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夫を始末しなければ、私が破滅してしまう  作者: 逆立ちハムスター


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目覚めたら詰んでいたので、夫を物理的に排除しようと思います

 目覚めた瞬間、私の脳内を駆け巡ったのは、優雅な朝の光でも、小鳥のさえずりでもなく、ギロチンの刃が落ちる幻聴だった。


「…………は?」


 天蓋付きの豪奢なベッドの上。最高級のシルクで設えられたシーツを握りしめ、私は己の額に冷たい汗がびっしょりと浮かんでいることに気がついた。

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。まるで、今まさに処刑台から逃げ出してきたかのような、生々しい恐怖と絶望の余韻。

 私は震える手で自分の首元に触れた。繋がっている。滑らかな肌がある。血は流れていない。

 しかし、脳内に流れ込んできた『記憶』は、それが単なる悪夢ではないことを告げていた。


「思い、出した……。私、前世は日本のしがないOLで……過労で倒れて……」


 そして今、私が存在しているこの肉体。

 鏡を見ずともわかる。腰まで届く、うねるような真紅の髪。血のように赤い唇。そして、吊り上がった気の強そうな黄金の瞳。

 私の名前は、ルシアナ・フォン・オブシディアン。

 この国、アステリア王国の影の支配者とまで囁かれるオブシディアン公爵家の女主人であり——生前、私が狂ったようにプレイしていた乙女ゲーム『聖女の祈りは星空に届く』、通称『星祈ほしいの』に登場する、最大の悪役令嬢である。


「嘘でしょ……よりによって、ルシアナ……?」


 私はベッドの上に崩れ落ち、頭を抱えた。

 ルシアナ・フォン・オブシディアン。彼女はゲームにおいて、ヒロインである聖女を徹底的にいじめ抜き、数々の陰謀を企てる典型的な悪役令嬢だ。高慢で、残酷で、嫉妬深く、金と権力にしか興味がない。

 そして、何より最悪なのが、彼女の『夫』の存在だった。


 オブシディアン公爵、ルファス・フォン・オブシディアン。

 彼はゲームにおける『隠し攻略対象』であり、同時に『裏ボス』でもある。

 漆黒の髪に、氷のように冷たい青い瞳。神が精魂込めて彫り上げたような絶世の美貌を持ちながら、その本性は冷酷無比。政敵を躊躇うことなく粛清し、『氷の死神』と恐れられる男。

 ルシアナとルファスの結婚は、完全なる政略結婚だった。二人の間に愛など微塵もなく、互いに利用し合うだけの冷え切った関係。


 問題はゲームの展開だ。

 ヒロインが他の王太子や騎士団長のルートに進んだ場合、ルシアナは数々の悪事がバレて、最終的に『ギロチン処刑』『毒杯』『国外追放からの野盗に襲撃されて死亡』などの凄惨なデッドエンドを迎える。

 では、ヒロインがルファスのルート(隠しルート)に進んだ場合はどうか?

 ルファスはヒロインの純粋さに惹かれ、真実の愛に目覚める。そして、自分の妻であるルシアナがヒロインをいじめていたことを知ると、激怒。愛するヒロインを守るため、そして過去の清算のために、ルファスは自らの手で妻であるルシアナを切り捨てるのだ。それも、ギロチンなど生温い、文字通り『肉片一つ残らないほどに切り刻む』という、CERO(年齢区分)ギリギリの惨殺描写と共に。


「詰んでる……。どこをどう転んでも、私だけ惨たらしい死を迎えるじゃない……!」


 私はベッドの上でゴロゴロと転げ回った。

 現在、私がルファスと結婚してまだ一ヶ月。ゲームの舞台となる王立学園にヒロインが入学してくるのは、半年後だ。

 つまり、半年後から私の破滅へのカウントダウンが始まる。


「逃げる? いや、無理よ。オブシディアン公爵家の情報網は王室以上だもの。密航しようが辺境に隠れようが、三日で捕まって『公爵家の面子を潰した』として秘密裏に処刑されるわ」


 ルファスは自分の所有物が勝手に逃げ出すことを絶対に許さない、異常な執着心の持ち主だ。愛情はないが、所有欲だけは異常に強い。


「じゃあ、円満に離婚? ……もっと無理。あの男にとって結婚は強力な魔力を持つオブシディアンの血を残すための義務。跡継ぎを産む前に『離婚したい』なんて言えば、精神的におかしくなったと判断されて、死ぬまで塔に幽閉されるルート確定よ」


 ヒロインが誰と結ばれようと、私が改心して大人しくしていようと、このままルファスの妻でいる限り、彼が政争に巻き込まれる過程で私は必ずトカゲの尻尾切りとして殺される。ゲームの強制力が働くのか、ルシアナはどう足掻いても『悲惨な死』を迎えるようにプロットが組まれているのだ。


 私はガバッと上体を起こし、乱れた真紅の髪をかき上げた。

 前世の私は、理不尽な上司の要求にも耐え、毎日終電まで働き、ついに過労死したのだ。

 今世でも、理不尽なシナリオの都合で惨死するなんて、絶対に御免だ。私は私の人生を、穏やかに、平和に、そして何より『生きて』全うしたい。


 逃げるのもダメ。離婚もダメ。現状維持も死。

 すべての選択肢を吟味した結果、私が行き着いた結論は、極めてシンプルかつ論理的なものだった。


「……そうだ。ルファスに死んでもらえばいいんだわ」


 ポン、と手を打つ。

 そう、ルファスが死ねば、私は『若くして未亡人となった可哀想な公爵夫人』になる。

 オブシディアン公爵家の莫大な財産を相続し、表舞台から「悲しみに暮れている」という理由で身を引き、風光明媚な領地の奥深くで、イケメンの執事でも雇って優雅なスローライフを送ることができる。

 ヒロインが誰と恋に落ちようが、魔王が復活しようが、辺境の領地に引きこもっていれば関係ない。

 すべての破滅ルートの元凶は、ルファス・フォン・オブシディアンという男と婚姻関係にあることなのだから。婚姻関係を解消する唯一にして最も安全な方法は、彼を『自然な事故、あるいは病』に見せかけて、この世からログアウトさせること。


「決まりね。私の平和な老後のために、旦那様には早急に天に召していただきましょう」


 私は鏡に向かって、悪役令嬢らしい、酷薄で美しい笑みを浮かべた。

 幸いなことに、ルシアナの記憶には『暗殺』に関する知識が豊富にあった。彼女は政敵を排除するために、毒物や罠に関する書物を読み漁っていたのだ。今ならそれが役に立つ。


 時は満ちた。

 私の、私だけの生存を賭けた、壮大な『夫暗殺計画』が今、幕を開けたのだ。


 その日の午後。私はさっそく行動を開始した。

 標的は、書斎で執務に追われている私の夫、ルファス・フォン・オブシディアン。


 私はメイドに命じて、最高級の茶葉を使った紅茶を淹れさせた。そして、誰も見ていない隙を狙い、懐から取り出した小さな小瓶の蓋を開けた。

 中に入っているのは、無色透明の液体。

 これはルシアナが密かに温室で栽培していた魔界の植物、『静寂の雫』から抽出した猛毒だ。

 この毒の恐ろしいところは、無味無臭であること。そして、摂取後すぐには効果が現れず、数時間後に『急性心不全』と全く同じ症状を引き起こして対象を死に至らしめることだ。魔法による鑑定でも、ただの心臓発作としか診断されない、完全犯罪のための奇跡の毒。


「ふふふ……これをごく自然に飲ませれば、今日の深夜には、私は悲劇の未亡人よ」


 私は紅茶のカップに『静寂の雫』を三滴、ポタポタと落とした。液体はすぐに紅茶と混ざり合い、完全に姿を消した。完璧だ。

 私は表情を引き締め、慈愛に満ちた良き妻の顔を作ると、銀のトレイを持ってルファスの書斎へと向かった。


 コンコン、と重厚なマホガニーの扉をノックする。

「……入れ」

 扉の向こうから、チェロの低音のような、鼓膜を震わせる美しい声が響いた。

 私は一呼吸置き、静かに扉を開けた。


「旦那様、お仕事の邪魔をして申し訳ありません。少し休憩なさってはいかがかと思い、紅茶をお持ちしましたわ」


 書斎の奥、山のように積まれた書類の向こう側に、私の夫は座っていた。

 窓から差し込む午後の光が、彼の艶やかな漆黒の髪を照らしている。氷のように冷たく、しかし吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、書類から私へと向けられた。

 相変わらず、無駄に顔が良い。顔面偏差値だけで国が一つ傾きそうなほどの美貌だ。しかし、その内面は血も涙もない冷血漢なのだから、神様も意地悪である。


「ルシアナか。……珍しいな、君が自ら茶を運んでくるとは」


 ルファスは微かに眉をひそめた。当然の反応だ。これまでのルシアナは、ルファスに対して高圧的で、自ら甲斐甲斐しく世話を焼くような真似は一度もしたことがなかったのだから。


「私たちは夫婦ですもの。旦那様のお体を気遣うのは、妻として当然の務めですわ」


 私は心の中で(さあ、飲め! そして死ね!)と呪詛を吐きながら、最高に美しい微笑みを浮かべて、彼の机にティーカップを置いた。

 芳醇な紅茶の香りがふわりと漂う。


 ルファスは私の顔と、カップを交互に見つめた。

 ……バレてないわよね? 毒見なんてされないわよね?

 心臓がバクバクと音を立てるが、私は必死に平静を装った。


「……君が淹れた茶だ。ありがたくいただこう」


 ルファスは長い指でカップの持ち手をつまみ、ゆっくりと口元へ運んだ。

 ゴクリ。

 彼の喉仏が動き、紅茶が、いや、致死量の猛毒が彼の体内へと流れ込んでいく。

 一口、二口と飲み進め、彼はカップをソーサーに戻した。


「ああ、素晴らしい香りだ。少し、疲れが取れた気がする」

「それは良うございました(計画通り! これで今夜、あなたは心臓発作でサヨウナラよ!)」


 私は内心でガッツポーズをした。完璧だ。あまりにもあっけなく成功してしまった。

 ルファス、あなたの顔は良かったけれど、私の生存のためには仕方なかったのよ。来世では私と関わらない平和な人生を送ってね。


 そう思いながら、私が退室しようと踵を返した、その瞬間だった。


「……ッ!?」


 背後で、ガタン! と椅子が倒れる激しい音が響いた。

 振り返ると、ルファスが自らの胸を激しく掻き毟りながら、床に崩れ落ちていたのだ。


「えっ……!?」


 私は目を丸くした。

 おかしい。『静寂の雫』は遅効性の毒のはずだ。効果が出るのは数時間後の夜中のはず。なぜ、飲んですぐに苦しみ出しているの!?

 ルファスの顔は苦悶に歪み、その口からは、ゴボッ、ゴボッ、と黒い血のようなものが吐き出されていた。


「だ、旦那様!? 誰か! 誰か来てちょうだい!」


 私は慌てて叫んだ。マズい、マズい、マズい! こんな私と二人きりの密室で、しかも私が持ってきた紅茶を飲んだ直後に死なれたら、いくら証拠が出なくても私が真っ先に疑われる! 未亡人スローライフどころか、即刻暗殺犯として牢獄行きじゃない!


 バンッ! と扉が開き、廊下に控えていた護衛の騎士たちと、公爵家専属の老医師が血相を変えて飛び込んできた。


「ルファス様!? 一体何が!」

「先生、早く診てちょうだい! 旦那様が急に苦しみ出して……!」


 私は泣き真似をしながら、老医師にすがりついた。心の中では大パニックである。

 老医師は素早くルファスに駆け寄り、その脈を測り、吐き出した黒い血を観察した。

 その直後、老医師の目が驚愕に見開かれた。


「こ、これは……まさか……!!」

「先生! ルファス様はどうなのですか!」


 騎士が急かすと、老医師は震える手でルファスの胸元を指差した。

 苦し気に咳き込んでいたルファスの呼吸が、次第に穏やかになっていく。そして、彼の顔に広がっていた、長年の過労とストレスによるものだと思われていた青白い顔色が、信じられないほど血色の良い、健康的な肌色へと変わっていったのだ。


「奇跡だ……! 長年、ルファス様の命を削り続けていた『瘴気の呪毒』が……完全に浄化されている!!」

「……はい?」


 私は間の抜けた声を漏らした。瘴気の呪毒? 何それ。ゲームの知識にそんな設定あった?


「皆様もご存知の通り、ルファス様は幼少期に政敵から強力な『瘴気の呪毒』を受け、常に心臓に爆弾を抱えた状態でした。私でも進行を遅らせることしかできず……。しかし、この吐き出した黒い血こそが、体内に巣食っていた呪いの根源! それがすべて排出されたのです!」


 老医師は感極まったように涙を流し、私の方をバッと振り返った。


「奥様……! ルファス様がお飲みになったこの紅茶、微かに魔界の植物『静寂の雫』の香りがします。まさか……奥様はご所有だったのですね!?」

「えっ? あ、いや……」


「『静寂の雫』は単体では超がつく猛毒ですが、ルファス様を蝕んでいた『瘴気の呪毒』と反応することで、互いの毒性を完全に打ち消し合い、浄化の霊薬へと変化するという古の伝承……! しかし、その調合は一歩間違えれば即死に至るため、誰も試すことができなかった禁忌の治療法……!」


 老医師は床に跪き、私に向かって深く頭を下げた。


「奥様は、ご自身の命運すら懸けて、密かにこの禁断の治療法を研究しておられたのですね……! 万が一失敗すれば、奥様が暗殺の罪を被ることになる。そのリスクを背負ってまで、ルファス様を救おうと……! おお、何という深く、海のような無償の愛!!」


 「…………ええ(裏声)」

 待って、待って、待って、待てい!

 私が毒殺しようとしたら、それが偶然、ルファスが昔から抱えていた不治の病(呪い)の特効薬になっちゃったってこと!?

 というか、隠し攻略対象にそんな重い隠し裏設定盛るなよ公式!!


「ルシアナ……」


 ハッとして顔を上げると、床に倒れていたルファスが、ゆっくりと身を起こしていた。

 彼の呼吸は安定しており、纏っていた冷たい氷のような空気が嘘のように消え去っている。代わりに、彼の青い瞳には、これまで一度も見たことがないほどの、熱を帯びた強烈な感情が渦巻いていた。


「ルファス様、ごごご無理をなされては……」

「退がれ。……お前たち、全員だ」


 ルファスの低い声に、騎士たちと老医師は「ははっ!」と敬礼し、感動の涙を拭いながらそそくさと部屋から退出していった。

 扉がパタンと閉まり、広い書斎に私とルファスだけが取り残される。


 マズい。気まずい。

 私は作り笑いを浮かべながら、ジリジリと後ずさりした。


「あ、あの、旦那様……お体が良くなられて、本当に、本当に良かったですわ……。で、では、私はこれで……」

「待て」

「あっ……」


 ガシッ!

 逃げようとした私の腕が、力強く引き寄せられた。

 次の瞬間、私はドンッとルファスの広い胸の中に閉じ込められていた。


「えっ……ちょ、旦那様!?」

「……なぜだ、ルシアナ」


 頭上から降ってくる声は、微かに震えていた。

 見上げると、あの『氷の死神』と恐れられるルファス・フォン・オブシディアンが、目を潤ませ、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。


「君は、俺を憎んでいると思っていた。政略結婚で縛り付けられ、俺に愛されることもなく、常に不満を抱えていると。……それなのに、君は、俺の誰も知らない病気を調べ上げ、自らの手を汚し、罪に問われる覚悟で俺を救ってくれたのか……?」

「い、いえ! そんな大層なことでは……(ただ毒殺しようとしただけです!!)」

「誤魔化さなくていい」


 ルファスは私の言葉を遮り、ギュッと、私の身体が砕けそうなほど強く抱きしめてきた。


「俺は……愚かだった。君の冷たい態度の裏に、これほどまでに深く、狂おしいほどの愛が隠されていたことに気づけなかった。君は、不器用なだけだったんだな……」


 違う。不器用とかじゃなくて、純粋な殺意だよ。


「許してくれ、ルシアナ。君のこの海よりも深い愛情に、俺は今日、この命をもって応えよう」

「えっ……」


 ルファスは私の顎を指ですくい上げ、強引に上を向かせた。

 間近に迫る、超絶美形の顔面。彼の青い瞳は、もはや氷ではなく、私を焼き尽くすほどの灼熱の炎と化していた。明らかに、ヤバい類の執着の火が灯っている。


「愛している。君が俺に身を捧げてくれたように、俺も君にすべてを捧げよう。君を害する者はすべて俺が殺す。君の望むものはすべて俺が与える。もう二度と、君を離しはしない……」


 熱を帯びた吐息とともに、彼の唇が私の額に、頬に、そして……。

 私は心の中で絶叫した。


(違うぅぅぅぅぅぅぅ!! 私は未亡人になってスローライフを送りたいだけなの!! なんで私の完全犯罪(暗殺計画)が、こんな重すぎる溺愛ルートのフラグになってるのよおおおおお!?)


 私の最初の暗殺計画は、不本意極まりない『奇跡の治療』という形で大失敗に終わった。

 しかも最悪なことに、この日を境に、ルファス・フォン・オブシディアンの私に対する態度は、冷酷な夫から『妻を崇拝し溺愛するヤンデレ一歩手前の狂犬』へと、劇的なルート改変を遂げることとなってしまったのである。

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