前編
天狗には、親がいる。
当たり前のようだが、家族がいない鬼にはわからないことも多い。
「なあ、親父さんてさ、大天狗だから山で一番えらいんだろ?」
以前、大天狗は、鬼が隣の山にいるらしい、と、ふもとの人間から退治を頼まれたが、いざ見てみると自分の子、つまりこちらの天狗と同じ年頃の鬼を見て驚いたらしい。
もちろん人に危害を加えていないことを確認した上で、言葉も不十分で読み書きは言わずもがなという鬼に対して、愛情を持ち、実に色々なことを、ゆっくり、かつ、きっちり教え込んでくれたのだ。
今では、天狗と将棋をさせるほどになった。まあ、勝てるかどうかは読み書きとは別で、頭の回転が大事みたいだが。
そんな鬼は、大天狗をひたすら尊敬している。
しかし、いずれ大天狗が引退し、目の前にいる若い天狗が跡目を継ぐのが山の決まりらしいということを、烏天狗たちから聞いて最近知ったのだ。
一番偉い大天狗がなぜずっと偉いままでいてはいけないのか。一人で暮らす鬼には、世襲の本質は理解できないのだ。
「親父さんがずっと仕切ればいいだろ、なんで変わるんだよ」
「まあな、お前が言いたいこともわかるし、俺も重責は負いたくないんだけど」
天狗は、跡取りらしくなく、飄々と言う。
「お前、うちの一族に興味はないだろ?急にどうしたんだよ」
日が当たる縁側の将棋盤上で、天狗は淡々と駒を進めながら、ちらと鬼の顔を見た。
鬼は、天狗の繰り出す隙のない手にいちいち考えこむので、勝敗は見えているのに対局が進まない。
まあ、こうしてのんびり話すために、将棋を指しているようなものだから構わないのだが、鬼も同じことを考えていたようだ。
「だってよ」
やっと一手が決まったようだ。あー、そこは駄目だよなと天狗は思うが顔には出さない。
「お前が親父さんくらい偉くなったら、こうして気軽に遊べなくなるからさ…」
思わず口角が緩む。
天狗は16歳になった。
山で最初に鬼と会ったとき、4歳の天狗と背格好がほぼ同じだったので、鬼も同い年、すなわち16歳ということになっている。
だが、言うことは幼子のままだ。気を許した相手ということもあるが、愚直と言えるくらいに言いたいことが言えるのは、生来の気質なんだろう。
両親の元で恵まれて育った天狗は、むしろ逆だ。
愛情を受けているのがわかる分、直接、親に我が儘を言ったことがない。
たまに、鬼に向かって愚痴はこぼすが、あくまでも冗談まじりだ。
しかし、付き合いも長い鬼は、わかってるのかわからないのか、天狗が求める返事を返してくれる。
大天狗が鬼を救った格好になっているが、救われたのは、竹馬の友を得た天狗の方なのかも知れなかった。
「まあまあ、代替わりはまだ先だよ。烏天狗たちが噂してるのは、ちょっと違う話だ」
王手を指しながら言う。
え?あ?うわー、と鬼が頭を抱えて、拗ねたような顔をする。
天狗が容赦なく鬼を負かして鬼が悔しがるというのは、この天狗の屋敷に出入りする者たちにとっては見慣れた光景だ。
いま、屋敷には、天狗の母親がいるが、もうじき離れて暮らすことになる。多少さみしいような気持ちはあるが、これこそ、鬼には迂闊に言えない。
目の前の鬼は、母親そのものを知らないのだ。それでも、逞しく生きている快活な友を、天狗は時たま、すごく羨ましく思う。
「なに?嫁?」
鬼は、饅頭を食べていた大きな口を、さらにあんぐりと開けた。
将棋のあとは、一服するというのがすでに長年の習慣になっている。
勿論お菓子とお茶は、天狗が用意したものだ。鬼はいかにも興味津々といったふうに、身を乗り出した。
目の前にいる、自分と同い年の若い天狗の口から、まさか嫁という言葉が出るとは。
「すぐじゃないけどさ」
天狗は、お茶をすすりながら、ひとごとのように話をする。
「うちは15か16で独り立ちする慣例なんだけど、烏天狗が補佐につくことになってて」
うんうん、と鬼が首を勢いよく縦にふる。
「その補佐役と条件が合えば、夫婦にしてしまう場合が結構あるんだよねー。うちの親もそうだし」
お菓子を運んできたあと、奥に戻っていった自分の母の背中を見やる。
「ははあ…」
鬼が、頭の中で色々と考えを巡らしているようだが、何を考えてるかは手に取るようにわかった。
「美人かな」
目を輝かせたまま、天狗に向かって更に続けた。
「胸、大きいかな」
言うと思った。
しかし、そこに全く興味がなかったとしたら、跡取りの男子としてはむしろ問題だろう。
鬼などは、この二つが合格なら、多少性格に難ありだとしても男女関係としては乗り切れると、本気で思っている。
「まあ、理想は両方だよね」
天狗がしれっと言う。
そして、日が暮れるまでの間、美人だが胸が小さい場合と、顔は好みではないが胸が大きい場合、どちらとなら結婚したいかということを、天狗と鬼は、しばし本気で議論していた。
烏天狗は、大天狗を尊敬している。
仕事もできる。包容力もある。下っ端の自分に接するときにもきちんと目を見て話してくれる。
何より、ややいかつい顔が好みなのである。
彼女は18歳になった。
幼少の頃から、ひときわ艶やかな、文字通り烏の濡れ羽色の長髪、きりりとした目にやや厚い唇が、迫力のある美人顔に適度な色気をもたらしている。
そして、立派に成長したのは何よりもその肢体だ。
「奥様、どうして私が選ばれたんですか?」
山の頂上の、さらに木の上から、ふもとの村を一望しながらため息混じりに彼女は言った。黒い羽は軽く畳んである。
奥様、と呼ばれたのは、隣の木の枝に座っている妙齢の烏天狗だ。肩までの黒髪と落ち着いた笑顔に、年齢以上の余裕を感じる。
しかし、答える口調は極めて軽い。
「うーん、若い子たちの中で一番胸が大きいからかしらね」
脱力する。
そこか。やっぱりそこか。
2、3日前に、彼女は大天狗に呼ばれた。
神妙な顔の大天狗に、困り顔も素敵…などと見とれていると、大天狗は突然彼女の両肩を掴んだ。
「え?あの?長?」
好みの顔が、至近距離でじっと見つめているのだ。
普段若い天狗たちを文字通り蹴散らしている彼女からは想像できないほど、声も表情もしおらしくなってしまった。
「…うん、やはりお前しかいないな…」
愛の告白のようである。受けていいのか、いいんだろうな、待て、奥様がいるから妾になるのか?
人の中ではよく聞く話だが、そもそも天狗内ではそういうのが許されるんだっけ?
年頃の娘がどれだけ暴走した妄想をするかなど、大天狗は知らない。
「頼む」
頼まれてしまった。
ところどころ、妄想していて聞き逃した気もするが、どんなことでも長の頼みなら聞かなくては、と、無駄な意気込みのまま返事をした。
「わたしで、よろしければ」
言い切った。心臓が早鐘をうつ。
対照的に、大天狗は安堵の息を吐くと、力を抜いた。彼女の肩を掴んでいた手が離れた。
「そうか!いやあ、良かった。正直言うと、息子は若いのに達観してるふうだから、もう少し年上が良いかと思ってたんだが、家内に相談したら、お前が一番良いんじゃないかと言うことでな」
息子?
あのすかした若天狗のことか?
「まあ、合わなかったら、遠慮なく言ってくれ」
何が、と問う間もなく理解した。
大天狗ではなく、息子のほう、つまり若い天狗の嫁候補として指名されたのだ。
彼女は脱力した。
おそらく初恋であろう相手から、違う男の嫁になれと言われたのだから。
そして、自分を推薦したのは初恋の男性の奥様である。
立場上も気持ちの上でも、しんどい。
「お父さんはね、あの子はもう少し年上でもいいんじゃないかって言ってたんだけど、年が離れすぎても話が合わなかったら困るし。何より顔と体があの子の好みに一番合うのがあなたなのよね」
もしかしたら義理の母になるかもしれない人の発言だが、明け透けすぎて身も蓋もない。
要は、達観してるような、飄々としているような態度に見えても、やつも健全な青少年だということだ。
彼女にとっても、山の跡取りとはいえ、小さい頃はよく遊んで見知った仲であり、そう遠い存在でもない。
それだけに、嫁と言う言葉にかなりの違和感を感じるのだが。
「不満なのね」
長の妻は、彼女に対し、もっと年上の男性が好きそうだものね、と意味ありげに笑う。
相手が相手だし、そう言われてしまうと居心地が悪い。
しかしさすがに、長の妻であり息子を育てた母親である女性の眼差しは優しく、力強かった。
「良い子だから。よろしくね」
もう、頷くしかなかった。
夕日を背にして、大柄な青年が立っている。
「というわけで」
天狗の口調は相変わらず淡々としており、むしろ遠巻きに見ている鬼のほうがそわそわしている。
夕方、屋敷の庭先に来るよう、彼女に言っておいたからね~と、母親に言われたのはつい今朝方だ。
午睡のあと、また暇をもて余した鬼が来て、将棋をさしながら一通り話をしたところで彼女が来た。
「…よろしくお願いします」
彼女は天狗を見上げて言った。
思った以上に体格が良い。
小さい頃は、2歳も違うと手のひらを広げた分くらいは身長差があり、もちろん彼女のほうが大きかったが、今は逆に大人の手のひらほど、彼のほうが背が高い。
そういえばここ3年くらいは、近くでまじまじと見ることなど無かったように思う。
背も高いが、胸板も厚く、腕組みをして泰然とした姿は、16歳とは思えない落ち着きがある。
母親に似て穏やかな顔つきだが、それゆえに長にあまり似ていないのが残念に思えた。
「じゃあさ」
天狗は、今自分が立っている足元を指さした。
「明日から毎朝、朝食食べたらここ集合ね。よろしく」
え?
彼女は、何を言われているかわからなかった。
あれ?ここに暮らすんじゃないの?
寝食、その他色々と。とにかく生活を共にしてから、その先を決めていけば、と、あんたの両親に言われたんですけど?
天狗は、彼女が困惑しているのがわかった上で、事務的に話を続ける。
「自分のことは自分でやるし、飯も作れる。まあ面倒なときは作らないけど1食抜いたくらいでなんてこともないから、気にしないで」
帰っていいよ、と天狗に言われて、慌てたのは彼女ではなく鬼だった。
「え?なんだよ?今日からここに一緒に住むんじゃねえの?だってさ、せっかくのお相手で、しかも」
あからさまに、視線を彼女の胸元に注いで力説する。
「こんなだぞ!」
鬼のみぞおちに、彼女の下駄が素晴らしい勢いで吸いこまれた。
天狗とほぼ同じくらい体格がいい鬼でも、斜め下の死角から見事な蹴りを繰り出されては防ぎようがなく、蛙がつぶれたような声を出してその場にうずくまった。
「…もう少し下だったら危なかったなー」
「…うるせえ…」
憐れむような天狗の声が頭上から聞こえた、鬼は見上げる力もなく呟く。
そして、鬼の不躾な言動を窘めるでもなく、天狗も芝居がかったしかめ面をして言う。
「そうなんだよなー、父さんはともかく、母さんはなかなか侮れないんだよな。だって」
天狗は、彼女に向き直る。
「ここ数年は、誰かに言い寄られたことは無いでしょ?」
急に話が変わったが、あまりに自然に聞かれたため、彼女も、うん、確かにここのところは無いわ、気楽でよかったけど、と素直に頷いていた。
「2,3年前から、他の男が寄り付かないようにって、外堀埋めてたみたいなんだよね」
天狗が、彼女の頭から爪先まで、さっと視線を走らせ、うーんと唸る。
「でもなー。やっぱりなあ」
何が「でも」で、何が「やっぱり」なのかわからない。
しかし、一つだけはっきりしているのは、現時点で、自分は嫁候補から外されたということだ。
「まあそんなだから」
どんなだ、と彼女は声に出さずに突っ込む。
「明日から、昼間だけ俺と一緒に過ごすってことでよろしく、姉さん」
姉さん。
そう言われたのは、久しぶりだ。
「…見下ろしながらそう呼ばないでくれる」
3年前、彼女が15、天狗が13の頃、すでに身長が同じくらいになっていた。
姉さんと呼ばれ、同じ目線で話していたのに距離を感じたことを、なぜか今思い出していた。
「えー。じゃあ何もないまま帰ってきたの?」
残念がると言うより、面白がるような声の主は、烏天狗の姉だ。
すでに二十歳を越え、将来を約束した相手もいるが、束縛がいやだといまだに所帯を持っていない。
他の烏天狗たちも一緒に住まう屋敷の一室なので、少し声を落として会話をしている。
「悪い?」
なんと返していいかわからず、あさっての方向を見ながら言う。
もったいない!と、こちらは鬼とは違う意味で言われた。
「跡取り息子だよ、跡取り!何年も前から、皆いつ輿入れするのか待ってたんだよ!ちゃんとつかまえなきゃ!」
まくし立てられたが、彼女自身は最初から乗り気ではなかったし、幸運というよりは仕組まれていた事実もわかり、さらには姉をはじめ、自分以外の家族がそれを知っていたのも複雑な心境に追い討ちをかけた。
しかも、当の天狗本人の気持ちが、いまいちどころか全然わからない。
このまま話が立ち消えるのかなあ、まあそれでも構わないか、などと、漠然と考えた。
「でもさ、良い具合に育っだよね!若もいいけどさ、赤い子も」
鬼のことだ。小さい頃から、しょっちゅうこちらに来ては無邪気に騒いでいるが、その様子が可愛いと、年上の女性からは密かに人気があるというのは彼女も知っていた。
そして、体も成長して大人の雰囲気も纏うようになった彼のことを、一人の異性のお相手として意識し、実際に誘うお姉さま方がいるのも知っている。
「元々あの子、顔立ちは悪くないから。大きくなったら良い男になるとは思ってたけどね」
そうか?
まあ、見てくれは悪くないけど、なにせあの中身である。
「そそるのよね…」
姉はなにか思い出したのか、目をつぶりうっとりしている。
なにがそそるのか、彼女にはさっぱりわからないけれど。
そもそも、天狗と鬼は、小さい頃からよく一緒に行動しており、大抵の男子がそうであるように、複数人集まると行動の馬鹿さ加減に拍車がかかる。
言い得て妙だが、無意味さが増すのである。
そして、年齢が上がってくると、お決まりのように身近な異性にそれらしいちょっかいを出す。
最初は蛙だった。とかげの時もあった。そして、入れられる場所が後ろ襟から胸元に変わっていった。
「…うわっ」
思い出してしまった。
思わず、自分の着物の中を覗きこむ。
「なに自分の胸に見とれてんの」
姉が嫉妬半分、冗談半分で言うと、彼女も、肩が凝るしなかなか大変なのよと応酬する。
実際、胸のせいで嫌な思いも沢山してきた。
天狗や鬼よりも上で、彼女と同じ年頃かもう少し年上の異性からはもっと虫酸が走る言動を受けたが、泣き寝入りは性に合わず愛用の杖で力の限り応戦した。
まあその結果、美しさに強さが加わり、男性からの視線はもっと増えたわけだが、その頃には、跡取り息子の嫁として、すでに周知されていたというのも、なんとも皮肉である。
「別に、他に気になる男もいないんだったら、良いんじゃないの?」
姉の言葉も、確かに一理あるのかもしれない。
「でもねえ」
そういうことではないのだ。
密かに縁組みの準備がすすめられていたのは、姉にも確認したところ、やはり彼女が15、天狗が13歳の時だ。
何故、久しぶりに会うことになったのかと思っていたが、この顔合わせを兼ねてのことだったらしい。
その時にはほぼ止まっていた彼女の身長に、彼は追い付き追い越していった。
そして、年々増していくよそよそしさは、いつしか分別へと名前を変えて、たまに聞く跡取り息子の男振りを聞き流しながら、彼女は日々を過ごしていたはずだった。
そんな相手と突然結婚しろと言われたり、かと思えば本人からは追い出されるし。
「もう、どうしたらいいっていうの」
ため息をついた。