第六話 共同戦線
「わざわざ送っていただかなくても。緋ノ坂さんはこのまま新しい任務に入られるのでしょう」
「いや、構わない。送るだけだ」
翌日。日暮れ前に二人は京の北東方面に向かっていた。向かう先は北東の御門。帝側の入り口だ。
昨晩、影方の詰所にて頭・赤嶺に状況を説明したところ、しばらく考え込んだ後、件の陰陽師の話に乗って面屋の妖を退治することを命じられた。
緋ノ坂としては、赤嶺からは制されるものと思っていたためその判断は意外であった。
正直に言えば、雪凪を行かせたくない。しかし、任務は達成しなければならない。その間でもやもやとした感情を重ねながら緋ノ坂は歩いていた。
隣に歩く黒の裁付袴を纏った小柄な少女は、紅の玉の付いた髪飾りで括った髪を揺らしながら歩いている。表情に変化は無く喜怒哀楽の全てを感じさせないままだ。
「心配なんだよ。……その、兄貴分として」
緋ノ坂は照れた顔を隠すようにして、口元を摩った。
「そうですか、ありがとうございます」
対して、雪凪の表情は普段通り。緋ノ坂が雪凪と出会って三、四年ほどになるが、その表情が無機質なものから変わったことは殆どない。
御庭番・影方として必要なのは妖を退治するという任務の達成のみ。それ以外の考えや感情をすっかりと持っていないのが雪凪だった。
悲しみに濡れていたのはただ一度だけだった。
「……とにかく、任務に必要だから彼方側に行くだけだからな。終わったならすぐに帰ってこい。帝側に影方が長居をして良い事は無い」
「はい」
間も無くして着いた北東の御門は、門柱は深い藍色に塗られ、その上には瑠璃色の瓦を重ねた大屋根が載せられている。夕暮れの光を受けた瓦は、青から紫へと色を変えながら静かに輝いていた。
門の左右には白い石灯籠が並び、その中には青白い火が灯っている。
「この門を越えたら、禁中ということですね」
「ああ。俺もここまで来るのは初めてだが……門番はいないのか?」
「確かに、そうですね。これは、彼方側にはどう行けば良いのでしょうか」
門はしっかりと閉ざされたままで、周囲に門番の姿もない。雪凪が門に近づくと、途端にその火が膨れ上がった。青く目がくらむ程の火力に雪凪は反射的に目を閉じる。
「雪凪!」
緋ノ坂の声が、水の深くにいるように遠ざかっていく。
「緋ノ坂さん……?」
目を開けると、石畳の道が続いていた。一枚一枚が淡い青灰色をしている。石は夕陽を浴びて、氷のように反射していた。道の左右には、低く整えられた松が並んでいた。その枝には銀の飾りが施されており、しゃらしゃらと音を立てている。
潜ってきた門の方を眺めるが、門のすぐ彼方側にいるはずの緋ノ坂の姿は見えない。
「ここが……禁中」
まさに静寂。門を一つ越えただけで京の市井とは切り離されている空間になっていた。人々の賑わいは聞こえず、むしろ道には人が誰も歩いていない。
(空が高い。空気が違う)
真夏であり、太陽の出ている時間であるにも関わらず、空気は何処か冬を感じる。呼吸をすると、肺の奥に冷たいものが流れ込むようだ。あの門を境に、全てが区切られているようだ。
(陰陽師様もいらっしゃらない)
陰陽師に言われたのは、北東の御門へ来い、ということだけだ。
「待っていれば良いのでしょうか」
雪凪は基本、任務上の命令を是として扱う。逆に言えばそれ以外で自身の選択として優先させるものがない。
このまましばらく待とうと決めたその時、背後にちりっとした気配を感じた。はっと短刀に手を掛けて振り返るが、背後には誰もない。
(今、確かに視線を感じた気がしたのですが)
警戒したまま辺りを見てみるが、背後には門、先の道は一本道。隠れられるような場所は無い。しかし感じた嫌な気配に警戒をしたまま辺りを眺めていると、ふと、空から銀の蝶が舞い降りてきた。形から見てアゲハチョウのようだ。
ひらひらと舞い降りて、雪凪の前でくるりと回る。明らかにただの蝶ではない。しかし、それからは敵意は一切感じない。そして、次の瞬間には人の形に変わっていた。
「陰陽師様」
漆黒の髪に、深い深い色の装束。口元だけ僅かに笑ってる表情。
「来たか、御庭番の娘。……なんだ、そう殺気立つな」
雪凪の手が短刀に伸びていることに気が付き、陰陽師の男は言った。
「申し訳ありません。奇妙な視線を感じたように思いましたので」
「視線?」
ぱん、と陰陽師の男が手を叩くと、音が輪のようになり、二人を中心として周囲に広がった。
「誰もいないようだが」
「そう、ですか。申し訳ありません。では、勘違いかもしれません。……それで、ここからどのようにしたらあの妖を探せますか」
雪凪は短刀に伸ばしていた手を収めた。陰陽師の男は、話の早い雪凪に目を細めた。
「実体を失った妖は、霊力を求めて霊脈に近づこうとするはずだ。つまり、霊脈のいずれかを追えば、妖に近づけるはず」
「霊脈、ですか」
「京鎮大社と禁中を中心にして流れている。俺達のような陰陽師や、大社の神官達は全て霊脈を元に術を行っている。見せた方が早いな……このように」
陰陽師の男が手のひらを道にかざすと、その手を中心に葉脈のようなものが地下に走った。その色は、銀。雪凪の足元にも太い脈が走っている。
「これも視えているようだな」
「はい。これが霊脈、ですか」
雪凪は自身の草鞋で銀の脈をなぞるようにした。
「……ここからあの面屋の妖を追えるのですか?」
銀の色が反射して、雪凪の瞳には夕日の赤と、銀が混ざり合っている。
「これを使う」
陰陽師は、懐から面屋の男が残した狐面の欠片を取り出し、人差し指と中指で挟み、念を込めた。
ぱきり。小さく乾いた音がした。
欠片に残っていた赤黒い模様がじわりと滲み、そこから細い煙が立ち上る。黒い煙は宙を迷うように揺れた後、地を這う銀の脈へと吸い寄せられていった。
「……濁りましたね」
雪凪は足元を見下した。先ほどまで澄んだ銀色だった霊脈の一つに、一滴の墨を落としたような黒が混じっている。その黒は何かに引き寄せられるように蠢いている。
陰陽師は雪凪ではなく、彼女が見つめる先を見た。
「視えているな?」
「この道の下を北に向かっているのは視えます。この濁りが妖に繋がっているのですか」
「ああ。弱った本体の方は霊脈のどこかに身を隠しているはずだ。妖というものは、肉を失っても己の気配までは捨てられぬ。この濁りは本体の方に吸い寄せられていく」
「では、これを追っていけば宜しいのですね」
「その通りだ」
蠢くように黒の濁りは動いている。その方向を視ながら、雪凪は進み始めた。
二人で小走りに青灰色の石畳を進んで行く。
*
市井とは違い、禁中はどこまでも静かだった。代わりに聞こえるのは、松の枝に吊るされた銀飾りが触れ合う音と、水路を流れる水の音だけ。
ほんの時折、澄んだ露草色の装束を纏った者とすれ違う。その度に、相手は陰陽師の男を見ると道の端へ寄り、頭を下げた。同時に、異物を見る目で黒の裁付袴の雪凪を上から下まで眺める。そして揃って不快そうな顔を浮かべた。
明確な嫌悪感だった。
「気になるか」
当初雪凪は何に関する質問か理解できなかったが、「視線が」という主語を理解した。雪凪は黒の小袖を眺めて、いいえと答えた。
「ここではこの色は目立つのでしょう」
帝を指す色は、天青色。禁中に関わるものは全て青を基調として揃えられていた。影方の纏う黒は禁中には存在しない色だ。
「人は異物を嫌うものなのでしょう」
「普通はあれだけ露骨に見られれば、多少は腹を立てるか、居心地の悪さを感じるものではないのか?」
雪凪はもう一度、すれ違った者達の背中を見た。露草色の装束は遠ざかっていき、やがて角の向こうへ消える。
「任務には関係ありませんので」
「それより」と雪凪は足元へ視線を落とす。
暫く進むと、足元を走っていた太い霊脈が二つに分かれた。一方はそのまま北へ伸びているが、もう一方は細くなりながら東の小道へと入り込んでいる。雪凪の目には、その細い流れの中に墨を垂らしたような黒が混じっているのがはっきりと視えていた。
「こちらです。先ほどより濁りが濃くなっています」
雪凪が東を指すと、陰陽師の男もそちらへ視線を向けた。
「やはり連れてきて正解だったな、話が早い」
東へ進むにつれて、禁中の景色は少しずつ変わっていった。それまで規則正しく並んでいた松は途切れ、代わりに人の手が入っていない背の高い木々が増えていく。美しく敷き詰められていた青灰色の石畳にも薄く苔が生え、建物の数も次第に少なくなった。
「ここは?」
「古い祭祀場だ。昔はこちらでも霊脈を鎮める祭祀を行っていたらしいが、新しい社殿が出来てからは使われていない」
雪凪は周囲を見回しながら歩みを進める。木々の隙間から、小さな社が見えてきた。かつては鮮やかな朱であっただろう柱は色褪せ、屋根には濃い苔が広がっている。その脇には石組みの古い井戸があり、木蓋は半ば朽ちてずれ、下には光の届かない暗い穴が覗いていた。
そこへ近づいたところで、雪凪は足を止めた。小声で続ける。
「あの井戸、あの中に何かいます」
「井戸か。厄介だな」
霊脈に混じった黒い濁りは、間違いなく井戸へ続いている。しかし、その先にあるものは一つではなかった。昨日から追っている妖の残穢は、煙のように揺れながら霊脈へ絡みついている。それとは別に、井戸の底にはもっと深く、泥のように澱んだ黒が沈んでいた。
「ただ、気配が……昨日の妖とはもっと別の……違う妖がいるようです」
「ここまで来れば俺にも分かる。大物がいるな」
息が重くなるほど気配が重い。雪凪が普段退治している妖よりもさらに嫌な気配をまとわせている。
その時、かたり、と井戸の中から乾いた音がした。
二人の視線が同時に向く。風など吹いていないにも関わらず、周囲の木々がざわざわと葉を震わせ始めた。もう一度、かたり、かたり、と底から何かが這い上がってくるような音がする。
雪凪の手が腰の短刀へ伸びた。
「まだ斬るな」
男の声から、それまでの軽い響きが消えていた。
「面屋の妖でしょうか」
「奴もいる。だが、どうやら弱った身を保つために、この井戸に溜まった別の穢れへ取り付いたらしい。面屋の妖でない方には触れるな。刀で下手に散らせば、この辺り一帯へ穢れが広がる」
「では、面屋の妖だけを見つけます」
雪凪の返事とほぼ同時に、井戸の縁へ黒い指が現れた。靄の集合体で実体は無いが、しかしその集合体は人のものとは思えないほど長い指のようにと成り、一本、二本と増え、石を掴みながらゆっくりと身体を引き上げていく。しかしその上にぺたりと現れたのは、昨日砕けたはずの白い狐面だった。
『――みつけた』
粘つくような声が静かな祭祀場に響いた。
『――みつけた』
不協和音。自然界に存在しない、小刻みな周波数が耳を不愉快に揺らす。
『よく見える、お嬢さん。今日は、その目から食べてあげるよお』
すぐさま、雪凪が二本の短刀を抜いた。同時に隣で扇子が開き、銀の光が地を走る。
「《月縛》━━急急如律令」
白札が宙を舞い、井戸から這い出た妖へと真っ直ぐに飛んでゆく。
「俺があれの形を留める。娘、あの中から昨日の妖だけを見つけろ」
「承知しました」
銀の光は地中を流れる霊脈と繋がり、幾本もの細い糸となって井戸から這い出した妖へ絡みついた。それまで煙のように揺らいでいた黒い身体が、銀糸に締め上げられるたびに輪郭を取り戻していく。
『ぐ、うう……!』
妖は拘束を振り払おうと身体を膨らませ、黒煙の中から無数の腕を伸ばした。
雪凪が右へ踏み出そうとした瞬間、その足元すれすれを銀の光が抜けていった。攻撃ではない。雪凪の進路へ伸びていた二本の腕だけを銀糸が絡め取り、左右へ強く引き開く。
そこに出来た隙間へ、雪凪は迷わず飛び込んだ。
右手の短刀を逆手に返し、妖の脇腹へ刃を滑らせる。昨日ならば黒煙を裂くだけで終わっていたはずの刃が、今度はじゅ、と肉を焼くような音を立てて深く食い込んだ。
「斬れます」
「今は俺の術で形を縛っている。その間ならば、その刃も通る。ただし核は斬るな」
「分かりました」
言い終える前に雪凪は次の攻撃へ移っていた。頭上から振り下ろされた腕を身を沈めて躱すと、その動きに合わせるように白い札が頭のすぐ上を横切り、腕へ貼り付く。動きを止めたそれを足場にして雪凪が跳び、妖の肩口へ短刀を突き立てた。
別の腕が背後から迫っているが、しかしし避けるために身体を捻ることはしなかった。自分へ届くより先に、銀の糸がそれを止めると思ったからだ。
次の瞬間、予想した通り、爪は雪凪の背に触れる寸前で動きを止めた。そのまま一度も振り返らず、雪凪は刃を引き抜いて妖の懐へさらに深く踏み込んだ。
(……動きやすい)
戦いの最中にそんなことを考えたのは初めてだった。
緋ノ坂と組んでいる時とは違う。緋ノ坂とは長く任務を共にしているため、互いの間合いも癖も分かっている。それでも今、昨日会ったばかりの陰陽師と戦っているにも関わらず、雪凪は不思議なほど自分の動きを止められずに済んでいた。
右へ行けば、右側だけが開く。前へ出れば、進路を塞ぐ攻撃だけが止まる。自分が避けられるものには術が使われず、自分では処理しきれないものだけが銀の光に縫い止められていく。
まるで、自分が次にどこへ動くのかを知っているようだった。そして、それは陰陽師の男にとっても同じらしい。
「右から四つ来ます。上に三つ、左に二つ」
雪凪が告げると、返事を待つ前に銀糸が右へ走り、四本の腕をまとめて地へ叩きつけた。頭上には青白い結界が広がり、三本を受け止める。左の二本だけが残り、雪凪はそれを自分の刃で切り払った。
「……ほう」
男が小さく呟く。
術というものは、本来であれば人と合わせる方が難しい。札が飛ぶ軌道も、結界が閉じる瞬間も、霊力が流れる場所も、味方が一人いるだけで避けるべき場所が増える。しかし雪凪は、術が形になるより早くその流れを察しているのか、銀の光を邪魔する場所へ一度も踏み込まなかった。
むしろ、札の向かう先へ妖を追い込み、銀糸に捕らえられた腕を足場にし、男が術で作った僅かな空間を迷いなく使って前へ出る。
いつからか、どちらがどちらに合わせているのか分からなくなっていた。
雪凪が動くから術が道を作るのか。それとも、術が道を作るから雪凪がそこへ踏み込んでいるのか。
初めて共に戦っているというのに、妙に噛み合う。
「そのまま行け」
扇子が翻った。銀の糸が左右へ走り、壁のように重なっていた腕を一斉に引き開く。雪凪一人が通れるだけの隙間が、真っ直ぐ井戸へ向かって生まれた。
雪凪は迷わず走った。背後から妖が追う気配を感じるが、振り返らない。自分の背へ伸びた爪は一つも届かず、全て銀の光に止められていく。いつもならば視界の全てを使って敵の動きを追う雪凪が、今は前だけを見ていた。
井戸へ辿り着き、その縁へ手を掛ける。
夕刻はすでに終わりへ近づき、空に残る茜色も細くなっている。それでも、暗い井戸の底へ視線を凝らすと、黒い穢れの中に一本だけ異なる流れがあった。
面屋の妖から伸びた細い黒が、底へ沈んだ白い狐面の欠片へ繋がっている。その裏側には、脈を打つように赤黒い光が明滅していた。
「見つけました」
雪凪は琥珀の目を細めた。
「あれが核です」




