穏やかな時間1
穏やかな風が体を撫でる。頬をくすぐり、ゆっくりと停滞した時間が流れていると錯覚するような、そんな心地良い時間を得ながら、俺はただ目を閉じていた。
微睡み、彼女との記憶を見ながら、木材の匂いと少し固い感触に両手を触れさせ、何時ものように怠惰な時間を過ごそうと体制を作っていく。
「こら、お前は何時もそうやって、すぐに寝ようとするな」
微睡みの中の筈なのに、やけに近くで静寂を打ち破る声に軽く意識が向き、瞬間、頭部に衝撃が走る。
「ーーッ〜」
声にならない痛みを受け、安息を得ていた体制の手を、頭部を包むように移動させながら、ゆっくりと頭上に一撃を加えた主へと視線を向ける。
「お目覚めか?新藤 零司君、今日も快眠のようだな」
「お前は…その手に持っている広辞苑のようなでかい物体は何だ?」
頭を擦りながら、目の前で優しい笑みを浮かべ、両手に抱えるように持っている分厚い凶器を、胸に押しあて抱くように抱えたスーツ姿の女性を睨み付ける。
「ああ、これか…歴代の人物と事件の創刊号といった類いの、まあ…軽く1500ページ以上はある代物だが、それがどうかしたか?」
余裕の笑みを浮かべ、長身で、しかし太っているわけではなく、女性としての柔らかな肉付きのある、絶妙なバランスを保持した体を軽く揺らしながら俺を見やる。
「そんな凶器の話を嬉しそうに話すな!…普通それで殴る奴がどこの世の中にいるんだ?」
軽く目眩を覚え、一見すると、どこぞのモデルにいるような小綺麗な顔立ちで、しかし、不釣り合いな優しい目をこっちに向け。
「こら、再三言っているが…私は教師だぞ?その口調は大目に見ておくが、授業を寝て過ごすのは見過ごせないな」
淡い茶髪の短くまとまったショートヘアーの髪を、軽く撫でるように触りながら、困った奴だと表情で訴えかけられ、仕方なく俺は頭をかきながらーー
「ああ、悪かった。起きておくから、困った顔を止めてくれ…それとだーー」
億劫になりながらも、指で広辞苑のようなでか物を指しながら、俺はこう続ける
「その凶器で殴るのは止めろ…俺は丈夫だからいいが、他の奴は意識が確実に飛ぶぞ」
「ほほぉ?私の胸が凶器とーー君はそんな風に見ていたわけか?」
これ見よがしに、十分に凶器になりえるでか物の本と、それに潰され、しかし押し返そうとする二つの凶器を、楽しそうな顔と声で見せつける。
「…違う。断じて違う。おい、嬉しそうな顔をするな!この変態教師が!」
「怖い怖い、さて零司弄りもホドホドにして授業を再開するぞ…こら、そこーー携帯はもう閉じることだ」
注意された女子生徒が、慌てて携帯を閉まったのを見届けながら、優雅に教壇へと歩む教師の後ろ姿を見やり、クラスの連中がクスクスと笑う声を耳にしつつ、仕方なく俺は教壇へと視線を向けーー
ふと、何か温かいような…違和感を感じ、軽く視線を違和感のある方に向けると視線が交錯した。
一人の女子生徒が、じっと俺を見ていた。
濃い紫の肩までかかるウェーブの髪が視界に映り、穏やかな…微笑むような優しい表情をした女子生徒が俺の視線に気づき、軽く手を振る。
幼い顔立ちで童顔とも言える。大きな栗色の瞳と子供のように微笑む顔に、一瞬、俺は自分の横を見る。
この席は教室の一番奥で、窓際…窓から映るのは、穏やかな日の光と、鳥の鳴く声がリズムのように聞こえーー確認して、再度彼女へと視線を向けると、口に手をあて無邪気に笑う顔を見ながらーー
何だあいつ?と思いながらも、軽く手を上げ、後は教壇を眺めていた。
ボーとした時間がどれくらい過ぎたのか…周りの喧騒に気付けば、今が昼休みだとわかった。
体を軽く伸ばし、俺は席を立つ。何時もの場所へと向かう為だ。
教室を出れば賑やかな声と、仲間内で並び立つ生徒の合間を縫うように移動を開始。
階段を上がり、徐々に人が居なくなる気配を感じながら、ひたすら上の階へと進む。
目指すのは屋上…といっても、一般生徒や教師すら行かない屋上なのだが…まあ、あの扉を開けようとは誰も思わないだろう。
「新藤君」
急に呼び掛けられ、一瞬体が浮きそうになるが、階段に足を掛けた状態で踏ん張り、俺は声のした方を見やる。
「新藤君、奇遇だねーこの階に用があったの?」
無邪気に笑う表情で紫の髪の彼女は、親しそうに話かけてくる。
「ああ…少しな」
「ふーん、そうなんだ?私はーー」
誰だ?こいつはーー誰だ?教室にいたクラスの奴なのは、認識。しかし、親しく話かけられるような記憶は無い。
「ーーなんだけど…あ、また考えてる?もしかして、昨日の事かな?」
「……ああーまあ、そうだな。あーと、悪いが少し急ぎでな」
軽く手を上げ、話を終わらせ。立ち去ろうとするが、彼女はーー
「昨日はありがとう。私はーーそれを言いたかった…ううん、もう少し欲を言えばーー」
声のトーンがさっきと違う。しかし、俺には歩みを止める事は出来ず…階段の半ばに差し掛かった時に、俺はーー彼女へと、ただこう告げる。
「いや、助かったならいい。ほら、何か用事あるんだろう?俺は行かなきゃ行けなくてな。悪いな」
また階段を踏みしめ、歩きだす。階段の踊り場に差し掛かり、まだ階段と廊下の境にいる彼女へと視線を向けーー
俯いたままの彼女の表情は、解らなかった。そのままーー上へと進む時だった。
「零司君は…寂しくないの?」
独白のような呟きが、やけに耳に残った。