。女子は更衣室で着替えているので男子しかいない。黒板には体育の授業の前にあった数学の内容が白いチョークと赤いチョークで書かれてある。
「くそぉ。園嵜がいるから勝てねぇじゃんか!」
着替えていると、峰岸の嘆きが聞こえてきた。峰岸は上半身のままで飲み物を飲んでいる。身体に自信があるのだろう。僕はというと、家で筋トレをしているのに貧弱だ。あまり人に見せたくない。僕は身体を隠しながら、着替えていた。
「こんなはずじゃなかったんだけどな。ははは」
僕は峰岸に言った。
実は体育の授業でバスケがあるので、家に帰っては、一人公園で練習していたとは告白できるわけがない。ましてや、妄想で何度もシミュレーションを行っていたなんて口が裂けても言えない。
「まぁ、ふざけてないのは分かってるけどよ、せめて、パスをとれるくらいにはなろうぜ」
「本気を出したんだから、いいんだよ。僕はこれで満足だ」
上には上がいる。下には下の生き方がある。僕は割り切っていた。
「それ、自分で言ったらだめだろー、全く。それにしても廻間はすげえな。またバスケ部の助っ人にきてくれよ。ダンクが出来る高校生は、全国でも中々いないからな。てか、入部してくれ!」
「んー。俺には生徒会があるから」
廻間はやんわりと断った。
廻間桂吾は、なんでもそつなく熟してしまう、いわゆる天才というやつなので、色々なことを任されている。日本人離れした端整な顔立ち。それでいて、スポーツ万能、学年トップの成績、S校の生徒会長、仲間からの信頼も厚い。
僕とは対極に位置する。
白と黒くらい違う。
僕の人生は挫折ばかりで、善いことなんて一つもなかった。
努力をいくらしても、結果が実らない。人よりも劣っているところがあまりにも多すぎるので仕方ないと、やっと最近気が付いた。身長は平均だが、体重が大きく下回り、力も体力も女性並か、それ以下だ。やる事成す事全てが駄目な方向に進んでしまう。
緊張すればするほど思考回路は追いつかなくなり、最後には頭の中が真っ白になってしまう。そして、呪われたように手が震え、自分の身体なのに上手く制御ができない。
だから、よく人から笑われてきた。
この立ち位置で構わない。
僕をみて笑ってくれればいいのである。周りが優越感に浸って、少しでも幸福になってほしい。あのニヤついた笑顔を向けられるのには、今でも慣れないし辛いが……。
だけれど、僕には現実逃避する術がある。
早々と制服に着替え、椅子に座って机に伏せた。まだ騒ぎが収まっていない教室で、僕は湯船に浸かるような気分で妄想をする。
――ここはまさに、ハーレム帝国。
学校の可愛い子たちが王である僕を囲い、こぞって気を引こうとしてくる。えりすぐりを揃えたハーレム帝国だが、とりわけお気に入りの女の子が二人いる。
中坂キリエと安城麻衣だ。
中坂キリエは学校で最も美人だと評判の先輩だ。元生徒会長という肩書をもっている。新入生への挨拶の際、体育館の壇にあがった彼女を見て、心を奪われた。この世にこれほど美しい人間がいていいのだろうかと、神様に訊いてみたくなった。
妄想で創り上げた彼女は、さらに美化された記憶で神々しいまでになっていた。僕にとって中坂キリエは女神なのだ。ルーヴル美術館でモナリザをみても、中坂キリエのように美しいと表現するだろう。
その女神が、僕の前に居て、スカートを穿いていた。
ハーレム帝国の王は風を吹かせ、スカートを捲る能力があった。だから、王の権限で、女性にスカートを穿く義務を課したのだ。
僕はパンツも飛んで行ってしまいそうな勢いで吹き荒れる神風を発生させた。
「お止め下さい。園嵜様。わたくしめのスカートを捲らないで下さいまし!」
妄想の中のキリエ先輩はスカートを抑えて言った。
「貴様が、スカートを穿いているのが悪い」
「それは義務であります。私のせいではございません」
「誰だ! そのような、義務を課したのは!」
「貴方でございます! 園嵜様」
「ああ、そうであった。しかし、まあ、よいではないか。貴様も我にスカートを捲られて嬉しいのだろう?」
「どうして、それを!?」
「至極当然の事。王が国民の気持ちを察してやらんで、何が王だ。我はハーレム帝国の王であるぞ」
「ああ、園嵜様」
「お待ちくださいまし!」
と女性の声が聞こえたので、風を吹かすのを止めた。声のする方を振り向くと、安城麻衣が今にも泣きだしそうに震えていた。
「安城か。何事だ? 我は今、お楽しみなのだ。返答次第では、どうなるか分かっておるな?」
「そ、園嵜様。酷いであります。麻衣にはそのようなご褒美をしてくれたことがないのに、隠れてするなど。キリエ! 抜け駆けは許しませぬ。麻衣にも、麻衣にもご褒美を!」
「なるほど。それで呼び止めたか。吹き荒れろ。神風よ! ふはははは」
高笑いをして、二人のスカートを風で捲っていたら、世界が突然、揺らぎだした。
虚しい現実世界で、誰かが僕の肩を叩いているんだろう。
「ねえ。園嵜君」
「……」
ここは寝たふりだ。今はとても楽しいのだ。このあとは二人とイチャイチャするのだ。ここで、やめてたまるか。
「ねえねえ。起きてよ」
誰だ! 我の神聖な一時から呼び覚ますのは! いや、まて。この声は――
僕は起き上がる。話しかけてきたのは、隣の席に座っている安城麻衣だった。ついさっきまで妄想していた相手が、僕に屈託のない笑顔を見せてくれている。
僕の席は窓側の後ろから二番目のところだった。プリントを後ろから回収する役目もなく、最高の座席だった。安城麻衣がいるのだから、最高の二乗だ。
「安城。なんかごめん。ははは」
「え? なんで謝るの? なんで笑うの?」
「いや、直ぐに、もうそ……じゃなくて、夢からさめなくて」
「夢、見てたんだ。そうだったら謝るのはこっちの方だよ。起こしちゃってごめんね」
「いやいや」
たとえ、妄想の事がばれたとしても安城は許してくれるだろう。
安城はとても心優しい女性だ。
「でも、直ぐに夢を見ちゃうなんて、お疲れだったのかな? 体育の時間一番頑張っていたからね」
「頑張ってないよ」
普通の人が簡単に熟すことを、僕は必死になってやらないと出来ないから、頑張っているように見えているだけだ。頑張るっているのは、人並み以上にやることを言うんだ。
「園嵜君はとにかく頑張ってるの!」
「なんだかさ、イメージと違うんだよね」
と僕は言った。
「どういうこと?」
「イメージするんだ。頭の中で事前にやってみて、その中なら簡単に、そして完璧にできるんだけどさ、現実になると身体が思うように動かなくて……。まるで、自分の身体じゃあないようなんだ」
「私だってよく理想の自分を作るけど、現実では上手くいかないよね」
それはそうだろう。誰だって、想像することは出来る。だけれど、悩みの次元が違う。創り上げた世界では、僕はヒーローなんだ。あの世界では僕が最も優れているのに現実では最底辺にいる。この差はなんだろう。やはり、現実は現実なんだろうか。だけど、このもどかしい気持ちはなんだ? ふっと、理想の自分に生まれ変わってしまう気がしてならない。
「園嵜君って、悟っちゃってるよね」
安城は笑っていた。
「悟りの境地にいるね。仏様だって、僕に手を合わせるさ」
「うーん」
「どうした?」
「後光が見えない」
「これを聞けば、きっと見えるようになるさ。僕は幸せになっちゃいけないような感覚があるんだよ。理由は特にないけれど」
「ど、どす黒い光が見えるよ!」
「今頃かよ」
「あっ、先生がきた。これで今日は終わりだ。やった!」
HRが始まった。
先生は報告事項を述べているが、僕は上の空で、窓を意味もなく眺めていた。
いつからだろう。人を信用できなくなったのは。こんなに優しい人にも、疑いの眼差しを向けてしまう。僕はもうだめなのかもしれない。人として一番欠けてはいけないところが、遂に欠け落ちてしまったんだろう。
先生に礼をして、ほとんど同時にチャイムがなる。周りはこの後どうするか話していたり、部活に行く生徒は荷物を抱えて、部室に行ったり、昨日のヒーロー特集の話をしていたり……。「ゲーセン行こうぜ」「どっかで飯食いに行くか」「ヒーロー惨状……」「ヒーローが惨状しちゃいかんだろ。参上だ!」
そんな会話が聞こえてくる。
僕もこんな学校生活を送りたい。鞄を持って帰ろうとすると峰岸が隣にいた。
「じゃあな、園嵜」
峰岸は僕の肩ではなく、背中でもなく、後頭部を叩いて言った。
「じゃあ」
僕の扱い何て所詮こんなものなのだ。
僕はとぼとぼと廊下を一人で歩く。
すると後ろから優しく肩を叩かれた。
「あ、園嵜君。この後予定とかある?」
安城は僕に言った。
「ないけれど」
「それなら、ちょっと付き合ってくれない?」
「暇だからいいけど……仕事でもあるの?」
「とにかく、行こう」
安城は僕の手を取って、強引に出発した。なんだか、人肌の温かさを久しぶりに感じた。
あっという間に、学校の外に出てしまった。すっかり行事の仕事の手伝いだと思っていたので、もうどこにいくのか見当もつかない。
「安城って、テニス部じゃなかったっけ? 部活はどうするの?」
手を引っ張られながら覚束ない足取りで、僕は安城に訊いた。
「今日は休むっていってあるから心配しないで。なんだか、ずる休みしちゃった気分だよ。あっ、これってずる休みか。初めてずる休みしちゃったなー。なんだか、どきどきするね」
「僕は帰宅部だから、よく分からないな」
「じゃあ、罪と罰は園嵜君と折半だからね」
「どうして僕が……」
「緊張感は分かち合いたいでしょ?」
「罪と罰はいらないけどね」
「それじゃあ、どきどきは生まれないよ」
いいや。僕はもう、君に手を繋がれた時点で胸が高鳴っていた。
歩道の横には、車道が並行して続いている。ガードレールが無いので、僕は車道側を歩いた。住宅、塾、ビル、店など建っている。
通学路の外れには、山に向かう道があった。舗装された道を進むにつれ、目に見えて道路の作りが粗くなり、雑草などが生い茂るようになる。遂には茂みの中に入ってしまった。
安城は鼻歌を軽快に刻みながら、迷うことなく進んでいく。だから僕は安城について行った。一時間以上歩いただろうか。空の色が淡い赤になってきた。秋だからか、最近夜が来るのが早くなっている。僕は夜が好きだから、とてもいいことのように感じた。
「着いたよ」
安城は足を止めた。
そして、僕は圧倒的な景色に、言葉を失った。あまりの美しさに、邪悪な感情が浄化されていく。草木を額縁に、夕日で赤く塗られた海と空が、上下に等しく分かれている。魚産業や観光で栄える活気のあった町は、夜に向けて準備をするかのように静かになっていた。完成された一枚絵のようだった。
――今まで、醜いとしか思ってこなかった町がこんなにも美しい自然に富んだところだったとは……僕は今まで全体何を感じ、何を知り、何を見てきたのだろう。いくら妄想したところで、この壮美な景色を描ける筈が無い。
「私がS校に来た理由は、近くにこの山があったからなんだよね」
安城は絶景を眺めて、独り言のように呟いた。
「……」
僕は立ち尽くして、別世界のような景色だけをみていた。
「この場所は誰にも教えたことがいない秘密の場所なんだけど、園嵜君には特別ね。大切な思い出の詰まった場所だから皆には内緒にしておいてくれるかな?」
「どうして、僕なんかに」
やっと、我に返った。
「元気になって欲しかったんだ。どこか上の空で、それでいて辛そうだったから」
「それはしょうがないよ。もう分かっているだろうけど、僕は人として劣っているところがありすぎるんだ。周りと比べていると憂鬱になるし、周りも僕と比べるから馬鹿にされる」
「実はね、私も小学校の頃は暗かったんだよね。多分、園嵜君くらい」
「嘘だよね?」
嘘を吐いたことがない安城の言葉が、信じられなかった。
「ホントだよ。私と同じ小学校だった子に訊けば、今の私と過去の私は別人だって言うと思う」
「そういえば時間は人を変えてくれるっておばあちゃんが言っていたっけ。僕はマイナスに向かって逆走中だけど」
「じゃあ、昔は明るかったんだ」
「そうだね。マシだったと思う」
僕は昔の自分を思い出した。昔は、妹も慕ってくれて仲が良かった。友達も数えきれないほど、たくさんいた。不安になってしまう程幸せだった。この幸福を分けてあげたいと思っていた。
しかし、ある日突然、自分が自分ではなくなってしまった。年をとるにつれ、自分はこういう人間なんだと理解するのだけれど、僕は最底辺の人間だったのだ。分かってしまった瞬間、生きている意義が分からなくなってしまった。
「子供の頃って美化されるものじゃないかな? だって、自分は世界の中心にいて、世界中の人間から愛されているって錯覚してしまうし。烏滸がましいにも程があるけど。それで、歳をとるにつれて、色々な人と出会って、自分を知るようになるんだ」
僕は廻間桂吾に出会って、諦めがついた。努力をしようなどと抗うことさえも諦めた。あいつは異常なのだ。諦めるのが賢明な選択だ。
「ねえ、園嵜君は私のことどう思う?」
「漫画に出てくるヒロインくらい綺麗だし、優等生で頭もよくて、誰とでも仲良くなれる活発な人だと思う」
僕が言うと、安城は嬉しそうに笑う。
「でしょ? 口を揃えて皆から言われる。いいなーって。安城さんみたいになりたかったって」
「……気に障ったなら謝るよ。鬱陶しかったかな?」
「全然。むしろ嬉しい。私もそうなりたかったから、その人たちの気持ちわかるんだ。――ほら。私、昔は暗かったって言ったでしょ?」
「うん」
「この場所で、ある人に出遭って、今のままじゃあ、あの人に告白すらできないから変わろうと誓ったんだ。それで今の私がいるの。たまに、ここにきてまたあの人に出遭えないかなって神様にお願いしていたりするんだけどねー。神様は薄情だからすれ違いの毎日だよ」
「その人のこと好きなんだ」
「好きっていうか、憧れかな?」
「そうなんだ」
好きなんじゃないか。好きな人がいたのか。
「私はずっと待っているんだよね。あの人と同じくらいかっこよくて、強い人がいたら今度こそ告白するんだ。その為に、変わったんだから」
「クラスにイケメンはたくさんいるけど?」
「そうかな? 容姿だけでしょ? 案外、薄っぺらいよ。チヤホヤされて楽に生きている男なんて尚更だよ。その点、園嵜君は強いと思う。将来、きっとビッグな男になったりして」
僕を励まそうとしてくれている。
彼女はきっと僕の気持ちが分かるからこんなに構ってくれるんだ。なんだろう。この言いようのない苦しみを僕は知らない。胸はいつも痛いのだけれど、今回は締め付けられるような痛みだ。
おそらく、この景色を拝むことは、今まで積み上げてきた不幸が帳消しになってしまうくらいの幸運なんだろう。幸福だから胸が痛いのか? いいやそれは違う。いつまでも自分に向き合わないでどうするんだ。
だけれど、安城と僕ではどうしても釣り合わない。
「だからさ――」
安城は僕の前にきた。
夕日の淡い光が重なり、風で安城の髪が靡き、絶景にとけ込んでいく。
「幸せになっちゃいけないだなんていわないでよ」
僕は唇を噛みしめて、涙をこらえた。泣いてたまるものか。女の前で見せる涙ほど、みっともない涙はない。潤んだ目で映る彼女は、まるで空から舞い降りた天使のようだった。
現実はやっと微笑みをかけてくれた。
生まれ変わろう。
強くなろう。
かっこよくなろう。
そして、僕は――。




